第4話

 一つ、海野千里について話をしよう。

 彼女と友達をしているぼくに語らせれば、自ずと夢乃夜ひとえについても多少語ることになるのだが、それは仕方のないことだ。

 人を語るにはまずその周りからってね。これは人の受け売りだ。

 とにかく、海野千里の周りには男女問わず集まっていた。『どんな人』というのは人類の数だけあると思っているので全ては語れないのだが、大雑把に言うなら愛想の悪い寡黙な人、陰でいじめをしている人、誰にでも優しい人、そんな彼ら彼女らにとって、海野千里は心地良い存在なのだと思う。

 彼女の隣に居れば、自然と笑顔になれるから。

 誰からも好かれない人は多いけれど、誰からも好かれる人は少ない。海野は後者の貴重な人種だった。

 人に優劣をつけることを悪と言う人がいる事は知っているが、僕はそれで納得する事はできない。海野千里は他の誰よりも幸せであるべき人なのだ。だから何度も言う。

 海野千里は特別だ。

 絶対に変えることのできない完結した真実。反論があるなら訊こう。そして敵対しよう。

 僕が海野と接触したのは中学一年生で同じクラスになってからだ。男女複数人での会話だったから、本当に一言程度を交わし、お互いがお互いを認知しただけの機会だった。

 それから両親と妹が交通事故で亡くなって(余計な情報とは思わない)、しかしそのことを伏せたまま学校で日常を送っていた時。


「少し話さない?」


 海野は突然と僕に声をかけた。彼女が自ら他人に声をかけること自体は珍しくもないのだが、さしでというのは滅多にないように思う。

 昼休みに人気の一切ない予備教室に連れて行かれた。多少ふざけたグループと一緒にいたものだから、もしかすると知らないところで地雷を踏んだのかもしれないと身構えた。

 なんて予想は大はずれ。

 彼女はどこか哀しい瞳で、


「何かあったの?」


 なんて訊いてきた。

 本当に驚いた。

 僕は家族の不幸を顔に出した覚えはない。それは僕が変なところで意地だからでもあり、現実を直視できなかったからでもある。これらの理由で僕は常に僕のままでいられたのだ。だというのに、海野は見破ってきた。

