第7話

 入部を明言し、届けを提出したその翌日。放課後を迎え、早速部活動が始まる。中学時代を含めて帰宅部だった僕には初めての経験だ。

 挨拶を済ませた後で校舎を出ないというのは、なるほど、ここまで拘束を感じるものなのか。

 帰りのHRを終えて荷物をまとめているところに霞が言う。


「なー。ボウリング行かん? 今日顧問が休みでさー」

「悪いな。僕が部活なんだ」

「? なにそれウケ狙い? あっはっは。おもんね。さ、ボウリング行くぞ。千里も行くだろ?」


 海野はカバンを背負って貼り付けたような笑顔を作り、霞の手を掴んで無理に引っ張って教室を出て行った。

 ……僕の横を過ぎる時、小さく「頑張って」と言い残して。


「頑張るとも」


 虚無の目をして応える。

 さて、無落は……あれ? 居ない。部室まで一緒に行こうと思ったのだが。先に行ったのだろうか? そう思ったところに携帯が振動した。

 画面を見てみれば無落からのメッセージ。


《私用があるので先帰りますね。部長には報告してあります》


 私用……私用ねえ。詳細を明かさないとなると、僕もまだまだ信用が足らないのかな。

 ……ん?

 今日って僕と連城さんの二人きり?

 無落の奴、入部早々に地獄を作りやがった。


「おいおい……マジでどうすんだ?」


 困惑ながらも部室へ向かう。

 連城さんは僕のことが嫌いだ。直接確かめた訳じゃないけれど、確かめるまでもなく嫌われている。あの人とあの空間で二人きりとか冗談きついよ……尻尾巻いて逃げてやろうか。


