第2話
“結局、死ぬのが怖いのね”
彼女の声で瞼を開けるようになってからまる一年が経った。
四月十一日午前七時。暖かさの見え始めてきた季節は虚無で満ちていた。いっそ死ぬほど暑かったり寒かったりしたのなら、この目覚めたようで夢見心地な中途半端から抜け出せると言うのに。
“生きているから生きているだけというのなら、それは死んだも同然よ。今に恐怖しない理由は何?”
なるほど、さすがはぼくの妄想。マジで彼女なら言いそうだ。
「厄介だよ、まったくさ……」
ベッドから起き上がり、一先ず机に頭を叩きつける。しっかりと『痛い』と思えたところでカーテンを開けて日を入れた。
八階から眺める風景は壮観だ。高い土地にあるおかげでこの街──礼舞市の心臓部もよく見える。
家から眺める景色なんて本来ならば慣れがあり、そしてその向こうの『飽き』に到達する。ぼくがこの景色を一向に飽きることができないのは、この家を自分の家だといつまで経っても自覚することができていないからに他ならない。
少ししてから部屋をノックする音がした。
「ひとえ、大丈夫? なんだか自虐的な音が聞こえたけれど……」
分析が的確すぎる。
「なんでもないよ、
「そう? ならよかった。私はもう出るから、鍵よろしくね」
「いってらっしゃい」
鶴望さんは出て行った。
さて。僕と言う人間が高校三年生という身分の以上は登校の準備をしなければならない。
死者の言葉に縛られたままの、情けなく呆けた顔に水を当てる。
……顔が死にかけてきた。
僕の一番の友人は僕自身。だからこそ、彼女が死んでからの僕の変化に気づかないわけがない。
「まあ……致し方なし」
あんなことがあって平然と夢乃夜ひとえをする方がサイコパスってもんだ。
人の死は人に影響を与える。与えない人なんてよっぽど価値のない人間。僕にはその影響が悪く作用しただけ。
……それだけのこと。
適当な服に着替えて家を出る。行ってきますの言葉は言う気になれなかった。
×
僕の通う私立高校は徒歩二十分のところにある。歩くには中途半端に長く感じるところもあるのだが、わざわざ乗り物を使うとなると遠回りな気がしなくもないという絶妙な距離だ。
入学当初から二年生まで僕はその通りだと実感していた。友人にも恵まれて、中学時代からの彼女とも円満で。
──その彼女が殺されて、全ては崩壊へと向かっていた。
「おっはー、ひとえ」
中でもまだ崩壊していない関係がある。その一つが玄関で陽気に挨拶をしてくる彼女──
「うん。おっは」
「あたし、分かってしまったよ。自分のなりたいモノ」
「いきなりなんだってのさ」
腰に手を当てて不敵に笑う。海野にその仕草はあまりにも似合わなかった。
「あー? 『なんだっての』じゃないよ! 進路だよ、進路! もう三年だよ!」
「ああ……進路、ね」
そういえば海野はずっと『将来が見えない』と言っていた。長きにわたる問いの答えがようやく見つかったと……そういうことか。
「あんたのせいでテンポ崩れちゃったじゃん。ほら、仕切り直すから訊き返して」
「ええ……」
朝から人前で漫才やれるほどの元気はないんだけどなあ……。
「まあいいか。では、あたなのなりたいモノは?」
「よく訊いた凡人よ! ズバリッ! あたしは大学生になる!」
「……………………」
「……………………?」
ツッコミ待ちといった雰囲気でもないポンコツの顔。とりあえず僕は海野が振り上げた右腕を掴んで無理矢理下ろした。
靴を履き替えて教室に向かう。
いいね。綺麗な校舎は歩くだけで気分がいい。なんて爽やかな朝なんだろう。
教室に入ると一瞬の注目と沈黙がやってきた。すぐに過ぎ去るこの時間は彼女が死んでから発生した。
『ニュース見たか? 夢乃夜の彼女殺されたらしいよ! 巷で噂の殺人鬼に』
『うぇ。マジかそれ。通りで校門に記者っぽいやつが居たわけだよ。可哀想だな、夢乃夜。すげー上手くいってたみたいなのに』
『ああ。しかもな、どうやら夢乃夜を庇って殺されたみたいなんだよ』
『うわっ。それ一生モンのトラウマじゃねえか』
こんな感じで最初は同情の声があったらしい。しかし、彼女はこの学校で僕よりも愛されていた存在だったが故に、やがて僕を責める声が多くなった。
『男が守られてて情けない』
『あいつが盾になればよかったのに』
胸に刺さる《正論》の数々に僕はしてやられ、一時期は声の出し方すらも忘れかけた。落ちるところまで落ちた時に周りは
『悲劇の主人公かよ』
『可哀想アピールきめえ』
と思っていたらしい。
面倒な奴らだと思いながら、しかしこのままではたしかに良くないとも思った僕は気持ちを切り替えてクラスメイトに話しかけた。受動的人間であったものの、友達は少なくない方だったから……。
