第8話

 四月十六、十七と休みを挟んで月曜日、億劫ではあるが足を進めて学校へ向かう。

 重い。あまりにも重い。足取りも心も何もかもが重い。連城さんの放った一言は、僕という人間のあり方を穿つには十分すぎたのだ。

 他人に厳しく、己に甘い。

 白々しく狡賢いと自覚できるからこそタチが悪い。


「自分に嘘をつかない人というのは希少ですよ」


 道中、朝の挨拶をするよりも先に無落が隣にかけてきてそんなことを言った。


「あなたが愚か者だったのなら、先日の連城さんの言葉を気にすることすらなかったでしょう」

「愚かでありたいものだよ。彼女の言葉がこうも胸に響くなら」

「あら。そんなの死にきれないわ。愚か者が自殺を選択できると思ってるの?」


 愚か者だから死ねないのか、愚か者だから死ぬのか。どちらが正しいのか僕にはわからない。

 きっと、誰も答えを持ち合わせることのない哲学的問題なのだと思う。そういうことにしてしまえば僕の気が紛れるから──そんな下心がないとは言わない。

 しかし賛同者が居る気がしてならないのだ。僕の言葉に首を縦に振ってくれる者がいると、勝手ながら思っている。

 愚かながら思っている。


 ×


 無落と学食で昼食を済ませてちょうどのところだった。


「夢乃夜先輩」


 鳩羽美奈子が声をかけてきた。どこか申し訳なさそうにもじもじとしている様子の彼女。先程まで僕と無落は『失恋自殺』についてを熱弁していたから、それが聞かれていたのかもしれない。だとしたら非常に申し訳ないことをした(というか聞かせた)。


「こんにちは。美奈子ちゃん」

「どうもです。その、お邪魔とは思ったんですけど、割り込む隙がなかったもので……」


 と、彼女はチラリと無落に目を向けた。無落は笑顔で会釈する。

 ……そっか。美奈子ちゃんは無落が請負部に所属していることを知らないのか。


「お先に失礼しますね」


 無落はトレイを持って席を立つ。


「ごめんね。気を遣わせて」

「わたしはあなたより友達が多い。それだけの話よ?」


 意地悪な言い方に肩をすくめる。悪意のない笑顔を寄越したものだから、まったく悪い気はしなかった。

 美奈子ちゃんは爽やかに去っていく無落を見て呆然とした後、僕の正面に座った。


「なんだかオトナな雰囲気でしたね……二つ上とは思えない」

「あれで結構可愛いところあるんだよ」

「……? お二人はどういう……」

「──友達だよ」


 口を早くして返す。僕も僕でうっかり余計なことを言ってしまいそうだ。


「ところで、一体どうしたんだい? 依頼についてだとは思うが……」

「はい。お礼を言いたくて」

「……そこまでのことをした覚えはないよ」


 僕は目を伏せる。


「……夢乃夜先輩。負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、わたし、たしかに清々しい気持ちがあるんです。苦しさも当然あるけど……きっと、告白しないままだったらもっと苦しかった。先輩方に頼らなければ、一生の後悔を背負って生きることになったことでしょう。だから、ありがとうございました」