「そっけないことできんよな……」


 部室の前で一人呟く。

 最期まで楽しむ。世界に負けない為に。

 同意するとも。楽しんで、死んで、それでこそ理不尽を創り上げた世界への反抗となるのだから。

 堂々と扉を開けた。昨日と同じ席に連城さんが座っている。カバー付きの本を読んだまま、こちらには目もくれない。


「おはよう、連城さん。今日もいい天気だね」

「天気の話する人嫌いなんですよね。頭空っぽなんですか? お天気お姉さんになるつもりですか?」

「……僕は男だよ」

「関係ないでしょ。多様性を押し付ける時代だし」


 すげえ八つ当たりされてる……。

 とりあえず流されないように穏便に穏便に。


「僕にそんな趣味はないよ。前、座っていいかい?」

「嫌ですけどね。どうぞ」

「……、……小学生じゃないんだからさ。少しくらい抑えることを覚えなよ」


 音を立てて本を閉じる連城さん。眼鏡の奥の冷徹な瞳が僕を穿つ。


「噂では存在するらしいですね。本心を隠したり、やられてもやり返さないことを美徳とする人種が。死んで後悔した後じゃ遅いのにね」

「返報や復讐が起こったらそれは争いに発展するよ」

「争いがなければ殺戮になります。争いよりも更にタチが悪い」

「ああ。たしかに」


 ……納得しちゃった。やり返せば同罪……その意識には僕も疑問を持っていた──そう言うことなのだろうけど、いくら何でも意思が弱すぎるんじゃないかな。

 いや、連城さんが強すぎるだけかも。この人に口喧嘩で勝てるビジョンが浮かばない。

 とにかく。この関係は改善しなくては。


「周りくどいのは嫌いだから訊くが……僕は君に何かしたのか?」

「さあ。自覚がないということは何もしていないんじゃないですか?」

「だとしたら、君が一方的に嫌っていることになるけど……」

「別に普通のことでしょう。人を嫌いになることに理由が必要ですか? 必ずついてくるものですか?」

「……君、息苦しくないか?」

「嫌いな人と一緒に居れば息苦しくもなりますよ」

「とりあえず今後の為にも結論を出しておきたい。連城いのりは夢乃夜ひとえを一方的に嫌っている。これで大丈夫?」

「言ってて悲しくなりません?」

「なるよ。なるに決まってるとも。でもね、目の前で人が死ぬことに比べたら、誰かに嫌われることなんてしょうもないことだよ」


 悪意のない本音を口にした。喧嘩を売っているわけではないことを察しているのだろう、連城さんは黙ったままだ。

 ……また連城さんの攻撃が始まる前に言いたいこと言っておくか。


「悪いけど、僕は嫌われてるからといって相手を嫌いになれるほどの単純な人間ではないよ。同学年として……部長として、そこは理解しておいてくれ」

「……あなたのことは人から聞いたり廊下ですれ違う程度でしたが──」蓮城さんは初めて穏やかな口調になった。「二年生の頃とは随分と印象が異なります。不気味なくらい」

「まあ、ね。僕一人じゃどうしようもなかったが、これからを変える機会を与えてくれた人がいるからな。印象も異なってくるよ」


 これから自殺をしようって人の言葉じゃないよな。と、僕は内心笑って続ける。


「『過ぎたことだから』なんて安っぽい言葉で終わらせるつもりもないけど、生きている限りは続くからさ。そういう意識で高校生活を終えるよ」


 目つきを変える連城さん。そこに悪意はなく、ただ値踏みをするかのような目だ。

 こんな美少女に見つめられれば恥じらいの一つ生まれるとは思うけど……きつい性格なのは昨日の時点で知れてるからなあ。『何見てんだよ』程度の感想しか出てこない。


「機会を与えた──誰が? もしかして……せ」

「無落だよ。瑠璃宮無落。最初こそは僕も警戒していたんだが……」

「そうですか。分かりました。もういいです」


 食い気味に切り上げて、彼女は読書を再開する。

 これはどうやら地雷を踏んだくさいな。これからは気をつけないと。とは言ってもな……この人の周り地雷まみれっぽいし、何をどう気をつけたものか。

 とりあえず僕も読書をしよう。カバンから鶴望さんに借りた本を取り出す。漫画も小説も読まない方なのだが、昨日の時点で読書くらいしかやることのない時間が来るであろうことは予想できていた。

 本を開いたところで、早速二回ノックがされた。

 連城さんが本を閉じて「どうぞ」と言う。この人なら「トイレじゃねえんだぞ」とでも言うものかと思ったが……。

 ドアに目を向ける。見慣れない女の子が入室してきた。ボブカットの小柄な娘だ。靴のラインから一年生だと言うことがわかる。


「どういった要件?」


 連城さんの一声に女の子は怯えながら、それでも前へと踏み出した。


「……好きな人がいるんです」


 ……とりあえず僕の隣に着席させて話を聞いた。

 なんでも依頼人──鳩場美奈子ちゃんは幼馴染で同級生の斉藤海斗くんに告白をしたいらしい。

 無論、ここに話を持ち込むよりも先に個人でチャレンジはしたらしいのだが──


「いえ……正確には挑戦にすらなりませんでした。いざ本題を切り出そうとすると、どうしても言葉が続かなくて、誇張抜きに頭が真っ白になるんです……」


 あまりにも高校生になったばかりの娘らしい悩みに思わず微笑みそうになる。語る本人はとても真剣なのでそんな意地悪はしないけど。


「同じ高校というのは偶然?」


 連城さんの問い掛けに美奈子ちゃんは頷く。


「勿論、人生が関わっていますから、進学に下心はありません。本当に偶然で……だからこそっていう思いが強いかもしれません……」

「逃したくないと、そういうことですか?」

「海斗は優しくてかっこよくて、誰に対しても裏がないんです。言ってしまえばそれは、わたしだけが知る魅力ではないんです。中学の頃も彼は何度も告白されていて……いつ後悔することになってもおかしくなかった」

