一合目 日本酒との出会い 3
「責任ってなにさ! それに、俺はあんたのことなんて知らないぞ!」
あまり女性から聞きたくなかった言葉に巧は慌て、男としては見苦しい言い訳が口を吐く。
しかし、それは仕方がない。実際、巧にとって、目の前にいる少女に見覚えはなかった。改めて彼女の姿を確認すると、自分と同年代だろうか、男子の平均身長と寸分の狂いもない巧より頭一つ分背は低く、大人びた顔つきであるが、魅力的な笑顔になりそうな幼さ残る雰囲気。藍色の着物で隠れてはいるが、それでもわかるバランスのとれたスレンダーなプロポーション。目が覚めた瞬間のことで気は動転しているが、こんなにわかりやすい美人を忘れるなんてありえないと思った。
「責任は責任です。私にあんなことをしといて、よく言い逃れしようとしますね」
「知らない、知らないって」
もし、本当になにかあったとするなら記憶がないことを恨めしく思う。
「だったら、これを見てください」
少女は巧の前に一本の瓶を持ちだす。
「これを見ても忘れたなんて言わせませんよ」
まじまじと見ても、どこにでもありそうな瓶だった。七百二十ミリリットルが入る、どこのスーパーにでもありそうな瓶に特別思い入れがあるわけではない。
「あきれました」
少女は、首を傾げる巧に辟易する。
「これはあなたのお父様が、あなたのためにプレゼントされた純米大吟醸酒『冷の雅』というお酒です。覚えてますよね?」
少女はにっこりと、それでいて相手に思い出さなければ許さないぞ! と、鋭い視線を投げる。
「あ、あぁ」
巧は曖昧に返事をすることしかできない。父親から成人の祝いだと贈られてきたが、正直な話、あまり嬉しくはなかった。一人暮らしの学生にとっては、カップラーメンやパックご飯の方が重宝するため、飲みもしない嗜好品は邪魔以外の何物でもない。
けれど、この場面でそんなことを言っては目の前の彼女が黙ってはいないだろう。
「あなたはこの大変貴重な日本酒に昨日なにをしたか覚えていますか?」
「いや、なにも」
「そう、なにもしなかったんです」
彼女は大きく頷いて、「だから、責任を取って下さい」と言葉を続けた。
巧には話が見えなかった。なにもしていないのにどうして怒られているのかがわからなかった。
巧の身に覚えがないという表情に納得いかないのか、彼女は怒りの原因を話し出す。
「昨日のことです。あなたは成人になったお祝いにと仲間内で家飲みをしていましたね? せっかく成人になったのだから今日からアルコールを飲もうぜ。みたいな空気でただバカみたいに騒いでました。その最中、祝いの席で一番飲まれなければいけないはずのこの日本酒には一切、目もくれませんでした。そうですよね?」
少女はまるで見ていたかのように巧を糾弾する。
「そ、そうだね」
「そして、この日本酒をその辺に放置して、グースカ、グースカ幸せそうに眠りこくっていやがりました。こういう飲み物は本来、冷暗所できちんと保管しておかないといけないんです。冷蔵商品を冷蔵しないでおくとどうなります? 劣化が早まりますよね。おいしくなくなりますよね? 日本酒も常温保存は可能ですが、きちんと保管しておかないと質が落ちます。最高の状態で飲んでもらいたいのに、それすらしてくれないことも私は許せません」
昨日は友人が買ってきたビールや缶チューハイで騒いでいた。珍しく、成人するまでアルコールを飲む機会のなかった巧にとって、正直な話、ビールは苦くてあまり好きではなかったが、カシスオレンジとかいう飲み物はジュースのようでおいしかった。
ロング缶を二本飲んだところで急激に眠気が襲ってきたため、いつもより割と早めに布団に入ったのだが、彼女はなにがそんなに気に入らないのだろう。
いや、そんなことよりも巧には気になることがあった。
「どうしてそんなことを知っているんだ?」
巧にとってはそっちの方が気になった。少し騒ぎすぎたかもしれないが、この部屋は角部屋で隣の住人も今はいないことも知っていた。もしや、下の階の住人が騒音に苦情を言いにきたのかとも思ったが、そうではないらしい。
「そんなの見ていたからに決まっています」
「どうやって?」
巧は思い返しても少女の顔は思い出せない。
「私はこの日本酒に宿る精霊、ササ・エレシオールです。実体化していなかったため、あなたには見えていなかったかもしれませんが、私はこの部屋の状況は常に把握していたんです」