「君は強い人だね」


 羨ましいくらいに。

 妬ましいほどに。

 そんな自分に嫌気が差す程度には。


「こんなことを訊くのも失礼だとは思うが……海斗君との関係も大丈夫なのかな?」

「はい。海斗は女の子を泣かせることなんて日常茶飯事みたいで、わたしともいつも通りでした。いつかバチが当たるでしょうね」


 そんな冗談を言って微笑む美奈子ちゃん。どうやら心配する必要はなさそうだ。

 後悔よりも深い傷を与えてしまったと、身勝手な懸念もあったのだが。


「いつか見返してやりなよ。『おまえはこんなにも良い女を振ったんだぞ』ってさ」

「はい。必ず後悔させますよ」


 取り繕った様子のない眩しい笑顔に心から安堵した。

 それから僕達は他愛もない会話をして昼休みを終えた。

 鳩場美奈子はどんな道を歩んだとしても自殺をすることはないのだろう。優しく、賢く、あどけない。そんな彼女が『後悔』になる前に苦難を乗り越えたのだから、必ず──。


「では。またお喋りしましょうね、先輩」


 一年生の教室前で僕は彼女の背中を見送った。小さく笑顔を貼り付け手を振る。

 そんな僕を客観視するもう一人の僕が、


『告白一つで知った気になるな』


 と耳元で囁く。

 そんな気がした。


 ×


 その日の放課後。僕は部室へ向かうよりも先に霞に声をかけた。


「へい哲学者。ちょっと時間ある?」


 部室棟へと向かっているところだった。空中廊下で彼は振り返る。


「仕方ないねえ。凡人に人生を説くのも楽じゃないってのに」


 ワケを訊くこともなく応じる霞。こいつ、どこまで人がいいんだろう。

 そんな彼の優しさに感謝しつつ、僕達は屋上へと足を運んだ。管理責任を問われるのが怖くないと言うのか、この学校は冬季以外に屋上を開放している。故に屋上では創作物特有の『静かな空間』とは多少違い、好奇心を持った一年生やカップルが少なからず見られる。

 今は人が少なく、僕たちを抜かして二人しか居なかった。


「あ。おい、見てみろよ。今日は女テニがコートでやってるぜ」


 手摺を乗り越える勢いで霞が言った。


「ブレないな、おまえは。エロ話に呼び出したワケじゃないんだけど」

「知ってんよ。お前の友達勤めるのも三年目に入ってんだ。察しくらいつくさ……『恋』の悩みだろ?」

「ダメじゃん。勤務時間延長の回答だよ、それ」


 僕は肩をすくめる。

 霞の隣で校庭を見下ろす。部室棟の裏口からサッカー部が続々と出てきたのを見て、無駄話は迷惑だと思った。


「お前って友達多いよな?」

「何を今更。お前が見てきた通りだよ」

「だったら、好かれるだけじゃなくて、理由の見えない悪意をぶつけられたこともあるよな?」

「……はん?」


 見下ろしたまま、霞は眉を顰めた。その後すぐに「ああ」と納得したような声を漏らして、


「誰かさんに嫌われちまったか?」

「そうみたいっす」

「二年の時とは違うみたいだな。アレと同じってんなら、今更意識することもないだろうし。そうなってくると具体的な話聞かないと何も言えないぜ」

「さすがだなぁ……」


 僕は蓮城いのりの存在を打ち明けた。それは当然部活についても語ることになるのだが、別に不都合はない。僕のしたことはあくまで善意──なのだから。

 実際、霞は美奈子ちゃんの一件に触れなかった。彼が少し考えるようにした後に出てきた言葉は「理不尽なもんだ」だった。


「だろ? お前のような友達多い奴は理不尽が降りかかることも多いと思ってね」

「嫌われたことないんだよな。嫌ったことならあるけど」

「……生々しいね」


 そして贅沢だ。ちょっとだけ羨ましい。


「聞いた限りよぉ、夢乃夜。お前、嫌われてるってより憎まれてる感じだぜ? マジで心当たりないの?」

「マジでないの。恨まれるようなことをして、彼女の存在ごと忘れるって、誰にでもできることじゃないよ」

「そりゃそうだ。……えっと、本人には訊いたんだっけ?」

「うん。直接訊いたよ。答えてくれなかった」

「……大層なメンタルだこと」


 そんなふうに感心されたのは初めてだった。……初めてということは、彼女の死から一年の僕の変化ということなのだろう。

 瑠璃宮無落が与えた変化でもあるのかもしれない。


「それっぽいことを言うとしたら、そうだなあ……悪意ってのは間接的に与えることも可能って話になる」

「……?」

「おまえがクラを殺されて殺人犯を憎むように──ってこと」

「…………なる、ほど。僕が誰かに何かをしたから連城さんが憎むことになった……」


 その視点はなかったな。勿論僕は人を殺したことなんてないし、恨みを買うようなこともしてこなかったつもりだけれど、現に連城さんに嫌われているのだから、所詮は『つもり』でしかないのだ。

 僕は誰に何をした?