「高校になって人脈はさらに広がる。斉藤くんのようなタイプは特にそうですね。……今度こそ、手遅れにならないようにと……。大体話は分かりました」


 勝手に締めくくると、連城さんはその顔を何一つ動かすことなく続けた。


「じゃあ出ていってくれる?」

「え?」


 美奈子ちゃんよりも早くに僕が反応した。


「え? マジかよ連城さん。いや、これは引くって。ここって悩みを解決する為の部じゃないの? それを頼りにしてきた人の悩みを聞いて『さて帰れ』だなんて……」

「黙れ」

「……、……」


 ……連城さんはうっすらと笑顔を作って美奈子ちゃんを向く。


「ごめんなさい。一度依頼人には退席してもらって、部員で請け負うか否かのお話をさせていただきます。そういうルールなので。そう時間はかかりませんので、廊下で待っていてもらえる? ……そうだ、これ」と、彼女は僕の机の本を勝手に取って美奈子ちゃんに渡す。「暇つぶしに」

「は、はあ」


 困惑を表に出しつつも、美奈子ちゃんは素直に退席した。

 当然の如く沈黙が訪れる。

 僕からはもうなんて切り出していいのやら……。


「どう思いますか?」

「……うん。君は言葉足らずだ。僕に人の性格をどうこう言う資格がないのは百も承知だが、しかし……」

「わたしの話ではなく、依頼の話ですけど」


 絵に描いたようなジト目が向けられた。こういう感情だけは分かりやすいんだな。

 とにかくやっぱり、この人は言葉足らずだ。


「どう思うって……このまま返すわけにはいかないよ。折角打ち明けてくれたのに」

「軽率ですね。あなた、直感的に動くことが多い人?」

「うーん……どうだろう。考えているつもりではあるけれど。それよりも、軽率って、一体どういうことだい? ……言葉の意味じゃなくて、何を持ってその言葉が出てきたのかってことね」


 僕は意地悪な返答をされないように念を押した。


「いざ告白となると逃げ出してしまうような人が『告白をしたい』と持ち出した依頼、それを完遂すること自体は訳無いです。その状況を強制することは容易……しかし、今の二人の関係は消滅するでしょう」

「関係の……消滅」

「仮に成功したとして、二人の距離感は一層近くなる。愛はとどまることを知らないかもしれないし、瞬く間に冷めるかもしれない。当然告白が失敗に終われば言うまでもないです。彼女は斉藤くんへ想いを伝えたその時点で、『幼馴染へ片想いをする娘』という立場を完全に失うことになります」

「なるほど……うん。たしかにそうだ」


 一度終わった関係が修復されるとは限らない。元から在る物を壊す事とそれを直す事のどちらが簡単でどちらが難儀なのか、誰もが言わずと知れている。気づくか否かの問題なのだった。


「人生のアフターケアまで見られるような部活ではありません。変に恨みを買うようなこともしたくない」


 冷たい物言いにも聞こえるが、連城さんは人として至極当然のことを言っているだけだ。

 しかしどうしてだろう。この人が正しいことは十分理解しているはずなのに……


「やって後悔した方が、この先後悔しないと僕は思う」

「…………」

「伝えるべきことを伝えられなくなった時の苦しさはよく分かるつもりだ。全員が全員僕と同じ感性じゃないことも分かっている……だけど」

「もういいです」


 遮って立ち上がると、連城さんは部室の扉を開けた。

 そして一言、美奈子ちゃんにはっきりと言うのだった。


「請け負います」


 ×


 妹とは喧嘩をしたことがなかった。

 何度も何度も因縁をつけられたり、蹴られ殴られ、時に罵倒されることもあったけれど、それでも僕は『妹だから』と軽く注意するだけにとどまった。

 両親に叱られることも多かったが、妹の僕に対しての横暴さは治らなかった。

 僕が中学一年生で、あいつが小学六年生の時──両親とあいつの命日となる一ヶ月前、僕はクラスメイトに告白された。靴箱にラブレターを入れられるという、なんともそれっぽいやり方だった。

 その紙には僕への好意と、応えてくれるのなら声をかけてほしい、今の関係を続けたいのならいつも通りに接してほしいと書かれてあった。

 だから僕はいつも通りに接した。席が隣ということもあり、自然と脳裏にはラブレターが過ぎってしまうけれど、それでも友達として気持ちの良い距離感を保つことができた。今でも時折連絡がくるほどに。

