第9話

“自覚を持って悪意を振るう人に言葉は通じない”


 暗瀬は口をすっぱくして言った。

 差別ではない。それは諦めの意。

 人を殺してはいけません。

 人から奪ってはいけません。

 常識の中に暴虐や略奪はない。


“人には理性という安全装置がある。それが壊れている人は、言葉知るだけで遣うことはできない”


 言葉は人を知るための媒介だと彼女は言った。


“マイナス思考って、君笑うかな”


 勿論僕は笑わなかった。

 悲しい事実だと返したことを鮮明に記憶している。

 彼女はその後に続けた。


“言葉を交わすことができたのなら、その先に未来は必ずある”


「それが言えるのはすごいよな……」


 部室の前で一人呟いた。

 霞からアドバイスをもらい、すぐにここへ足を運んだ。

 僕と蓮城さんには言葉がある。それだけでいい。そこから先には無数の選択肢があるじゃないか。

 そんな意気込みで扉を開けると──


「話にならねえってんですよ!」


 ……男子の声が響いた。びっくりしたというか、挫けるところだった。

 部室には蓮城さんと無落が既に着席していて、彼女達の視線の先──僕の正面に、一人の男子が立っていた。靴の色からして二年生。灰褐色の短い髪。ちょっとした悪人面だが、そこにはどことなく幼さも含まれている。


「それができるなら、俺は──!」


 彼は続けるよりも僕の存在に気づいて目を向ける。


「……あなた……先輩さんですか」

「う、うん。初めまして。夢乃夜ひとえです」


 しんとする部室。ここぞとばかりに蓮城さんは大きく手を叩いた。


「お茶にしましょうか」


 で。

 僕と無落はパシリに出されたのだった。旧部室棟には自動販売機がないので、わざわざ本館にまで行かなければならない。

 その間に僕は無落から話を聞いた。

 あの男子──梁壁やなかべ直斗なおとくんは、当然のこと、依頼人である。


「イジメ──だそうですよ」


 ちょうど一年前だと言う。

 直人くんは当時目の病気に罹っており、眼帯の装着を余儀なくされていた。そんなところ、不注意で(眼帯をしていた彼にこそ周りが注意すべきだとは思うのだが)一人のクラスメイトとぶつかる。

 名は創道そうどう龍生たつお。野球部に所属している、明るくて騒がしくて──その手の人間に好かれる人物らしい。類は友を呼ぶなんてよく言ったものだ。

 直人くんは軽く謝罪した。が、龍生くんはその態度が気に食わなかったようで、それこらイジメが始まった。


「分からないものですね。他人をいじめるにはあまりにも理由不足で」


 ……最初は龍生くんとその友達(ほとんどが野球部員だという)ですれ違いざまにぶつかってくるようなものだったらしい。この時点で暴力なのだが、それはエスカレートする。殴る蹴るだけでなく、野球ボールの的にされるなど──最近に至っては金銭も要求されているとか。