 僕と連城さんの共通の知人なんて──


「ま、結局のところ、他人の感情なんて読み取れないんだよ」


 霞は女子を見飽きたのか、手摺に背中を預けて空を見上げた。タバコが似合いそうだなと思った。


「できるのは勝手を押し付けるくらいだ。人の心が分からないことに罪はない。お前がやばいことをやらかしたってんならこの発言は撤回するけど」

「やばいことなんて、されるだけで十分だ」

「違いねえ」


 と、霞は笑った。

 ──ここで笑ってくれるから、僕は霞と友達になった。


「そんじゃ、俺は部活に行くからな、凡人」


 笑顔のまま手を振って去る彼の背中を追うこともなく、僕は俯瞰を続ける。

 自殺の手段は飛び降りになるのだろうかと考える一方、二年前──霞冷他との交流が始まったあの時を追想する。


 ×高校一年生・四月


 入学してから二週間が経った。まだぎこちなさが漂う教室内の空気だが、それ自体に慣れるには十分な時間経過だ。

 新しい顔と会話をすることも多少増えたが、しかし昼食はいつものように暗瀬と海野と共に摂る。

 暗瀬は弁当だが、僕と海野は基本的にコンビニで適当に買う。それらを食堂で広げるのが習慣となっていた。


「栄養考えてるの?」


 隣に座る暗瀬が、正面で菓子パンに齧り付く海野に言った。


「そんな甘いものばっかり、三年も続けるの? デブるよ。もうデブの面影が遠くの向こうに視える」

「せっかく給食とかいう文化から解放されたんだし、これくらいいいじゃん」拗ねた子供のように口を尖らせる海野。「甘いもの摂った方が頭には良いの! だからバッチ問題なし。頭の健康は体の健康、つまりあたしは太らない」