 そんな友達からのラブレターを僕は捨てなかった。ただ嬉しかった。その想いを破って棄てることなどできるわけもなかった。


『気持ち悪い』


 そのラブレターを妹は破った。

 妹は精神年齢の成長が早かったように思う。難しい言葉をよく使うし、難解な他人の気持ちを読み解くことにも長けていた。


『女々しいったらありゃしない。振ったんでしょ? そんな物捨てなさいよ』


 帰宅早々にぶん殴ってやろうと思った。

 容赦なくボコボコにしてやろうとした直前に理性が歯止めをかける。どれだけ憎たらしいことをしたって、こいつは僕の妹なのだ。兄ならば許してやるのが当然だ。

 勝手すんなよ。そう言って僕は妹の頭を軽く小突いた。

 すると妹は泣き出した。悔しさに耐えるようにしつつ、それでも涙が溢れてしまうその様子は意味不明だった。

 結局、その涙の訳を教えてくれることはなかったけれど、今なら分かる気がする。

 僕はあいつに本気でぶつかることがなかった。それは疎外感を与えることにも等しかったのだ──


「告白の場を強制します」


 意識を戻す。

 請け負うと言って美奈子ちゃんを返したすぐ後、僕たちは席について作戦会議をしていた。


「強制?」

「鳩場さんは告白の一歩手前で怖気付いてしまうと言っていました。その場で逃げられる選択肢を与えてしまっては何度も同じことの繰り返しになります。なので、強制的に告白させます」

「……穏やかな響きじゃないな。一体どういう方法で?」

「その前に斉藤海斗くんがどんな人なのかを調べましょう。人柄によってはやり方を変える必要がある」


 ふうん、と曖昧な反応を余儀なくされる。この人が言葉足らずなのはそうだろうけど、僕も僕ですぐに答えを求める姿勢は良くない気がする。

 少しばかり考え、本校舎へ向かう道中に言ってみる。


「告白を強制……当然海斗くんを誘い出す必要があるから、彼が誠実な人であることが重要になるのかな……?」

「ええ、その通りです。頭ついてたんですね」

「…………これでも人間として生きてるからね」

「彼がまともに呼びかけに応じない人だと依頼は達成できません。もし彼が面白がって他の人も呼んだり、すっぽかしたり、或いは呼びかけた時点で関係が破綻したり……それらを見極めなければなりません」


 騒がしい本館を歩き、僕らは体育館を覗いた。そこでは二十人を超える男子バドミントン部が熱気を帯びていた。

 美奈子ちゃん曰く、海斗くんはバドミントン部の体験入部をしているらしい。中学の時からバドミントンでは全国出場経験もあるようで、その噂を聞きつけた三年生から直接勧誘を受けたとか。

 先ほど美奈子ちゃんに顔写真は見せてもらったが、人の顔を記憶することが苦手な僕はあっという間に忘れてしまった。

 ──しかし、そんな僕ですら彼を認識することができた。

 中央のコートでシングルスの試合が行われていた。一人は部長さんだろう、ユニフォーム姿の彼に対し、対戦相手は一年生の指定ジャージだった。

 勿論それだけが判断材料ではない。ジャージの一年生は数名散らばっている。

 対戦相手が海斗くんだと確信できた理由は、彼の靴にあった。ただの上履きだった。バドミントンシューズではない。移動するたびに大きく滑っている。だというのに彼はシャトルを落とすことはなく、着実に相手を疲弊させて──しまいには豪快なスマッシュで勝利を掴んだ。