「はっ?」
ササと名乗る女性のあまりにあまりな突拍子もない発言に巧はきょとんとする。
「あっ、その顔は信じていませんね?」
「そりゃ、まぁ。そう、だね」
サンタが現実にいないと知ったのは十年前。今年の夏には肝試しも行ったが、不思議な現象は起こらなかった。幽霊も宇宙人も見たことがない巧にとって、見た目同い年くらいの女性が人外であるとは到底思えず、一つの結論に至った。
「はいはい。帰って下さいね~」
巧はササを反転させ、背中を押しながら部屋から追い出そうとする。
覚えてないのもむりはない。彼女の話をこのまま聞いてしまえば、最終的にやたらと高級な壺を買ってとか、なんちゃら還元水を買ってとか強要されるに違いない。それを断ってもおかしな人たちが集団で家まで押しかけてきたりするだろう。彼女はその美貌で自分に近づき、油断させる、そういう類の女性だと判断した。
「ちょ、ちょっと、待ちなさい!」
「待ちません!」
巧は全力で彼女を部屋の外まで追い出し、急いで鍵を閉める。
「ふぅ~、これであんし」
「なんてことするんですかぁ」
確かに鍵は閉めたはずだ。けれど、彼女は何事もなかったかのように、巧の後をついてきた。
「な、なんで?」
異常な光景に、巧は口をあんぐりとあけたまま立っている。
「職人が精魂込めて作ったモノには魂が宿るという話はどこにでもあります。今だって、公にされていないだけで、そんな人の姿をした人とは違うものはそこかしこにいますよ。私も一人の職人に丹精込めて作られた、今の時代を生きる有象無象の一人なんです」
ササは巧の驚きを気にせず、自分の本体でもある瓶を愛でながら自分の生まれてきた経緯を語り、自分の存在を認めてもらうために一つの見たことを話し始めた。
「その表情はまだ信じていませんね。いいでしょう、今から、巧さんのこの部屋での行動を言い当てて見せます。私がこの家に来たのは五日前ですから、この五日間の出来事しか見ていませんけど、たとえば、三日前の巧さんの夕ご飯は豚肉に焼肉のたれをぶっかけたものと白ご飯。その日のおかずは『ドキッ、女の子だらけの剣道部で突きあい』でした。あ、これはおかず違いですね」
少女は可憐な顔つきからは想像できない冗談を言ってきた。
「それは今、ベッドの下にありますね。隠し場所はもう少し考えて方がいいですよ。他にも」
「もういい、もういいよ。っていうか、女の子がなんてことを言うんだ!」
巧は慌てた。自分の痴態を美しすぎる少女に見られたなんて思うと、恥ずかしくてたまらない。
「あの、その、いろいろマニアックすぎますし、私も女の子ですからあんまりそういうのを見られるのはどうかとも思うわけで」
ビデオの内容を思い出してか、ササは急に顔を赤らめ、巧から視線を外す。どうやら、言葉の恥ずかしさに、言った後、気づいたらしい。
「わかった、わかったから、もうそのことは忘れてくれ。っていうか、さっき追い出したのに、どうやって入ってきたんだよ」
「ん? それはドアをすり抜けてですよ。私、精霊ですので壁のすり抜けぐらいお手の物です」
ササはそう言って、部屋の壁に手のひらをつけると、「えいっ」と言いながら、そのまま壁に手のひらを押し込んだ。
「………」
完全に物理法則を無視した光景に巧は声が出なかった。これがイリュージョンでなければ、彼女の話を信じるしかない。というより、この行動の方が何倍も説得力があった。
「こんな感じです。どうです? 私が精霊ということを認めてくれますか?」
「認める。認めるしかねぇ」
「よかったです。こんなことで時間を使いたくはなかったので。では、話を戻しましょう」
ササはコホンッと一つ咳払いをして、真面目な表情に戻る。
「巧さんは昨日の宴席で、私のことをまったく見向きもしませんでした。私がなんのために、ここへきたのかわかりますか?」
「………」
「巧さんにおいしく私を頂いてもらって、おいしかったと言われるためです」
「そうか、わかった。それ飲むから、そうしたら消えてくれるんだよな」
投げやりな巧の言葉に、ササもカチンときた。
「うふふふふ~」
不気味に笑い、ササは両手で巧の首を囲むように輪を作り、その首を絞める。
「あ、あの、なにを?」
徐々に力が加えられるが、巧は身動きができない。
