第3話

 ところで、彼女は人が自ら死を選ぶことについて『とても勇敢だ』と評価していた。

 生きることは誰にでもできる。どんな環境だとしても、生き続ける──死なないだけのことはできる。その果てに死ぬことになるとして、それはきっと自分の意思でないことが多い。

 自らを殺せる人間はいる。しかし、それはほんの一握りでしかない。


『誰にでもできることではないわ。自分を殺すって、計り知れない度胸と勇気がいる』


 彼女がそう言ったのは偶然にも自殺現場に遭遇した時だ。僕らは二人で意味もなく遠くの町に出向いていた。その帰りに駅のホームで突然若い女性が身を投げた。回送ではなかったのである程度減速していたのだが、たしかに骨が砕け肉が潰れる音がした。

 思考が停止した僕の手を彼女は引いて駅を出た。僕らは外のベンチに座り、彼女は続ける。


『自分の為に死ねるなんて、とてもできたことじゃない』

『……自殺は逃げだって、世間は言うけれど?』

『冗談じゃない。自分の運命のケリを自分でつけるのはとても勇敢よ。わたしにはとてもできないわ』


 それは違う。僕は即座に否定できた。彼女ほどに勇気のある人を見たことはなかったのだから。事実、彼女は他人である僕の為に命を捨てて見せた。

 しかし、と思う。

 あの時は気が動転してしまって訊けなかったが、彼女はどうしてあんな話をしたのだろう。微妙だが死への執着を感じられる発言にも取れる。

 後からでも問う機会はあった。

 僕は何故──君に訊かなかったのだろう。


 ×


 四月十二日。ひどく純粋な告白を受けたその翌日、僕は彼女の声でも鶴望さんの声でもなくインターホンの音によって目を覚ました。


「うるさ……」


 文句を垂れて部屋を出る。

 うるさいということはインターホンは立派に仕事をしているということだ。ここで苛立ちを覚えるべきなのはインターホンではなく、朝の七時半から訪ねてくる人相手だろう。

 画面越しにその相手を見て、僕は言葉を失った。通話のボタンを押して不意に震える声で言う。


「おはよう……瑠璃宮さん」

「はい。おはようございます」


 笑顔をカメラに近づけて瑠璃宮無落は応えた。


「何をしているの、君はさ」

「わたしはあなたと恋人……以上の関係ですよ。朝だろうと唐突に家に来たところで特に不思議もないでしょう」


 それを言われると弱い。

 口にしてはいないものの、たしかに僕はこの人の『告白』に応じている。これから一緒に死ぬ相手に対してこの程度でムキになるのは僕に足りないところがあるな……。


「わかったよ。気にしないことにする。すぐに準備するからそこで待っていてくれ」

「え? 上げてはくれないのですか?」


 意外と図々しい娘だな。


「ダメだよ。勝手はできない。僕の家じゃないんだ」

「『勝手』と言うのならばたしかにそうなのでしょう。しかし、わたしたちはこれから勝手に死のうとしています。多くの人に多大な迷惑をかけることになるでしょう。まさか事前に許可をとるつもり? 違いますよね。ですので、クラスメイトを家に上げる程度の勝手に躊躇いは不要ですよ」

「……手厳しい人」


 僕はキーを解除した。自動ドアが開いたのを確認すると、瑠璃宮さんは一層顔を明るくした。


「ありがとうございます」


 ×


「ところで、どうして住所を知ってたのさ」


 テーブルを挟んで向かいに座る瑠璃宮さんに問う。思えば真っ先に訊ねるべきことだった。


「それは当然……先生に訊く以外にないでしょう。ほら、わたしって信頼がありますから」

「え? え? 先生に? 堂々と?」

「いえ。申し訳なさそうにいいました」

「そういう問題じゃなくない?」


 個人情報を漏洩させるのはよくないことだ。いくらなんでも『瑠璃宮無落だし……』といった感覚で言ってしまうのは職員としてどうかと思う。

 この人が信頼されている人間ということは分かったけれど、そのせいで僕がこの人を信用できなくなりそうじゃないか。


「せめて僕の友達に訊いてくれりゃよかったのにさ」


 コーヒーを飲んで思考する。

 高校に入学してから友と呼べる人間が少なくなったとはいえ、中学時代から知る仲は少なくない。先生に生徒の個人情報を吐かせるほどの信頼がある瑠璃宮さんならば、同学年で知らない顔なんてないだろう。