「彼ですね」


 連城さんも同じ人を見ていた。


「うん。さすがは全国出場者だね。靴がアレで勝っちゃうんだから」


 相手も相当悔しいだろうと思っていたのだが、彼は素直に関心したようで、海斗くんにアドバイスを求めているようだった。

 海斗くんは人好きのする人だということは見て取れる。


「大丈夫っぽいね。彼は良い人だよ」

「そう。なら帰れば。簡単な人でいいですね」


 攻撃的に言いながら、連城さんはメモを取り出して何かを書く。それを丁寧に畳んで握りしめた。


「……? 何をするつもり?」

「ちょっと見ただけで他人を知ったつもりになるなんて、それこそなんのつもりですか? その生き方の先は後悔しかありませんよ」


 耳に痛い。正論かどうかはさておいて、知ったつもりというのは間違いない。僕の悪いところではある。

 しかし、本当に何をするつもりというのか、連城さんは堂々と海斗くんの元まで歩いて行った。

 僕は唖然として入り口で立ったまま。


「斉藤海斗くん、だよね?」

「え? ……? はあ、まあ、そうですけど。えっと……先輩さんですよね。どうかしましたか?」

「あなたに伝えたいことがあるの。部活終わるの何時頃?」

「……、…………十七時っすね」

「じゃあ、その時間にここに来て。待ってる」


 押し付けるようにメモを渡して、連城さんは涼しげな顔のまま僕の横を過ぎ、部室へと向かう。

 いやいや。


「いやいやいやいや」


 連城さんの背中を追う。すごい。今の一瞬があって背中が逞しく見える。


「度胸あるね……いや、マジで驚いたよ」

「度胸、必要なんです? 好きでもない相手に告白するだけなのに」

「そうじゃないよ。その後のこと。有る事無い事、明日には学校に広まっているだろうし。そういう懸念がないわけじゃないだろう?」

「予測はできていますけど、それは懸念とは違いますね。別に気にしない……他人のしせんを気にして何が楽しいの? 楽しいのは世間に個人を晒して金を稼いでいる人だけでしょう?」


 乱暴だなあ。でも、嫌いじゃない。好き嫌いがはっきり言える人は貴重だ。


「どこに呼び出すんだい?」

「部室です。秘密の会話にはもってこいでしょう? 彼がどんな人間なのか、あなたも見極めてくださいね」


 ──なんて言われたものの、十七時を迎えて僕が待機している場所は旧部室棟二階、請負部部室の隣、埃まみれの物置だった。


『冷静に考えると、告白の場にあなたが居るのはおかしいじゃない』


 天然さんかな? いいキャラしてるね。どう頑張っても嫌いになれそうにないよ。

 積み上げられた机の山を崩さぬように一つ取り出し、それに座る。

 耳をすませば床が軋む音が近づいてきていた。老朽化の進んだ建物が故に叶う盗み聞き。見極めるのではなく聞き極める。

 ……はっきり言って、彼がどんな人なのか、体育館の様子を見て答えは出ていた。あくまで予想の範疇だが、しかしこの足音──一人分の足音で確信へと変わる。


「失礼します」

「こんにちは。ごめんね、いきなり呼び出したりして。……一人?」

「うっす。あいつら追い払うには苦労しましたよ。先輩達まで騒ぎ出して、あなたが去って行った後は大変だったんですから」

「本当にごめんね。ところで、あなたが好き。結婚を前提に付き合ってくれないかな?」


 思わず「ええ……」と漏らしてしまった。突撃兵? 特攻隊長? 勢いが凄すぎる。マジで迷惑だろうに、その声色は悪びれている様子がない。

 怒ってもいいんだよ、海斗くん。


「どうして俺なんですか? 話したことも、顔を合わせたことすらなかったのに」

「以前、偶然にもバドミントンをしているあなたを見かけてね。好きにならなきゃいけないと、そう確信したの。恋は盲目で衝動的。理解が得られないということは十分に理解しているつもりよ」


 よくもまあ、ここまで平然と嘘をつける。脆い壁の向こうで涼しげな連城さんの顔が想像できた。


「いえ、理解できます。それでいて嬉しいです。誰であろうと、好意的に想ってくれるのは嬉しい。でも、ごめんなさい。俺には好きな人がいるんです」


 真摯に向き合う彼は、きっと頭を下げていることだろう。


「……そう。わざわざ応えてくれてありがとう」

「……、……失礼します」


 海斗くんの足音が聞こえなくなったことを確認して部室に戻る。連城さんは読書をしていた。


「流石にブレないな」

「実際のところ、どう感じているんです?」


 正面に座る僕を見向きもせずに言う。


「結果、もう見えてるでしょう」

「………………」

「本当に『やって後悔する方がいい』と、そう言えるのですか?」

「何も『恋人にしろ』なんて依頼を持ちかけた訳じゃないよ、美奈子ちゃんは。それに……確定要素がある訳じゃない。僕はハッピーエンドが好きでね。可能性があるのなら、信じたい」