 彼女が好かれる理由に鋭い洞察眼があることを加えたのはその日のこと。


「何もないよ。いつも通りさ。日常に変化がなさすぎてイヤになっちゃうくらいだよ。あーあ。隕石でも降ってこねえかな」

「嘘だよ。平気と言うのなら、どうしてそんな目をするの」


 敵わないと思った。だから僕は正直に打ち明けた。事故のことと、それを外面的に捉えようとしている僕の心情も、何もかも全て。

 すると彼女は泣いた。

 上辺だけの哀しみではない。涙も鼻水も声も真に感情が動いた時にしか見れないものだった。


「なんで君が泣いてんの」


 僕はそう笑って、同時に涙を流した。

 ただ静かに。心の痛みを実感できた。


「声を出さないんだね」

「うん。君が出してくれるから」


 だから僕は笑いながら泣けた。現実に向き合うことができた。海野千里が居なければ僕はとうに破綻していた。

 このエピソードだけでは恩人以上友達未満(不等号についてはあまり意識していない)の関係だ。話には続きがある。

 秋の初めに僕はとある事件現場に遭遇した。今だからこそ『事件』と表現したが、当時の僕にそこまでの認識はなかった。

 ただのいじめ。

 そう思いながら現場を眺めていた。掃除当番だった僕はゴミ袋を体育館裏に運んでいた。ゴミ捨て場としている物置に四人の男子がいた。

 いや、三人と一人と言ったほうがいい。物置に背中を預けて顔を腫らし血を流す彼と、そんな彼を囲む三人。

 隣のクラスの連中だった。総じて平均的な体格に顔面をした彼らに一体何があったというのか。気にはなったけど、それだけに終わった。

 僕は殴られていた彼──工藤くんの助けを求めるような視線を無視してゴミを物置に入れた。


「何よそ見してんの? はよ金出せって言ってんよね」

「こ、これ以上は無理なんだ! 父さんも母さんも気付き始めてる……。盗んでるのがバレたりでもしたら……!」

「いや、じいちゃんばあちゃんもまだ生きてるっしょ? そいつらから盗めばよくね? たしか死にかけだろ? おまえのところ。札の枚数なんて数えられねえって」


 三人は大きく笑う。

 生々しいいじめだなあ。

 と、本当に他人事のように(というか他人事なのは事実だ)思ったはずなのに、僕は立ち去る足をあえてゆっくりと進めた。


「とにかく! 今月の分用意できねえってんなら動画は拡散しちゃおうかなあ⁉︎」

「ま、待って! それだけは……」


 背中に目は付いていないので確認できなかったが、スマホを取り出したのだろう、その動画とやらを再生した。


“芽吹さん! ぼ、ぼくと、付き合ってください!”


 工藤くんの声だった。


“……そ、その、好意は嬉しいけれど、ごめんなさい。好きな人がいるから”


 芽吹さんとやらがフッてから数秒たち、工藤くんの泣き声が聞こえてきた。これは動画の音でもあり、現実の声でもあった。

 またしても三人はおかしそうに笑う。

 そしてどうしてか、僕は曲がり角の手前で足を止めてしまった。

 自分の思考の意図も分からぬまま振り返って足を進めようとしたその時、肩に手が置かれた。

 そこにいたのは、海野千里だった。

 彼女は満面の笑みで言う。


「よく振り向いた!」

「え……は?」

「はい、じゃあコレ持ってねー」


 と、海野は自身のスマホを僕に寄越す。

 既に録画状態となっていた。


「ほら、リポーターごっこしようよ。リポーターごっこ」

「……!」


 その意図を察した僕はスマホを構え、海野とその奥のいじめ現場をうまいこと収める。


「えー、現場は八津芽やつが中学校、校舎裏の物置ですね」


 エアマイクを持ちながら海野は彼らに近づいた。


「浜田達司、出島祐、須郷翔の三人が工藤爽太をいじめているようでーす。内容としては殴る蹴るといった暴行……お金を巻き上げたりもしてますね。そも何故そんなことになってしまったのか? それは工藤くんの告白の隠し撮りから始まったそうです。『拡散されたくなければ金をよこせ』……と。いや、本当、酷い話です。果たして工藤くん、そして彼を虐める三人は一体どうなってしまうのか⁉︎ 彼らが成人して失うものができた時、またお会いしましょう」


 ここで僕は録画を止めた。

 唖然とした彼ら(もちろん工藤くんも含む)と僕と海野はまっすぐに向き合った。


「な、何してんだ? おまえら……」


 冷や汗を見せつつも声を出したのは浜田だった。


「何って、隠し撮り。あんたらと同じじゃない」

「てめえ……!」


 浜田が拳を振りかぶって海野へと踏み出した。当然のこと、僕は二人の間に入る。

 彼の動きが止まったのを機に、今度は僕が口を開いた。


「これ以上やるのは賢くないって、三人とも分からないのか? さっきの動画、本気で拡散するぞ。今の時代、簡単に広まって簡単に削除はできない。一生残り続けるんだ」


 身を引く浜田の代わりに、後ろの出島が答えた。


「だったらこっちも拡散するだけだ」

「ダメージが同じだって? おまえらのやってることは犯罪だ。工藤くんのは……たしかに恥ずかしい動画なのかもしれないけど、ただの中学生の思い出じゃないか。青春の一ページだよ、知らんけど。どっちが苦しくなるんだよ」


 二人とも黙り込み、今度は須郷が踏み出してきた。


「確かにそうかもだが、俺たちにしたってただのガキの悪さだ。犯罪にはならな……」

「……え? 話聞いてなかったの? 子どもならたしかに傷は深くないかもしれないけど、コレを拡散するのは大人になってから、失うものができてからだ。僕たち子どもにはやり直しが効くけれど、大人はきっと無理だよ」