「このままあなたが息を引き取ったらどうなるんでしょうねぇ。誰にも見つけられず、ただ何日も放置プレイ。私は人の目から消え、犯人は見つからず、あなたはただ不自然な死を遂げる」
「ちょ、ちょっと待ってくれないか」
「辞世の句くらいは認めましょう」
「どうやったら許してくれますか?」
巧は声が出せる前に助けを乞うた。情けなくてもいい。命の危険がすぐそこに迫ればみっともなくても助かりたいと思うのが常だろう。
「そうですね~」
ササは考える仕草を見せるがその握力は緩まってはくれない。
「私は悲しいんです。昨日の光景はおそらく、特別なものではなく、あなたたちの周りでも普通にある光景なんでしょう。昔、といっても、数十年前くらいですけど、その時代の大学生の一人暮らしなんて雀卓にタバコ、一升瓶なんて常備されているようなものでしたけど、あなたの家にはなにもありませんね」
見た目が若い清楚そうな少女から似合わない単語が発せられる。
「本当は、先ほど言ったように私をきちんと飲んで頂ければいいと思っていたんですけど気が変わりました。まずは巧さんの周り、若い人たちから日本酒の良さを知ってもらいます。なので、巧さんには日本酒の良さを広める伝道師になって頂きます。もちろん、巧さんに拒否権はありませんよ。わかりましたね?」
巧は息苦しさを覚えながらも、小さく首を縦に振る。その反応にササは納得したのか、ようやく巧を解放した。
「さてと。まずは巧さんに私たちのことを知ってもらわなければいけませんね。では、そこに正座して下さい」
ササは床を指差し、巧は大人しく従った。フローリングの上の正座は嫌なのだが、命に危険が迫るわけではない。彼女の沸点を見極めるまではなるべく穏便にことを進めてもらおうと思った。
「まず、巧さん。日本酒の始まりについてはご存知ですか? その始まりは諸説いろいろありますが、私の中では西暦一世紀頃に成立した―――」
ササはとても満足気な表情で説明をし始めるが、どうしてあまり興味のない説明を聞いていると眠くなるのだろうかと、巧は現世に意識を留めることに注力し、肝心の話はまったく耳に入ってこない。
まだ九時を回った時間というのもあるのだろう。普段昼過ぎに起きることもままある大学生にとっては、こんな講義にも似た語りは子守歌でしかない。
なんとか我慢していたが、とうとう船をこぎ始めたところでササも自分の自己満足な行動に気づいた。
「すいません、すいません。私としたことが。いきなりこんな話をしたって興味をもたれるわけないですよね」
きちんと自分たちのことを知ってもらいたいと思うが、相手に興味を持ってもらえなければ自分がどれだけすごかろうと意味がない。
ササは巧の態度を咎めることはせず、自分のアプローチの仕方がまずかったと謝った。
「そうですね。まずは巧さんも成人になったわけですから、日本酒を飲んでみてもらうことから始めましょうか。そうですね、そうと決まれば、今から買いにいきましょう」
ササは一人でこの後の予定を決める。もちろん巧に決定権はないのだが、外に出ていこうと立ち上がる姿に思わず声をかけざるをえない。
「それじゃ、だめなのか?」
巧はササが手に持っている四合瓶を指差して言った。
おいしいと彼女が自慢するお酒を飲んでみたくないと言えば嘘になるし、わざわざ外にでかけるのも億劫だった。
「ダメです。これは最後、私が巧さんを認めれば頂いてもらうことにします。それに、私はこの瓶の中身がなくなれば消えてしまいます」
「そうなのか?」
今もササの言葉をすべて信じているわけではない。当たり前のように会話している目の前の少女が自分の前から文字通りいなくなるということにリアリティは感じられない。
「そうなんです。私にとっての瓶の中にある液体は人間でいうところの魂みたいなものなんです。だから、冗談でもこの瓶を投げたり乱暴に扱って割ったりしないで下さいね、絶対ですよ」
「あぁ、わかったよ」
わざわざそこまで言われなくても、相手の大事なモノを無造作に扱うなんて人としてどうかと思う行動を巧はする気がなかった。
「絶対にこの瓶を落としたり、倒したりしないで下さいね」
けれど、少女はさらに念を押してくる。
「わかってるよ」
「絶対に絶対ですよ」
「わかってるって」
「もう一度言います。この瓶は私にとって、とても大事なものなので、投げたり落としたりなんて危ないことは絶対にしないで下さいね」