「あちゃあ。もう頭の中デブになってたか、このギャルは」


 はっきりとモノを言う暗瀬に僕が苦笑すると、海野はそれをよく思わなかったようで、


「ひとえどうなのさ? 塩おにぎりにブラックコーヒー一本って、意味不明すぎない?」

「ま、僕は太ってないし。多少の好き勝手は大丈夫さ」

「あたしも太ってない!」

「たしかにひとえもひとえね。鶴望さんは料理できない人だっけ?」

「うん。昔から馬鹿舌で、フライパンは握るなって言われて育ってきたんだ」


 よく知らないけど、と僕は付け加える。従姉とはいえ、そこまで交流があったわけではない。同じ市に住んでいるからこそいつでも会える──そんな思いが足を遠のかせた。


「あ、そうだ。久しぶりにわたしが夜ご飯作ったげようか?」


 暗瀬が何気なく言った。僕が答えるよりも先、海野が「ッ!?」と声にならない声をあげる。


「どうしたのよ。パン詰まった? 待って……ほら、ひとえのビニール袋。ここにゲロ吐きな。痩せるよ」

「ゲロで痩せたら人類皆スリムだよ!」


 二人してゲロゲロ言って……何やってんのか。


「そうじゃなくて……あれ? 二人ってもうそこまでしてるの?」

「手料理をご馳走しただけじゃない。それだけのことで……。ほんと、見た目に反してウブなんだから」


 確かになあと呟くと、海野の鋭い視線が僕を射抜いた。


「睨むことないだろ? 事実なんだからさ」

「違うわ、ひとえ。事実だから睨むんだよ。君のそういうところ、少し改善が必要だね。無自覚に他人を傷つけかねない」

「暗瀬! 暗瀬こそなんだけど! 暗瀬が念入りに丁寧にあたしを傷つけてるんだけど!」

「しっかりボケを拾ってくれる人は良いね。わたし、千里のそういうところが好き」


 なんだ。暗瀬は自覚のうちだったか。


「それはさておき、ひとえ」好きと言われたことに紅潮する海野を放って僕を見る。「今夜、どうする?」

「うーん。勝手はできないからね。鶴望さんに聞かなきゃなんとも」


 言いながら鶴望さんの連絡先を開く。あの人も多分休憩中だろうと思いメッセージを送信すると、案の定即返信が来た。


「……『遅くなるから好きにしてて』だってさ」

「決まりね。じゃあ、帰りにどこかで買い物してから……」

「待った!」


 と、海野がテーブルをたたく。食堂内の喧騒が一瞬静まった後、


「あたしも行く!」


 堂々と宣言した。


「あたしも久しぶりに手料理を味わいたい! この舌で堪能したい!」

「いいよ」

「二人より三人のが面白いでしょ? 面白いでしょ! マリオやろうよマリオ!」

「鶴望さん家にゲーム機ないけど、いいよ」

「大丈夫! あたしってば『生きる起爆剤』って言われてて、昔に一度……」

「いいよって言ってるじゃんか!」


 痺れを切らして海野の頭に手刀を喰らわせる。涙を浮かべて冷静さを取り戻す一方、僕が快諾したことに驚いている様子でもあった。


「え? いいの?」

「そう言ってるじゃないか。もとよりそのつもりだったし……」


 ちらりと暗瀬を見ると、彼女はにこやかに頷いた。


「誘わない相手の前で予定を立てるだなんて、ただの意地悪だと思わない? わたしはそんなことをする人と関係を持つつもりはない」

「わあ……いや、クラって結構意地悪なところあるけどね?」


 暗瀬が笑って誤魔化したところで昼休みが終わる。

 改めて、暗瀬と海野と同じクラスになれたことは幸運だ。他クラスには男子友達もちらほらと居るが、しかし他クラスは他クラス、当然のこと交流は減ってしまう。

 僕もこのクラスの男子とは多少言葉を交わすが、心のどこかで『ああ、つまらないな』と思ってしまっている……。

 中学の人間関係で満足していたからか、環境の変化に適応できていないだけなのか、いずれにしたって僕があまりにも子供だからそんな考えに至るのだ。

 大人になろう。もう高校生なんだから。


「おい、ちょっと」


 五時間目の現代文。担当教師が物静かなおばさんということに加え、昼食の後だから、この時間は多くの人が睡魔と戦っている(大半は敗れている)。

 そんな訳で僕も睡魔と戦っていたのだが、そんなところに背中を突かれた。


「?」


 振り返ると、僕の背中に身を潜めるようにする霞が居た。

 ──霞冷他。入学してから二、三会話を交えたが、それだけの関係。それでも彼がどういう人間なのかを知るには十分だった。

 好き嫌いが分かれる人気者。

 常に自分を貫き通す姿勢は、どうやら好みが極端に分かれるらしい──なんて勝手な分析をしてみたり。


「どうしたんだい? 霞……」

「しっ、そのまま……背筋をピンと。おっけおっけ」


 言うと、彼はスマホを取り出して堂々机に置いた。


「……霞。君って結構やんちゃなんだね」

「言ってくれるなよ。俺だってこんなやんちゃしたくないけどさ。ゲリラが来てるんだ。勘弁よろしくだぜ」

「勘弁よろしく……」


 不思議な言い方をする。

 この人は入試で上位の点数だったらしい。成績が優秀で、体育の授業も見た感じだとかなり運動神経がいい。


「君みたいな人でもこんなことするんだね……」

「どんなに真面目な顔の美少女だって自慰行為はするだろ? それと同じだよ。『それができる』から『あれをしない』と繋がることはない。決めつけはよくない」


 いいこと言ってる風だけど、ただ授業中にゲームしてるだけなんだよな……。


「ま、言い訳だけどな。ルールを破っていい理由にはならないし。自制心があればこんなことはしないけど、それって、これから社会を通して身につけていくものだろ?」


 再び黒板を見ようとしたところに興味深いワードが飛び出した。僕はつい霞に向いたまま、