「まあ、どうでもいいですけど」


 連城さんは本を閉じる。


「今回の依頼がどう転ぼうが、その責任は全面的に鳩羽さんにありますからね。結末を悔いる必要はわたし達にない。しかし……」


 連城さんは僕を睨む。憎悪するかのように、その目を黒く濁らせた。


「あなた、本当にハッピーエンドが好きなの?」

「……そうとも」

「そ。この上なく哀れですね」


 同情ではなくただの諦観だった。その発言の意図を問うよりも先に、彼女は答えを口にする。

 思えばそれは、聞くまでもないのだった。


「世界を嫌っている目つきをしているのだから、現実逃避にしかなりませんよ」


 ×四月十五日


「一体どうしたと言うの? その顔……」


 連城さんに言葉のナイフで心臓を抉り取られた次の日の昼休み。変わらず大勢の視線が集まる中、食堂で昼食を摂っていた。

 その顔というのがどんな顔なのかは知らないけれど、無落すら動揺するような顔色ならば少し誇らしい。


「…………ええと、どこまで話したか……。昨日の今日で連城さんは海斗くんの靴箱にラブレターを入れたのさ。差出人の正体は隠したまま、旧部室棟の物置に誘う。美奈子ちゃんには依頼についての相談という大嘘で誘き出す。で、二人を物置に閉じ込める。少々手荒いやり方ではあるが、状況を作ってしまえば美奈子ちゃんも察して告白せざるを得ないってわけさ」

「わけさ、じゃなくて。その話はもう聞きましたよ。その作戦に対してアバウトがすぎるとの感想も言いました。アルツハイマーですか?」

「違う違う。今日はマルチタスクの日でね。別のことを考えながら会話をしていたんだ。それで、なんの話をしていたっけ」

「シングルタスクじゃないですか。質問をしたのですよ。『連城さんとはうまくやれそうか』と」


 ああ、そうだった。その質問をされてから、僕の意思に反して回想をしてしまった。

 言われたくないことを言われてしまった。


「うまくも何も、あれは無理だよ。無関心ではなく憎悪を向けられている。話し合ってどうこうなる領域にない」

「あら、弱気」


 無落はおかしそうに嗤った。


「会話ができている時点で、関係改善の余地はありますよ。同じ言語を扱う人間──一体何を恐れる必要があって?」


 そんな彼女の強気にこそ恐れるものがある。話し合いだけで関係改善ができるのなら戦争は起こらない。極端な話かもしれないが、しかしそれは彼女の発言にだって当てはまることだ。

 ……でも──どうしてだろう。無落ならば口先だけで済ますことはない気がする。他人にここまで信頼させるのは流石だ。


「それに、依頼についても面白そうです。正確には依頼というよりはその後ですか。鳩羽さんはどんな反応をするのでしょうね……」

「……やっぱ、そこまでのオチは見えてる?」

「当たり前でしょう。フラれますよ、彼女」


 あえて濁したというのに、無落ははっきりと言った。そのまま屈託のない笑顔で続ける。


「初めて会話をする連城さんにすら真摯に向き合うその姿勢。高校までも一緒に居た鳩場さんのことが好きだというのなら、彼が告白しないのは不自然。『恋は盲目で衝動的』という連城さんの発言への共感。察するに、入学早々好きな人ができたのではないでしょうか」