 ──と。瑠璃宮さんは僕を見ていなかった。顔は確かに合っているのだが、それだけだ。

 どこまでも果てなく、たどり着くことのない遠くを見ている、そんな絶望の瞳。

 それはよく知る感情だった。

 しかし、何故今になってそんな目をした? 僕の言葉にきっかけがあったとしたら『友達』というワードくらいだ。


「哀しい目だ。なにが君をそうさせる?」


 正解が欲しくて僕は訊いた。

 瑠璃宮さんはその目を普段の綺麗な赤に戻してぽかんとしている。若干間抜けな表情には可愛さがあった。


「なんだい、その顔……」

「……いえ。あなたが好かれている理由がよくわかりまして。なるほど、これがあなたの長所なのですね」

「……? 君は感覚でモノを言う節があるな」

「いいですね、その感じ。その気が緩むような感じ。わたしたちの間に遠慮は不要ですから。お互いを知り尽くしてこれからを楽しんでいきましょう」


 魅力的な言葉で、悪魔の囁きにすら聞こえるが、その本質は答えを誤魔化すための小道具でしかない。

 今はまだ答えを聞ける段階にないと、そういうことなのだろう。だから僕は「そうだね」と頷いた。

 僕の確かな肯定は、着実に破滅へと続いているだろう。


 ×


 瑠璃宮さんとの登校は不思議と気持ちが落ち着くようだった。

 学校が近くなるにつれて生徒が増える。良い意味で有名な瑠璃宮無落と悪い意味で有名な夢乃夜ひとえが並んで歩いているのだ、当然視線も多く集まった。

 ──事件の直後で多くの人に訊ねられたからか、視線による羞恥心というものは一切ない。瑠璃宮さんも周囲の視線をなんとも思っていないようで、崩れることのない微笑を貼り付けている。