 無落と蓮城さんはすでに見せてもらったようだが、彼の服の下には痛々しい傷跡が多い。服に隠れるところを狙うところがまた姑息だ。


「ねえ、ひとえ」


 無落は部室に戻る間、自信なさげに言った。


「この件はあなたが頼りです。わたしと蓮城さんではどうにも……」


 だろうねと僕は返す。

 僕の経験したものがいじめなのかどうかはともかく、似たような境遇の人間であるからこそできる助言があるはずだ。


 部室に戻って着席。それぞれが缶コーヒーに手をつける。先ほどとは違って落ち着いた様子の直人くんを見てとりあえず安心する。


「それで、訊きたいんだけど、さっきは何を揉めていたんだい?」


 僕は三人に視線を送った。誰かに限定した質問でもない。


「俺が──」


 正面に座る直人くんが口を開いた。


「俺が悪いんです。先輩方に解決策を求めて、納得いかなくて……」

「わたしと瑠璃宮さんは『話し合いをするべき』と答えました」


 蓮城さんが継ぐ。


「わたし達に相談するよりも家族や教師に一度でも伝えるべきだ、と。この手の《過ぎた問題》は大人の解決を頼るべきだし、わたし達ではやり方を間違えるかもしれない」

「ああ──そういうこと。それで直人くんが叫ぶところに繋がるわけだ」


 納得した。こればっかりは『僕だから納得できた』と断言していい。偏見にはなるが、蓮城さんや無落では分からなくて当然だ。


「どうして納得できたか、教えてもらっても?」


 右隣から詰めてくる無落に僕は返す。


「情けなく思うんだよ。いじめに遭っている事実を親しい人に知られるのが。僕の場合は単なる孤立だったけど、うん……気分で言ったら直人くんと遠くないはずだ。そんな僕の状態を海野や霞にどう思われているか──想像しただけで体が痒くなった」


 無落も蓮城さんもはてと首を傾げる様子だった。

 無理もない。二人は強い人だ。虐待されたり、あるいは疎外されたりだなんて、きっと経験がないだろう。

 実体験のない人に共感はできない。

 それだけのことである。


「なんとかしたいね……」


 僕は独り言を呟いた。

 一時の苦しさを共感できるからこそ、本気でなんとかしてあげたいと思える。綺麗事と言われればおしまいだけど……。

 数秒の沈黙。

 それを破ったのは蓮城さんだった。


「では、梁壁くん。出ていってもらえるかしら」


 ……相変わらずの言葉足らずは端的に言った。口をぽかんと開けてフリーズする直人くん。代わりに僕が続ける。


「一度部員だけで請け負うかどうか審議するんだ。すまないけど、部室の前で待っていてほしい」

「はあ。そういうことっすか……」


 納得して直人くんは出ていった。

 無落と蓮城さんは難しい顔をしている。


「やっぱ、簡単に頷くことはできないかな?」

「あ、いえ」無落が手を挙げる。「わたしはどう手を打つものかを考えていましたが」

「うん? 否定派じゃなかったの?」

「あなたがやりたいというのなら、わたしは賛同するまでです。梁壁くんには特に思い入れがないけれど、やれるだけやってみましょう」


 拳を握ってやる気の様子だが、思い入れとか言っちゃうのがなぁ……。

 不安の眼差しを無落から蓮城さんへと移す。彼女は小さく息を吐いた。


「分かりました。あなた達がそう言うのなら。保険はかけますけど」


 蓮城さんの最後の一言に僕達は首を傾げる。彼女は僕達に何も説明することなく、スマホを指で叩いてから机に入れた。ピコンと音が鳴る。

 ピコン?