「うん……」


 少々乱暴な予測ではあるが、それも含めて僕も同意見だった。連城さんも同じだろう。


「ただの妄想で済むに越したことはないけどね……」

「それは無理でしょう」


 冷たく言い放つ。細まる目は、僕の心を見透かすようだった。


「あなたが思った時点で、ほとんど正解に近いのですよ」

「……? ……、……それって、もしかして長所の話に繋がる?」

「さすがの理解力ですね」


 すっかり忘れていた。霞に邪魔された僕の持つ説得力──長所の話。


「あなたには人を見る目がある」

「……初めて言われたな、そんなこと」

「言われたのが初めてだとしても、薄々自覚はあったのでは?」

「…………、…………」

「可愛い人」


 僕は空になった皿に目を落とす。こんな逃げる仕草も、無落にとっては『可愛い』のだろう。

 ──僕の身代わりとなった彼女。僕ばかりが辛いわけじゃないのに、同じ傷を負いながら、それでもそばにいてくれた二人。こんなに恵まれておきながら鈍感のままでいる方が難しいものだ。

 勘違いならばそれでいい。それだけのことである。


「しかしまあ、失恋の後のことは見なければわからないでしょうね」

「へえ、君でもわからないと言うのか」

「分からないですよ。他人の行動を予測するなんて、容易にできたことではありません。未来を視る超能力があるならばともかく」

「そんなのがあれば、喉から手が出るほどに欲しいもんだね」


 過去の悪夢を回避したかった。それができたのなら、無落の告白に応じることもなかったのに。


 そんなもしの思考をしているうちに放課後はやってくる。


「今日は参加するんですね、瑠璃宮さん。入部初日から用事を言い訳にするものですから、てっきり逃げたのかと」


 部室に入って早々連城さんが不快感を露わにする。しかし無落が動じることはなく、


「何から逃げると言うのですか? あなたみたいな可愛い人を眺めることができるのに」


 なんて言いながら連城さんの正面に座った。やはりさすがだと思いながら、僕は無落の隣に座る。


「楽しみですね。鳩場さんが先に隣の物置に来るのでしたか。どんな反応をするのかしら」

「黙ってもらってもいいですか。ここは壁が薄いんです。鳩場さんに気付かれでもしたら──」


 直後、足音が聞こえた。それは徐々に近づき、部室を通り過ぎ、隣の物置へと入っていった。

 くすくすと声を殺す無落が小学生に見える。

 それから更に五分して、もう一人の足音が部室を過ぎた。物置の前で止まり、「はぁ……」という重いため息が聞こえた。

 疲れるんだろうな。自分が興味のない相手からの好意というのは。かわいそうに。

 なんて勝手を思っていると、物置の扉が開く音がした。


「よくよく考えればイジメにも近いですよね」


 僕の耳元で無落が囁く。こそばゆさに身を引きながら、壁の向こうに意識を集中する。


「おまえだったのか……美奈子」

「──な……なんで、海斗が」


 ピシャリと扉が閉まる。特に二人からの反応がないと言うことは海斗くんが閉めたろだろう。


「聞くよ。聞かせてくれ」


 本当に良い人だ。

 連城さんが戻ってきた。鍵をかけて確実に逃がさない予定だったが……この雰囲気で変な干渉はしない方が良いと判断したようだ。僕も同意する。


「手紙、読んだよ。はっきり言葉にしたいって……おまえには似合わないね。はは」

「あ……、……うん。……うん、似合わない」


 察したのか流されているだけなのか曖昧な反応をする美奈子ちゃん。うん……案外いけそうだな。


「今の時代、スマホ一つで済むことだってのに。ほんと律儀な奴。変わらないよね。変わらなくていいんだけどさ」

「もう、馬鹿にして。律儀は欠点だって言ったのは海斗じゃない。忘れたの?」

「あ、やべ。俺そんな適当言ったっけ。あはは。それこそ忘れてくれ」

「適当を忘れるって意味なら、海斗の発言どころか存在を忘れることになっちゃうよ」

「そこまでじゃねえだろ!」

「ふふ。冗談。…………本当に──冗談」


 一瞬の沈黙を置いて、二人は何かを言った。小さき声で聞き取れなかったが、確かに一つの会話を挟んだのだ。

 そして、


「好き。あなたが、好き」