もう答えるのも飽きた。
ササを連れて巧がやってきたのは、下宿先から二十分ほど歩いたどこにでもあるスーパーだった。
道中、着物姿の綺麗な女の子というのが珍しいのか、奇異の視線を幾度となく浴びたが、話しかけられたり、じっと見られるなんてことはなかった。人と違うことは注目を浴びても、距離は置かれる。巧はそんな通行人をぼうっと見ながら、知り合いに会わなかったことに一安心して店の中へ入った。
ササは今日の日替わり商品や出来立てのパンなどに目もくれることなく、導かれるように酒売り場へと向かう。
「う~ん」
ササは日本酒が置いてあるゴンドラの前に立ち、不満気な声を上げた。
「どうした?」
「やっぱり、売場が狭いなぁと思います」
「そうか?」
「そうです。もちろん、同じアルコール飲料でもビールと比べたら売れてないってことはわかってますよ。それに、今や焼酎と比べても人気がないことも私は知っています」
彼女はどこからそんな知識を得ているのか、ある部分では巧よりも細かなことを知っていた。
「でもですよ。たった一メートル五十センチ。私の身長と同じくらいの幅で魅力は表せられないと思うんですよ。今、この幅の中にはパックに瓶にカップ、容量だって、百ミリから三リットルまである上に、何十ものメーカーの商品が並んでいるんです」
いたって普通に見える売り場にも、ササはいろいろと思うところがあるのだろう。元々、話好きなのか、そのスイッチが入ってしまった。
「あと、見せ方にも問題があると思うんですよ。これだと、初めて買いに来た人がなにを買っていいかわからないと思うんですよね。特にこの辺りは巧さんみたいな人も多そうなので、甘いか辛いかくらいは表示しててもいいと思うんですよ。あっ、瓶の方には少し説明が書いてるんですね、それはいいことです。でもですよ、ちょっとパック酒の売り場を占める割合が高過ぎませんか? 売れるからかどうかしらないですけど、もっと小型の瓶のお酒の種類を増やした方が、興味を持ってもらえると思うんですけど」
「うん、そうだね」
ササの話の半分以上は頭に入っていなかったので、巧はへらへら笑いながら肯定だけした。
「きちんと聞いてなかったでしょ」
その反応が面白くないのか、ササは小さくため息を吐き、「巧さんはこれを見てどう思いますか?」と質問をした。
「どうって、特にどうとかはないけど」
巧は正直に答えた。このスーパーは週に何度か通うが酒売り場に来たのは今回が初めてだった。感受性が低いわけではない、なにもこたえようがないのが本当のところだ。
「では、質問を変えます。巧さんは、この中からならどれを買いますか?」
「………」
答えに詰まる。買うのならおいしいものを欲しいと思うが、日本酒に関する知識がないのだから、どれがいいのかはわからない。そういう時は店員さんに聞いたらいいのかもしれないが、味の違いまで答えられる店員なんて皆無だろう。この前も豆腐を買おうとした時に、二つの商品の味の違いを近くにいた店員に聞いたが、曖昧にはぐらかされた後、最後は好みになりますと言われた。まぁ、同い年くらいのアルバイトに聞いてしまった自分も悪かったと思っている。自分もここで働いていて、そんなことを聞かれたら曖昧に答えるしかないだろう。
「あ、これは聞いたことがある」
巧はなにか答えないといけないとおもい、青いラベルの貼られたカップ酒を指差す。それは、お酒を飲まない人でも名前は聞いたことのあるロングセラーの商品だった。
「そうですね。こういう時に決め手になるのは知名度です。そういう選び方もありますし、知名度が高く根強い人気があるものは選ばれるだけの理由もきちんとあるんですけど、もう少し選択肢があってもいいと思うんですよ。たとえば、派手な装飾とかの細かすぎる商品説明みたいなのはいらないと思うんですけど、店員さんや商品を仕入れた人のオススメみたいなものはいくつかあってもいいと思うんです。もちろん、どこかのメニューみたいにオススメじゃない方を探す方が難しいなんてことになってはダメですけど。ほら、本屋さんでも最近は一言POPとかそういうのあるじゃないですか」
そうだね。でも、そういうのに限って自分の趣味とは違ったりしたり、買ってみたけどやっぱ後悔することが多いんだよね。なんてことを言うのは心の中だけに留めた。