 遂に黙り込んだ三人はお互いの顔を見合わせた。

 海野は僕からスマホを取り、強気で言った。


「まあ、なんだかんだで最終的な決定権は工藤くんにあるんだけどね。この動画は彼に渡す。誠意ある対応をしたのなら、もしかすると拡散はしないでくれるかもね」


 さすがに自分達が圧倒的に不利な状況にあると理解できたようで、三人は黙って去って行った。

 しばらく静寂が続き、力無く物置を背中に座り込んだ海野。


「怖かったあぁ……」


 男子に殴られる寸前だったんだ、当然の反応だ。


「あ、ありがとう、二人とも。でも、一体どうして?」


 工藤くんが立ち上がって海野に手を差し伸べる。しかし、海野は笑顔で首を横に振った。しばらく立てないという意味もあっただろう。


「見過ごせなかった。それだけだよ。あたしってばいい奴だからさ!」


 親指を立てる海野を見て、工藤くんは「凄い人」と失笑した。

 そして当然の流れで僕に視線を向ける。僕は工藤くんの希望に満ちた眼差しから逃げて海野を見た。


「気分だよ……助けたかった。それだけだ」


 そう誤魔化した。きっと工藤くんも分かっていたはずだ。夢乃夜ひとえは嘘をついた、と。

 しかし彼は僕たちに何度も感謝を伝えた。のみならず、いつか困った時は自分を頼れとも宣言した。

 海野は先ほどの動画を工藤くんへ共有し、彼は去って行った。

 腰を抜かしたままの海野の隣に僕が座ると、彼女は悪戯に微笑んで言った。


「嘘は体に毒ですよ、おにいさん」

「分かってるとも……」


 海野が僕の嘘を見落とすはずもなく、このまま逃がしてくれるわけもないことくらいわかっていた。

 僕の左手にそっと彼女は右手を重ねる。心臓が騒がしくなる中で僕は言った。


「きみだったら逃げない。そう思ったから……」

「────」


 他人の為に泣ける彼女に救われた僕が、あそこで逃げていいはずがない。

 純粋な正義感とは程遠い。ただの模造品だ。


「それってさ……」

「うん。僕はどうしようもないほどに、きみに影響を受けているんだ」

「じゃあ、あたしたちは特別な仲だね」

「勿論。海野千里は代替のない友達だ。僕は君のためだったら傷つくことも厭わない」


 だから海野を庇うことができた。

 海野に顔を合わせると、彼女は驚いたのか表情を失いかけていた。その意図を訊ねるよりも先に、彼女はいつも通りの笑顔を作る。


「そだね! あたしたちは……友達」


 以上。僕と海野が友達と自覚したお話だった。

 え? 何か決定的な勘違いをしているって?