「なあ。さっき『これからを楽しむ』って言ったよね」僕はふと問いかけた。「それってどういうこと? 僕らはただ死ぬだけじゃないの?」

「まさかでしょう。自殺の前が楽しくなくてどうするというの? 最期はともかくとして、『最期まで』は楽しく生きましょう。そうでないと、悔しいじゃないですか」

「……なるほど。世界への敗北感ってヤツだね」

「まさに!」


 嬉々として目を輝かせる瑠璃宮さんはその美形を僕に近づけた。昨日から思ったことではあるけど、この娘、距離の詰め方の段階というのがまるでない。


「瑠璃宮さんって──」


 誰にでもそうなの? そう訊こうとしたが、瑠璃宮さんは自分の唇に人差し指を当てて沈黙を促す。


「『瑠璃宮』はやめましょ。それはわたしではありません」

「……は」


 あまりにも痛快な発言に僕は軽く笑った。本当に軽くではあるが、久しぶりに濁りない笑顔を作れた気がした。


「いいね、無落。君はとても愉快だ」

「そう言ってもらえて嬉しいです、ひとえ。あなたの言葉にはたしかな説得力がある」

「説得力、か。それってさっき言ってた長所に繋がる?」

「ええ。ひとえ、あなたには──」


 その続きが聞こえることはなかった。何故なら、唐突に後頭部に衝撃が走ったからだ。

 パン! と大きな音がしたのは僕の頭が叩かれたから。勢いで首がもげそうになった状況でも無落が驚いているのは捉えられた。


「いってえな……なんなんだよ」


 僕が振り向くよりも先にそいつ──霞冷他は肩を組んできた。


「昨日の今日で動きが早いな、夢乃夜!」

「あのなあ……僕はなにも──」

「初めまして。無落ちゃん、俺のこと知ってる?」


 僕のことをそっちのけで間に入る霞。


「もちろんですとも。同じクラスじゃないですか。そうでなくとも、サッカー部は女子の間で人気ですから」


 無落は笑顔付きでうまく対応する。しかし、きっと霞は僕たちの関係性を詰めてくる。そうなるとこの人はどう誤魔化すのだろう。


「へー! 嬉しいこと言ってくれるじゃん! ところで、無落ちゃんはどうして夢乃夜と一緒に?」


 そらきた。

 さすがに「一緒に死ぬ為に声をかけたら好意的な返事をいただきまして」だなんて言えないだろう。

 さて、どうする。


「一緒に死──」

「うわああぁ!」


 僕は慌てて無落の口を手で塞いだ。


「何を言ってるんだお前! 天然さんなの!?」

「一緒に『し』?」


 口を塞いだままで僕は答える。


「一緒に静岡行くだけの関係ってことさ……な?」

「──ぷは」


 僕の手を退けて無落は「強引……」と頬を朱色に息を整えた。


「ええ。どうやらわたしたちは静岡に行くだけの関係だそうで」

「めっちゃ分かりやすい嘘じゃん」霞がツッコミに回るほどにダメダメな誤魔化し方だった。「仮にそれを信じられたとしても、どうして一緒に旅行する間柄になったんだって訊かれるぜ?」

「……違いない」


 僕はキョトンとしている無落の横で肩を竦めた。

 これはもうどうしようもないな。そう思っていたところ、霞は「うまい言い訳考えとけよ!」と先に駆けて行った。


「爽やかなヤツ……」


 そうだ。僕は知っていた。アイツは人よりも賢くて、それでいて優しい。誰に対してどう立ち回ればいいのかを理解している貴重な人種だ。

 知っていたと言うのに、わざわざ誤魔化そうとするだなんて。


「焦ってるな」


 僕は自覚する。

 無落と歩く初めての道に冷静さを欠いていた。

 こんなんじゃダメだ。動揺は失敗へ繋がる。何も果たせないまま終わってしまう。


「一体どうしたというの?」


 無落が僕の顔を覗いて言った。

 ふと止めていた足を動かして僕は答える。


「……君には似合わず可愛らしい一面があることに驚いたのさ」

「正直に答えるのはまずかったかしら」

「そりゃあまずいよ。自殺は祝福されない。君の周りがどうかは分からないけれど、僕の友達はいいヤツだ、絶対に気を悪くする。死んだ後は野となれ山となれでもいいけど、その前に迷惑や心配をかけるのは僕の望むところじゃない」