「自制心って、もう身についているものじゃないの?」

「馬鹿言うなよ。日本の刑法犯のグラフ見たことないか? 近年じゃあ二十未満の検挙率は十パーセントちょっとだぜ?」

「……? ええと、つまり?」


 僕が首を傾げると、霞はやれやれとスマホをパタンと倒した。そして腕を組み、得意げな顔をする。


「自制心ってのは、学校とかいう狭い箱から出た後で更に培っていくものなんだよ。夢乃夜──だっけ? おまえ、もしかして高校入学がゴールとか思ってた?」


 痛いところを突かれてしまった。

 僕は心のどこかで『高校生』という立場を人生の頂点のように思っていた。ここを卒業すれば、これから生きるには十分な学歴が手に入るからだ。

 子供だった。

 狭い箱で何を呑気にしているのか。これから広がる世界はとても広いというのに。


「────」


 ふと、霞が硬直した。僕がその事態に疑問を投げかけるよりも先、先生が僕たちの横に来た。クラスメイトの視線が集まっている……。


「このスマホは学校よりも狭いわたしの引き出しにしまっておきますね」


 と、先生が霞のスマホを取り上げた。……どうやら声量を抑えることをいつからか忘れていたらしい。


「校則は守ってください。刑法犯とならない為に。哲学を語るなら倫理の時間にしなさい。刑法犯とならない為に」


 全くその通りですね。僕は心の中で頷いた。

 一方で霞は、


「それ、夢乃夜くんのスマホです」

「大嘘つくんじゃねえよ」


 僕にツッコミ役をやらせることによって教室内に笑いを誘ったのだった。

 遠くの席で暗瀬が呆れ笑いを浮かべているのが見えた。


 ×


 そんなこんなで。

 放課後、僕と霞は職員室で先生からのお説教を受けることになった。


「……あれ? なんで僕も……」

「そりゃあ、おまえ。アレだろ。共犯者だからだろ」


 長々と説教をする先生。結局僕らが解放されたのは十五分後だった。


「いやあ、疲れたなあ」


 霞がスマホを片手に体を伸ばす。僕は彼の半歩後ろを突いて歩く。教室へ荷物を取りに行かなくては。


「本当に疲れたよ。どうして入学二週間で先生に目をつけられなくちゃならないのさ」

「でもよ、こんな時間だって、過ぎちまえばただの思い出になるんだぜ。青春マジックだな。学生最高」


 彼は陽気に歩く。校内に響き渡る吹奏楽の個人練習の音はバラバラだが、彼にしてはその音も心地よく聞こえるのだろう、リズムに乗って楽しそうに歩く。


「夢乃夜は部活入ってんの?」

「入らない。死んでも入るもんか」

「いや……ただの質問だったんだけど。そっか。入らないんだ」

「どうして?」

「別に。勧誘しようとしただけだ」


 そっか。霞はサッカー部に所属しているんだった。……勧誘ね。距離の詰め方がすごいな、この人。別に嫌いじゃないけど、好きって訳でもないんだよなぁ。


 教室の扉を開けると、


「おっそーい!」


 海野が大きな声を出した。

 整頓された机の上に、海野と暗瀬がお尻をのせていた。目をぱちくりとする霞を過ぎて、荷物をまとめる。


「あれ……今から俺告白される?」


 なんて自意識過剰なこと言いやがる……。

 海野が「うわあ……」と露骨に引く一方で、暗瀬は軽快に笑った。


「自信家なんだね。君が人気者になる訳だ」

「羽倉だっけ? ごめん、俺名前覚えるの苦手でさ」

「クラで構わないよ。友人にはそう呼ばれてるんだ」

「ふーん。なんか含みのありそうな言い方だなー。アレだな? 言葉の一つ一つに意味を持たせて、他人がそれに気付くかどうか愉しむタイプだな?」

「そんな変態趣味はないよ。言葉といえば、現文の時間の君の言葉には中々説得力があったね」

「お! 分かってくれる? クラは賢いんだな」


 二人が談笑している中、海野は僕の机の側までやってきた。

 そして耳元で、


「あの二人、すっごく相性良さそうだね。本当に告白しちゃったり」


 なんて縁起でもないことを言い出した。


「すぐそういう方向で物事を見るのはお前の悪い癖だよ、海野。人の『好き』には種類があるんだから」


 カバンを背負って二人を見る。

 談笑の様子は十年来の友のような印象すら与えるが、僕に焦る気持ちは生まれない。

 僕の彼女は最高だ。

 誇張なく、胸を張ってそう言える。


「なあ! せっかくだしビリヤードいかね? 部活休みなんだよ。親睦深めようぜ。おまえらとだったらおもろい仲になれる気がする。海野は分からないけど……」

「なんで!? あたしなんかやらかしたっけ!?」


 ──面白い仲。それは、僕の求めるところでもある。


「いいじゃん!」暗瀬は手を叩く。「わたし達、この後ひとえの家に行くんだ。よかったら、冷他もどう?」

「それって同中の集まりだろ? いいのか?」

「二人より三人、三人より四人。備えあれば憂いなし。そうよね、ひとえ」


 僕は頷いた。

 紫紺の瞳の奥には、彼女なりの信頼が目に見えるようだった。


 ×


「ビリヤードつまんない」


 海野の一言で切り上げることにした。まあ、ボールを一度もキューで突けなかった下手くそさで三十分も持てば頑張った方にも思う。

 それから海野の提案でカラオケに行って二時間ほど熱唱(主に海野と霞が)した後、ようやく夕飯の買い出しに向かった。

 ショッピングモールの食品売り場を、僕と霞は女子二人の背後について歩く。


「それで、夢乃夜はクラのどこが好きなんだ?」

「な……」


 何の脈絡もなく言うものだから驚いた。僕が暗瀬と交際していることは別に隠していないけれど、アピールをしたり言いふらしたりをしている訳でもない。今日だって極々自然だった。