 いいじゃないか。向き合わなければ世界が終わるって話でもあるまいし。


 ×


 それはそれとして、海野の言葉は僕を悩ませていた。


『あたしは今のひとえ、なんか、怖い』


 なんか怖いってなんだよ。はっきりと口にしてくれればいいってのにさ。

 ……そもそもだ。昨日の今日で僕に変わったところがあるとすれば、瑠璃宮無落の存在の有無しかない。

 海野は一体──


「隙あり!」


 霞の気迫のこもった声に意識を戻すと、目の前にはバドミントンのシャトルが迫ってきていた。

 そうか。今は七時間目の体育でバドミントンをしているんだった。そんな現実に気づいたところで時すでに遅し、シャトルは見事に僕の額にヒットした。


「うぐぉ……」


 バカ痛え。

 ラケットを手放して蹲る。フリーの打ち合いの出来事なので音は掻き消されているものの、これはかなりのダメージだ。


「頭ん中ピンク色にしてっからだぞ」


 霞は得意げにラケットを回しながらネットを潜って来る。

 とりあえず端によけて座り込み、僕は大きく息を吐いた。


「なんだよピンクって。海野だってそんなパンツ履かないってのに」

「へー、履かねえんだ。まあ冗談はここまでにするとして、実際海野のこと考えてたんだろ? 今日のあいつ変だったもんなー……」


 と、霞は換気のために開放している非常口から外を眺めて言った。彼の視界には外で走っている女子が映っていることだろう。


「運動する女子っていいよな……」

「おまえこそ頭ピンクじゃねえか」


 いや、分かるけどね。思うのと口に出すのとじゃあ気持ち悪さが段違いだ。


「でもさ、心の中でいやらしいこと思ってるのと、思いの丈を包み隠さずはっきりと口にするのは後者の方が潔くて漢らしいってもんだぜ」

「勝手に心を読まないでくれる? あと後者の言い分を美化した文章にしないでくれる?」

「海野と何があったんだ?」


 やばい。いつもに増して自分勝手がすぎる。この調子で振り回されるもんならうっかり自殺することを口にしてしまいそうだ。

 僕は慎重に言葉を選ぶ。


「分からないよ。あんな態度の海野は初めてだ。無落のことを訊ねた途端に素っ気なくなって……あいつ、彼女と折り合い悪かったのかな」

「そんな話聞いたこともないけどなあ」


 霞の反応に嘘は見られなかった。

 しかしそれならば海野が一方的に嫌っているということか? 海野千里が? 人のために涙を流すあいつが、身勝手に誰かを嫌うだって?

 信じられるものか。

 その意見は僕が否定してやる。


「おい、見ろ」


 変わらず外(というか、女子だろう)を見ている霞に言われるがまま、僕は隣に立つ。

 女子が五十メートル走をしていた。ランナーは海野と無落だ。欠席者分の穴埋めということで海野が二回走るのだろう。

 笛の音が鳴り響いた途端に二人は駆け出す。スタートダッシュを決めたのは海野だった。しかし、二十五メートルを過ぎたところで無落が加速し、最終的にコンマの差で無落が先にゴールを過ぎる。


「早えー。こりゃあ七秒ってところか。運動部の男子にすら引けを取らんな」


 肩で息をする海野と、軽く息を吐いて汗を拭うだけの無落。二人は笑顔を浮かべながら何かを話し、やがて列へと戻っていく。

 そんな光景を見て、僕は再び壁に背中を預けて座り込んだ。


「俺にゃ折り合いが悪いようには見えんな」

「僕もさ……。仲良しかどうかは分からないけど、少なくとも険悪には思えない。どうすっかなぁ」

「どうするって? 普通に訊けばいいじゃん?」

「えー……訊けないっしょ。さすがに無神経ではいられない」


 数少ない友人の神経を逆撫でするかもだし。自殺した後に縁が切れるのは間違いないが、だからと言って蔑ろにしていい関係ではない。

 これは自分勝手なのだろうか。


「あっはっは。めんどくせー、おまえ」

「面倒って言うな。人並みに考えて生きてんだよ」

「結果行き詰まってちゃ世話ねえよ」


 痛いほどの正論だ。抉るというか、穿つような一言。

 しかしその直後、


「そう難儀なことじゃねえよ。生きるってさ」


 などと優しげに言うものだから、僕は軽く笑った。

 いつもふざけたことをふざけたタイミングで言うくせに、一体今はどんな顔をしているというのか。その面を拝んでやろうと顔を上げる。

 霞は外を見たままだった。眠気に抗うようになんとも中途半端な遠い目。

 ただならぬ雰囲気なのは察しがつくが、それが真剣さに結びつくかどうかまではわからない。

 そうだ。僕は何も知らないんだ。

 誰かの感情も。

 僕が友達と思っている人が僕をどう思っているかも。

 全てに確証はなく、曖昧な主観だけで世界を作り上げる。


「初めての感情だ」


 体育館内の騒がしさにかき消されるほどの声で呟く。

 自覚一つするだけで一帯が瓦解してしまうようだ。自覚しないままならば、騙し騙しで幸せになれたのではないだろうか。……こんな欲望に意味はない。夢にすら昇華できないのだから。