 大きくはっきりと彼女は言った。あどけなさが含まれているような──なんて言っても、あくまで僕たちは声を聞いているだけ。細かな雰囲気自体は分からない。

 どんな顔をしているのだろう。

 僕はどんな顔をしたっけ。


「すまない。俺には好きな女の子がいる。それはおまえじゃない」


 鋭利な言葉だった。それを聞いて美奈子ちゃんが何を思ったのかは考えるまでもなく、察するまでもない。彼女は足早に去っていった。

 一人残された海斗くんは「まったく」と、わざとらしく言った。

 それを聞いて僕は迷わず部室を出た。廊下には窓に寄りかかる海斗くんの姿があった。

 彼はゆっくりと優し気な目をこちらに向けて静かに笑う。


「やってくれましたね、まったく……」

「気づいていたんだね。一体どうして?」

「筆跡ですよ。最近あいつにノートを借りたばっかりで、違いが分かりやすかった」


 ……そこは当然のことながら懸念していた。しかし、筆跡についての指摘に対し、連城さんはこう言った。


『丸文字書いておけば区別なんてつきませんよ』


 がっつり区別されてるじゃないか。偏見で行動するのは本当に良くない……。


「まあ、筆跡の情報がなくたって、告白の場所が請負部の隣ってところでおおよその察しはつきましたよ。昨日の今日ですから」

「君は鋭いなぁ」

「先輩さんは何故出て来たんですか? 昨日連城先輩と一緒に居て、部室に居たということは、請負部の人ってことなんでしょうけど……」

「うん。なんとなく、君がこの状況を望んだのは美奈子ちゃんじゃないと察しているように思えてね。その上で勘違いをしてほしくなかったから」

「勘違い?」

「美奈子ちゃんに告白の手助けをして欲しいと依頼され、請け負ったのは僕の意思なんだ。連城さんは僕の決定に流れただけ。そこだけははっきりと伝えたくて」


 なにもおかしいことは言っていないつもりだが、海斗くんは一瞬きょとんとして、それから大きく笑った。


「律儀っすねー! 珍しい人だ」

「珍しいのかな……。よく分かんない。それはそうとして、僕からもいいかな?」

「勿論」

「なんで嘘と分かっていて──美奈子ちゃんを騙った悪質な悪戯と予測ができておきながら、何故乗ったの?」

「……、……俺としてももどかしかったんでしょうね。今までの半端な関係が」

「そっか」


 察する力の備わった彼なりの苦悩がそこにはあったのだ。

 美奈子ちゃんの告白は、二人にとって都合が良かった。この解釈が許されるのなら、多少罪の意識は軽くなる。


「あんま気にしないでくださいね。遅かれ早かれ、ぶっ壊れた関係ですから」


 そんな気遣いをして、海斗くんは去っていった。彼の後ろ姿は僕よりもいくらか大人びているように見えた。


「……惚れるわけだよ」


 部室に戻ると、席についたままの無落が笑顔で迎えてくれた。


「立派でしたね」

「うん。海斗くんには学ぶところが多いよ」


 無落の隣に座る。連城さんはこちらに背を向けて窓を眺めていた。何を考えているんだろう。


「そうではなくて」無落が顔を近づける。「あなたのことです」

「僕?」

「そうです。ほら、連城さんは悪どい性格をしているでしょう? そんな人の為に事を正直に話すなど、誰にできたことでもないですよ」


 いやあ、すごくいい顔してるのに。その地味に喧嘩腰な調子はなんとかならないのかな。……連城さんにも言えるけどね。


「いかがでしたか?」


 と、その連城さんが背中を見せたままで訊いた。


「やって後悔する道を後押しして、それを客観した感想は」

「美奈子ちゃんにとっても海斗くんにとっても、決して無駄にはならなかったと断言できるよ」

「そう。ならば、あなたも後悔がないように胸の内は晒すと、そう言うのですね?」

「────」


 答えに詰まる。息すら詰まりそうだった。

 戸惑っていると、連城さんが振り向いた。レンズ越しのその目は答えを催促する。

 口にするべき回答は一つ。

 しかし、それを言うのは嘘つきであり無責任の象徴。そんな思考で逃げている時点で、僕の性格の悪さが露見しているようなものだった。

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