「お。その反応はマジで付き合ってる感じか」

「……ハメた?」

「おまえがハマっただけさね」


 彼のふざけた態度はともかくとして、その洞察力には素直に感心するものがある。


「よく分かったね。隠していた訳じゃないが……教えてもらっても?」

「お前がクラを『暗瀬』って呼ぶから」

「……、……それだけ? マジ?」

「マジって言ったら勿論嘘になるけど、予想を立てるには十分だったぜ?」


 簡単に言って見せる。

 そっか……霞は常に集団の中心にいる。見てきた人の数が違うんだ。だから些細な様子も見落とさない。


「なんかいいよなあ、お前らって」

「……なにが?」


 拗ねた子供のような声色で言った。

 彼も無意識のうちに漏らしたようで、はっと驚いた後にぎこちない笑顔を作った。


「なんつーか、関係性が見ていて気持ちいい。恋人と異性の友達と隠し事なく楽しい時間を過ごせるって、中々できないことだからさ」

「……それは、まあ」


 無自覚ではいられない恵まれた人間関係というのは確かだ。どれだけ状況や状態が変化したところで本質が変わることのないパズルのピース。誰もが持ち合わせるわけでもなければ、誰もが巡り会えるわけでもない。

 まあ、家族を失う不幸を鑑みれば、この幸福も当然のことのように思えてしまうのだが──


「でも、君だってそうじゃないか。色んな人に好かれて、頼られて」

「それって俺の都合じゃないんだよ。迷惑とは言わないけどさ……あいつらはただ期待してるだけなんだ。『霞冷他は退屈を吹き飛ばしてくれる』みたいな、抽象的な期待をして集まってくる。期待に応えて退屈を潰してやっても、あいつらはそれで満足して何も返してこない。関係性が一方通行なんだよ……。あいつらの形に合わせてパズルのピースになってる感覚って言ったら分かりやすいか?」

「最高にわかりやすい」

「女子との距離感だってマジでムズイんだ。仲良くなったらすぐに告白してくる……嬉しいんだよ? 嬉しいんだけどさあ! それは関係の終わりじゃんか」


 想像したこともなかった苦悩は最初こそ驚いたものの、聞いてしまえばすぐに納得させられた。納得の次には即解決策が思い浮かぶ。

 霞冷他。欠点のないちゃらんぽらんが故にこんなことで悩んでしまうのか。ちょっとだけ面白い。


「つまりはさ、贅沢したいんでしょ?」


 僕は軽く笑って言った。悪意はないが、霞には気に食わなかったかもしれない。


「今の言い方と今日の態度で僕にも分かったことがあるよ。霞は今日を楽しんでいた。なら、これからもあいつらと一緒に遊べばいい。交流を深めればいいんだよ。イツメンってやつ。どんな人気者だって選り好みはするって、本当はみんなわかってるはずだからさ……」

「……いいのかよ? 遠慮しないぜ? お前らの心地良い空間だろうがなんだろうが、俺好みになっちまうぞ?」

「やってみなよ。一応忠告しておくけど、暗瀬だけは怒らせないことだね。彼女は怖いよ」

「へえ? それって一体どんな……」


 彼が言い終えるよりも先に、偶々振り向いてきた暗瀬と目があった。僕達の様子を一瞬だけみて、再び前を向く。

 ……うん。そうだね。霞となら友達になれるかも──素直に面白いと思えるような存在になってくれるかもしれない。

 と、僕は僕の都合の勝手な期待をする。それを口に出すことはない。




栂池つがいけ? は? ここが、夢乃夜の?」


 荷物を片手に鍵を回したところで、霞が表札を見て廊下に声を響かせた。


「ドユコト? 結構複雑な感じか?」

「複雑っつーか……」


 たまらず言い淀んでしまう。

 思い出してしまったのだ。


“忘れない為に最期を見せてください”


 そんなワガママを言い、納棺師に妹の顔面の包帯を取ってもらった。

 仕事としての忠告ではなかった。一人の人間として、彼らは僕に再三忠告してくれていた。

 妹を見て、なるほどなと思った。

 頭部の形を保っているにも関わらず顔面がなかったのだ。目も、鼻も、口までも抉れてしまった不気味な空洞。

 ──冬の早朝。均一に積もった一面の雪。一部を手で掬い取った跡。喩えるなら、まさにそれ。

 目撃者曰く、目立った外傷もなく即死だった両親に対し、妹は声にならない声をあげながら徐々に動かなくなったらしい。顔面に穴を開けられ、暗闇の中、必死に何かを叫んで絶命した。