 自殺する奴が何を言っているんだか、と自分でも思うが、無落は納得したようで静かに頷いた。


「そうですね。考えるまでもない事実でした。すみません、気持ちが昂っていたようで」

「いつもと違う気持ちがあるというのは僕も同じだがな。しかし、昂るか……一体何が君をそこまで殺すと言うの?」


 誤魔化されることを覚悟で訊く。表情もまた変わるだろうと予想していたのだが、彼女は笑顔のままで言った。


「死ぬ前に当てて見せたら、あなたの願い事を一つ叶えてあげますよ」

「……最高じゃん」


 僕はここで初めて昂った。

 ああ、そうだ。僕にはこれが必要だったんだ。

 彼女の死によって負った傷を癒すことはできない。それは彼女の存在を『その程度』と割り切ることに等しいからだ。

 しかし、痛みを誤魔化すことはできる。僕にとってこの気持ちの昂りこそが絶対的に必要だったんだ。

 興奮によって痛みをおさえるなんて言えば些かよろしくない薬にも思えるけれど、どうせ死ぬんだ。誰に迷惑をかけるでもなく、限度を知って自由に生きてやろうじゃないか。


 ×


 僕と無落の席はちょうど対極に位置する。

 ホームルーム前の騒がしい時間だから彼女とその周りが何を話しているかは聞こえないけれど、しかし度々僕に視線が送られることから内容を想像するのは容易だった。


「ねえ、なんだか変な雰囲気じゃない?」


 僕と霞が他愛もない話をしていると、海野が微睡んだ目を擦りながらやってきた。


「夢乃夜と無落ちゃんが二人で登校したら悪目立ちした。そんだけさ」


 霞が当たり障りのない回答をする。

 ……結局、僕は霞への言い訳を用意することができなかった。


『お互いの祖父母の出身地が静岡ってんで意気投合したんだ』

『そっか。ま、そのうち話せよ』


 こんな信用のないやり取りを経て今に至る──。


「え? ひとえと? 無落ちゃんが? え? なんでなんで?」


 カバンを机に投げてしゃがみ込む海野。短いスカートのクセしてよく男子二人相手にそんな格好ができる。


「こら、パンツ」


 僕が目を覆って言うと、海野は得意げに鼻を鳴らした。


「こう見えても見せパン履いてるんだよ。あたしってばガードは固いから」

「あれ? でも中学の時は……」

「アレは忘れて! 人は成長するんだよ!」


 海野はそう叫んで僕の頭を前後左右に振りまくる。地雷を踏んでしまった。


「コレが童貞処女の情けないやり取りか」


 霞の容赦ない一言が海野の胸を抉ったようで(僕にも多少のダメージが、なんてのは言えない)、頬を真っ赤にして霞へ詰め寄った。


「なんであんたはそういうこといえるのかなあ!? ……あれ? どう、てい?」

「……ところで、僕と無落のことだけどね」

「うんうん。あっ、もう名前呼びじゃん!」


 扱いやすい人っていうのはいつか痛い目に遭いそうだ。扱っている側の僕がなにを言っているのかという話だけれど……、それにしたって海野の今後はどうしてか他人の僕が心配になる程だ。


「彼女とは昨日図書室で偶然ばったりとね。同じ本を手に取ってそこから友達になったって流れさ」

「へー。なんだか古典的というか、典型的というかだね。……友達か。友達ね……」

「?」


 海野の笑顔はどこか曇っていた。その顔の違和感を霞も感じていたようで、「変な顔」とハッキリ口にした。


「思考がダダ漏れだよね、おまえ」

「素直なのが長所。だから俺は愛されてんの」

「うげえ……」


 まったくよく言うよ。

 いつの間にか空気のようになっていた海野に再び目を向けると、彼女は無落の方を見ていた。

 海野の目には無落がどう映っているんだろう。

 ……あ。これっていい機会じゃないか。


「ねえ、二人は無落をどう思う?」


 僕が言うと二人は不思議そうな顔をした。


「『どう思う』ってーのは、つまりはどういうことさ」

「えっと、だから、人間性っていうのかな? 二人にはどう見えているのかなって。客観がほしいんだ」


 僕の主観だけで彼女が死にたがる理由を当てられるとは思えないからね、とまでは言わない。


「言わずともだとは思うが、俺には『完成された存在』に見えるぜ。あの娘、苦手ってのが存在しないだろう? 何事においてもさ」


 何にだって適応できる、と霞は言う。昨日までなら大いに納得できる分析だ。

 しかし、無落は生きること──人生に適応することができなかった。

 彼女は不完全なのだ。この僕と同じく。


「海野は?」


 訊くと、海野は逃げるように僕から視線を外した。


「そうだね。うん、きっと、いい人じゃないかな。知らないけど」

「なんだ、妙に歯切れが悪いじゃないか」


 海野も海野でハッキリとモノを言うタイプだ。それは中学の時から一貫している。だから違和感に塗れていた。

 それに『いい人』というのは本心を隠すための言葉に取れてしまう。

 海野は無落に対して良くない感情を抱いている。

 初めて見る海野の態度がそう思わせた。


「そりゃあ悪くもなるよ。あの娘とはあんまり話したことないんだもん。よく知らない人のことを、知った風に言いたくない」


 真剣な声色で言う。本当に正直な奴だ。


「たしかに! 清楚で可憐な無落ちゃんとは正反対だからな! 知らないのも無理ないか!」


 こっちはふざけた声色。こいつ……常に爽やかではいられないもんかなあ。たしかに気持ちのいい性格ではあるけれど、時と場合をを考えるべきだ。今の海野は決して明るい色をしていないというのに。


「もう! 冷他はほんとデリカシーないんだから」


 と、海野はいつもの雰囲気で冗談に対応する。そのまま続けた。


「あたしこそ訊きたいけれどね。ひとえが、どうして昨日の今日で無落ちゃんと友達になれたのか。創作抜きで」


 図書室の作り話はしっかりと嘘と見抜かれていた。

 不意に頭の中をのぞかれたみたいで息が詰まる。


「あたしは今のひとえ、なんか、怖い」

「え……?」


 笑顔のままだったけれど、それは内心を曝け出さないための防御に思える。

 やっぱり全てが不自然だ。

 疑問を投げかけるよりも先に担任がやってきてホームルームを始める。

 この時間で確信した事は二つ。

 海野は無落について何か他に見えていることがある。

 そして、僕と海野の関係には亀裂が発生したということだ。

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