「自分で調べたり、お酒の専門店みたいなところで話を聞くのが一番いいとは思いますけど、全員が全員そういうことができるとは限らないですし、それに、ここって買い物されている人の数が多いですよね。そういう場所でこそいいアピールをしないといけないと思うんですよ!」
通路の真ん中で、あーだこーだと売り場にケチをつけるのは働いている側から見れば嫌な客だろう。
「そういうこと言っていていいのか? 店員はいないけど、お前みたいに実態化できる奴がいれば、姿を現して怒ってくるんじゃないのか?」
「そうですね。米粒にも神様がいると考えられている世界ですから、目の前にある商品すべてが私のように顕現できる可能性があります」
ササの言葉を聞いて、巧は酒の棚を見つめた。容量の少ないカップ酒は小さい女の子が、容量の多いパック酒は大きい女の子が、焼酎なら気難しそうな子が、ワインなら外人さんが、チューハイなら今時ギャルみたいな子が現れるのかなんて思うとちょっと楽しくなってきた。
「なんですか、そのだらしのない表情は?」
へらへらした笑みが気に障ったのか、ササに二の腕をつねられ、「いいですか? 私みたいに実態化できるのはそんなに多くありません。ここの棚に並んである子たちも可能性はありますが、目覚められるのはほんとに少ないんです。それに私以上に綺麗で美しい女性が顕現されるはずはないですから」と言ってくる。
「まぁ、いいです」
ササもこんなところで文句を言うのが仕事ではない。思うところは多々あるが、ここにきた目的を遂行するために本題へと話を移す。
「巧さんも運がいいです。今日は私がいますので、いい買い物ができますね」
ササは一つ一つ商品をじっくり見ている。原材料表示、精米歩合、アルコール度数、日本酒度。普段の買い物ではまったく気にしない表示もササは確認していた。
「今は五月なのに製造日付が一月なんてやっぱり動きが鈍いんですね。ビールなんて常に回転しているというのに。ほら、今もおじさまがケースで買われていきました」
「こういう保管方法だから、購入した時点で味の質が落ちてたりするんですよね。それをおいしくないとか言われたり、納得できません」
「同じクラスの商品を並べるよりはランク別に並べる方がいいと思うんだけど」
「やっぱり三百ミリリットルぐらいが味比べもできて買いやすいかな。でもあんまり種類はないから、ここは四合瓶の中から選ぶ方が得策なのかな」
ぶつぶつと独り言を呟きながら真剣に商品を選別していく。その中からお眼鏡にかかった一本の吟醸酒を手に取った。
千九百八十円。品揃えされている中では割かし高額なモノをササは巧に手渡す。
「これをどうしろと?」
「買ってきて下さい」
ササのお願いに巧は「嫌だよ」と、即答する。
「なんでですか~。男の子なら可愛い女の子のお願いは聞くものじゃないんですか?」
「いや、俺が買う必要がないしさ」
たった一本のお酒を買うために英世を二枚も使う気にはなれなかった。一人暮らしの大学生にとっては二千円もあれば数日は食べていけるし、そのお金があれば今月の電気代にあてたかった。
「私、知ってるんですよ。巧さんの財布に五千円が入っていることくらい。それにお金がないから買わないとかはもったいないです」
「そうだけど」
巧は悩む。張れない見栄は張るべきではないが、張れる見栄は張らないといけないと思う。諭吉とまではいかないが一葉くらいは常に携帯しておきたかった。お金がないのは事実であっても、それを理由に誘いを断ることは極力避けたかった。
「後悔はさせません。巧さんの人生に幅を持たせてくれる買い物はするべきです」
たしかに買えない物ではない。いくら学生の身分とはいえ、成人した男性が二千円ていどの商品を買い渋るのはどうかとも思った。
「ねっ、お願い」
上目遣いでササは巧を見つめている。そのわかりやすい誘惑に引っかかるのには腹が立つが、本能には抗えない。
「わ、わかったよ」
巧はついでに他の買い物も済ませようと考えていたが、予定外の出費に、ササから渡された四合瓶だけを持ってレジへと向かった。
「優しい人って、私、好きですよ」
ササのあからさまなお世辞にも悪い気がしないのは男の悲しい性だった。
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