 人間の無駄な頑丈さをあの日ほど憎んだことはない。どうせあの日死ぬ運命にあるのなら、せめて安らかに逝けなかったのかと、今でも思う。この葬儀で本当に妹は成仏できるのか──と。


「すぐぼうっとする!」


 ──暗瀬が僕の背中を叩く。


「そんなんじゃあ生き遅れるよ。置いていくけどいいかしら?」


 そんなことを言いつつ、暗瀬は僕に手を重ねてドアを開けた。

 この温もりが出せるのだから、まったく君はすごい人だ。


「いや──単純な話さ」


 僕は雑に切り上げて中に入った。

 お邪魔します。


 ×


「あたし手伝うよ!」

「塩と胡椒の違いも分からないじゃない。お願いだからやめて」

「じゃあ前回同様に僕だな」

「これでもかってくらい怪我するでしょ。今度こそ指切り落とすわよ」

「ここで俺の登場ってことね」

「君、中学の技術の成績は?」

「…………」


 という訳で、三人仲良く食卓で待機を命じられた。


「いやー……情けない構図だね」


 僕が言うと、隣に座る海野が塩と胡椒の舐め比べをしてから答える。


「もうちょっと危機感持ちなよ。あたしの舌の方が救いようがあるよ。指を切っただなんて情けない」

「馬鹿舌に何を言われても響かない……」


 しかし調味料直舐めをする女の子というのはこんなにも間抜けに見えるものなのだろうか。せっかくだし写真を撮っておこう。


「俺に至っては技術の成績持ち出されたんだけど。言うほど関係ある? 家庭科は問題なかったぜ。調理実習とか」


 カウンターキッチンの暗瀬に向かって文句を言う霞。

 彼女は淡々と作業をしながら、


「わざわざ『問題なかった』なんて言葉選びしてる時点で察しがつくわ」


 と、軽くあしらった。

 敵わないと理解したのか、霞はやれやれと席を立つ。リビングをうろちょろしてからつまらなそうな目を僕に向けた。


「なんか、生活感ねーな」

「寝て起きてご飯食べて風呂に入る。その繰り返しで生活感が残るってのも、僕からしたら変な話だよ」

「……ふうん。この家に住んでるのはお前を含めて二人くらいって訳ね」


 流石の推察力だ。

 再度僕の正面に座る霞。頬杖をついて、退屈そうな顔をする。


「なあ、退屈凌ぎにお前の昔話してくれよ」


 ──海野が視界の端で動揺する表情に変わるのが見えた。暗瀬は変わらず料理をするだけ……。


「あんまり面白くない話だよ?」

「面白さにゃ期待してねえよ」

「あのさ!」海野が机を叩いて割り込む。「霞くん……色々察することできるでしょ! なんでそんなこと訊けるのかな? 分かっててそんなこと……!」

「友達相手に遠慮するって、その微妙な距離感は誰にとっても気持ち悪いだけだ」


 怒りと哀しみに顔を歪ませる海野と、鉄仮面のままの霞が顔を合わせる。

 ショッピングモールでの霞の宣言が早々に活きてきた。この人は嘘をつかないんだ。だからこそ……期待させるんだな。


「いや、いいよ。どうせいずれはバレることだろうし。遅いか早いかでしょ」


 僕は語る。

 家族が事故死したことを。

 歳の離れた従姉に世話になっていることを。

 それだけのことを。


「じゃあ、家族分までお前が笑わないとな」


 ──霞はひと蹴りした。

 自分の意思で語ったのに、気づけば暗い雰囲気になっていた僕を明るく照らす。


「お前の不運はそれで終わり。今のお前は寝て起きてご飯食べて風呂に入ることができる。それを家族の分までじっくり味わうんだ。噛み締めるんだ……当たり前の幸運を。明日には明日の風が吹く。今日の不幸は二度とやって来ない」


 霞冷他はこれが言えるから期待される。

 これが言えるから、その笑顔ができるから、僕は君を友達にしようと思ったんだ。


「明日はどこ行く?」

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