「死にたいなあ」


 いつのまにかコート内に戻っていた霞が、


「ボーッとしてんならまた当てるぞー!」


 と大きく言う。

 僕は腰を上げて「点の取り方を誤るなよ」と肩を竦めた。


 ×


『人間関係の消失に気落ちするのも無意味なことだよ。人生は続いていく。生きている限り、その人との思い出は過去になるんだ』


 どんな話の流れかは省略するとして、生前、彼女はそんな冷たいことを言っていた。耳を疑ったが、それが本心だということに間違いはなかった。

 なぜなら、彼女は嘘をつかないから。

 交際をしている僕にいい顔を見せているというわけではない。僕らは己の存在を包み隠すことなく確立することを条件に交際していたのだ。


『過去には手を伸ばしたってどうしようもないじゃない。そうでしょ?』


 本心というのは大前提として、彼女には説得力というものがなかった。多くの人に愛され、その繋がりが切れたことがないのだから。

 彼女の人間性を知らない人からしてみれば、その言葉はただの嫌味でしかないのだろう。


『じゃあ、君は孤独でも平気なんだな』


 言うと、呆れたように顔を歪ませた。


『ひとえさあ……部分的な会話で結論を急ぐのは大損するよ』


 そんな大人らしい警告の後に続ける。


『言ったでしょ? 過去はどうしようもない。未来はどうにでもなる。縁が切れたのなら、繋ぎ直せばいい』


 振り返る暇があれば手を動かせ。頭を働かせろ。先を見ないでどう生きるというのだ。

 そんな力のある言葉を堂々言える彼女に、僕は一層惚れた。

 ……そんなことはどうでもよくて、繋ぎ直すというのは難しそうな話だと思った。


『そりゃあね。壊すよりも直す方が簡単なんて、そんなのありえないでしょ。でも、本当に縁の修復を望むなら、それは叶わない願いじゃないよ。ひとえには人を見る目があるし、人を惹きつける力があるから』

『何を見てそう確信したの』

『君を見てそう確信したの』


 細部を明かす気なんて更々なかったのだろう、悪戯な笑みを見てそう思った。

 今になって思い出してしまった。放課後になって、いつも通り二人に別れの挨拶を告げた後になって……。

 このまま今日を終えるのは間違いだ──彼女なら、きっとそう言う。

 先を行く海野に追いつこうと足を急がせる。彼女と友達の女子三人の計四人で校門手前の信号を渡っている。

 呼び止めにくいところだが、ここは意を決する以外にない。今更引き返すなんて男として……人として終わる気がするし。そうだろう? ──暗瀬くらせ

 点滅を開始する信号の前でぼくは彼女の名を叫ぶ。


「海──」

「はい、お久しぶり」


 その邪魔をする声の主は僕の隣におり、肩に手を置いた。艶と癖のあるショートヘア。全身黒の清潔感あふれる服装。やや中性的な美女は冷徹な眼差しで僕を捉える。

 ──一年前と変わらぬ姿で、彼女は言う。


「海野さんのお尻を追うのも悪くないと思うけど、わたしとおしゃべりをするのも悪くないよ」


 高圧的な態度で言う彼女は、若干のシニカルさを含んだ、そしてすぐにでも消えそうな微笑みを浮かべる。


甘奈あまなさん……。一体何の要で?」

「知ってるくせに」


 さすがに読まれているか。

 しかし、今は状況が状況だ。優先順位は圧倒的で──


「…………海野」


 彼女に目を向ける。僕の先ほどの声に反応していたらしく、海野は信号を渡り切ったところで振り返っていた。それは周りの三人も同じで、僕を睨むようにしてひそひそと何かを話している。


 考えてしまった。


 海野千里が大切な友人だというのなら、これは間違いなんじゃないかって。

 だから僕は委ねることにした。


「甘奈さん。やっぱり、言葉にしてください。してくれたのなら僕は選ばない」

「……羽倉はぐら暗瀬くらせの死から約一年。今の夢乃夜ひとえを知りたい。これで応じてくれるのかしら」


 僕は静かに頷く。

 そのまま路駐していた甘奈さんのワゴンに乗り込んだ。

 ああ──まったく、なんて情けない。こんな僕でいいのか?

 そんな自問をしたところで気づく。

 いいと思っているからこそ、命を断つんじゃないか。

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