 そして直人くんを呼び戻し、再び座らせる。

 喉を鳴らす蓮城さん。


「梁壁直人くん。二年五組の梁壁直人くん」

「え。あ、はい。……なんすか? 改まって」

「請け負います」

「! マジで!」

「はい。マジで。しかしその代わり、何か問題が発生した時にはあなた自身が責任を──」

「はい! 負います負います! 背負います!」


 食い気味に返事をして蓮城さんの手を取る。


「助けてもらうんですからそれくらい当然っすよ! いやあマジでありがたい! いや、本当に!」


 びっくりするくらいに饒舌になる直人くん。本人的には言質取ったりといった心境なのだろうが、これはおそらく逆だ……。

 直人くんが感謝の言葉を並べてぶんぶんと蓮城さんの腕を振る中、無落がひっそりと「無知の笑顔ってなんとも言えない愛嬌がありますよね」と意地悪を囁くのだった。


 ×


 蓮城さんは直人くんを帰した後、僕と無落に淡々と言った。


「言質は取れたので、ある程度のことをしても問題ありません」


 ……直人くんの感謝の言葉の録音を再生して。


「あなた達には明日の部活でいじめの解決策を二つほど考えてもらいます。期待してますよ、大口を叩いた人には」


 と、全く期待のこもっていない口調と眼差しで蓮城さんは僕を一瞥し、先に帰宅した。

 喧嘩になりたくないからその場で反論することはしなかったけれど、大口なんて一つも叩いていない。蓮城さんなりのボケだったのかな……。


「どうします?」


 下校中、無落が僕の横を歩き、当たり前のように言う。


「今から死にますか?」

「まだだよ。やれること、やってないじゃないか。……試しているのかい? 僕が蓮城さんに折れそうかどうか」

「いえいえ。ほんの、他愛もない会話の一つです」


 ケラケラと笑い、軽快な足取りのままの彼女を横目に僕は微笑んだ。


「しかし、あなたはどこまでも優しい人ですね。梁壁直人には思い入れもないのでしょう?」

「酷なことを言うよ。ま、ないけどね。なくても何が正しくて何が間違っているのかは見極められるつもりだよ。いじめをするやつは最低だ。いじめに生産性はない。断言できる」

「自殺はどうなんでしょうね」

「え?」

「言ってしまえば、自分を虐めることでしょう? それは正しいことなのでしょうか」

「どうかな……僕にとっては暗瀬の居ない今を生きる方が自虐に感じるから。色んな人が僕を──僕達を否定するだろうけれど、悪怯れるつもりはないよ」


『自分の為に死ねるなんて勇敢よ。とてもできたことじゃない』


 暗瀬の言葉を思い出す。彼女が肯定してくれるのだから、やはり、間違いだとは思わない。


「あは!」


 無落ははっちゃけたように笑った。学校での清楚な笑みとは多少違えど、その華やかさに差異はない。


「百点満点の解答ですよ」


 正しさの確信。ニュアンスで言えば、回答ではなく解答。

 僕の決意が揺らぐことはなさそうだ。


 ×四月十九日


 何事もなく放課後を迎えて、部活の時間が始まる。いつも通りに着席し、蓮城さんはノートとペンを取って、


「では、早速」


 と切り出す。


「梁壁直人のいじめ解決案を出してください。一人二つ、お願いします」


 淡々と言う彼女に、隣の無落が「はぁ〜い」と手を挙げた。


「解決に必要不可欠なのは《脅迫》です。いじめの現場を隠し撮りしてばら撒くと脅せばすぐに終わる話だと思います」

「ああ……千里のやつか」


 と、蓮城さんはつまらなそうに呟いた。

 ……? たしかに僕と海野が中学時代に解決したやり方だが……この人、なぜ知っているのだろう。海野に聞いたのかな?


「で、もう一つは?」

「目には目を。創道くんがいじめをした日にわたし達がちょっかいをだす。単純明快でしょう? 創道くん本人に自分がなぜいじめられるかを自覚させる。そうすれば梁壁直人へのいじめも止まる」

「捻りがないですね」


 ペンを走らせた後、蓮城さんは僕に視線を向ける。

 それに対して、僕は「怒らないで聞いてくれよ」と前置きした。


「実は無落の最初の案が被って……」

「はっ倒しますよ」


 はっ倒すって。


「二つ目を語る間に考えてください」


 まったく無茶を言うが、直人くんを助けたいという僕の想いが後押しとなって請け負うことになった以上、情けないところは見せられない。

 やってやる。


「多分だけどさ、いじめってのはターゲットを複数にすることはできないんだよ。複数人、集団を標的にしたら、それは一匹狼やヤクザの所業だ。話によると野球部員でいじめてるそうじゃないか。だったら簡単だろう?」

「つまり……」


 隣に座る無落に僕は「うん」と返した。


「右を向いている奴らに左を向かせればいいだけ。僕が代わりのターゲットになる」


 無落は「ふふ」と微笑んだ。対して蓮城さんは冷めたまま、ペンをクルクルと回している。

 苛立っているのだろうか。彼女は書き写すことなく、


「二つ目」


 無愛想に言った。


「……そうだな。主犯格である創道龍生──彼と直接話して、教える」

「教えるって、なにを」


 蓮城さんは片眉をあげる。眼鏡の奥の眼光は鋭かったが、それから逃げるようでは話などできやしない。

 僕には理性がある。言葉が遣える。


 ──言葉を交わすことができたのなら、その先に未来は必ずある。


「人を傷めることがどういうことなのか。人が人を殺すということが何を意味するのか。言葉のナイフで滅多刺しにしてやるんだ」

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