そして、次の評価はこうだった。
『もう彼女が死んだことを忘れたみたいだ』
『人の心がない』
どうしろってんだよ。
八つ当たりを口にして、当然僕は孤立した。
でも、その中で変わらないでいてくれたもの。
「ひとえぇ!」
海野千里はずっと僕の友達をしている。
「なんで⁉︎ なんで置いてくわけ⁉︎ 何かおかしかったならせめてツッコミ欲しかった!」
着席する僕に詰め寄る海野。
クラス内でも他人の視線を気にすることなく僕に関わってくれている。
「大学生だって立派な夢じゃんよ……」
海野は不貞腐れつつ僕の前の席に座る。
僕だってこの時期だというのに将来の予定が空っぽだが、『将来の夢』を進学の二文字で誤魔化せるとは到底思えない。
まあ、進学すること自体を決めている時点で僕よりもよっぽど賢いんだけどね……。
──しかし、将来か。
視線を左に窓の外を見る。
どこまでも明るいセカイなのに、未来はまったく視えない。……いや、『真っ暗』という黒を視認しているとするならば、それは見えていると言ってもいいのか。
なんて複雑な思考をしていると、
「なーに空なんか見ちゃってんだよ。そんなに面白いかい」
隣の席から声をかけられる。
振り向くと、スポーツメガネをした男はジャージ姿のままでスポーツドリンクを口にしていた。
彼の名は
霞とはこの高校で一年の時に知り合った。彼女、僕、海野でいつものメンツというものを築いていたところに霞が加わって四人でいることが多くなった。
海野千里に霞冷他。この二人がいまだに崩れていない人間関係。
「カッコつけていたんだよ。せっかく窓際の一番後ろなんだ。カッコつけてなんぼだぜ」
「馬鹿だねえお前さん。カッコいい奴がカッコつけるから光り輝くのに」
すごい侮辱を受けた気がした。いつの間にか振り返って大笑いしている海野を見てそれは確信に変わる。
「……朝練か。サッカー部は毎日毎日元気だよな」
「元気を強制させられんのさ。悪い意味で元気の源はこの学校」
そういって霞はその場で着替え始める。鍛え上げられた見事な肉体にクラスの女子は見惚れているよう……こんな光景はほぼ毎日だ。
「ねー、ばっちぃ。毎回言ってるけどなんで部室で着替えないわけ?」
手で目を覆う海野のもっともな指摘に霞はやれやれと肩を竦めた。
「毎回答えてるけどねえ、野郎だらけのところで着替えたって楽しくないの。この学校は可愛い娘で溢れてるから着替えが楽しくなるってもんよ。な、夢乃夜」
「着替えに楽しさ求めんな」
こうした冗談を言い合える間柄は本当に貴重だ。
貴重だからこそ。
僕にとって二人は宝物だからこそ、はっきりとさせておきたいことがあった。何故今日言おうと思ったのか──それは僕にも分からない。
「二人は僕と関わっていて大丈夫なのか?」
昼休み。食堂で向かいに座る二人に言った。
海野も霞も一度きょとんと思考を止めたようにしてから再びカツ丼を頬張り始める。
二人が気を悪くしてしまう可能性があるのはわかっていた。しかし、だからと言って現状を良しとしたままでいるわけにはいかない。それはそれで僕の気分が悪くなってしまう。
「『大丈夫なのか』ってーのは、つまりどう言うことだ?」
完食した後で霞が言う。
「ほら、悪目立ちしてる奴と関わったら悪評が感染するかもしれないだろ? 『犯罪者の息子は犯罪者』……みたいなさ。悪い奴の友達は悪い奴ってね」
「おまえ、そんなこと思って生きてるわけ?」
「冗談だろ。けど、こうした思想があるのは事実だ。客観を創るのは無数の偏見だ。それは自分自身じゃどうしようもないんだよ」
「なるほど。俺に限っての話をすりゃあ、そうだな……」
霞は悩むような仕草をいくつかしたが、そのどれもが妙にわざとらしかった。そんな彼の様子を不自然に思っているのか、海野も声には出さないが笑っている。
「選ぶ権利! そいつは俺にだってあるんだぜ。夢乃夜と関わったことによって途切れる人間関係なんて所詮その程度のものさ。繋ぎ止めようともしないし、こっちから願い下げだね」
「あたしも左に同じかなあ」海野はどこか悲しげに言った。「そもそもね、ひとえと関わったからって理由で縁が切れたことなんてないよ。多分、みんな気を遣ってるだけなんだ。そこに『悪い圧力』が重なって距離感が分からなくなったんだよ」
「圧力……」
繰り返す僕に海野は続ける。
「ひとえを悪く言った人は片手で数えられるくらいしかいなかった。そいつらの圧力が蔓延したせいでみんながみんな同じことを思っている──そう錯覚しているんだよ。違うなら今頃あたしと冷他の友達はゼロ人になってる」
納得させられる分析だった。もしも本当に二人になんの影響もないならば、だけれど。
「圧力の元凶も悪いといえば悪いが、やっぱりすべては殺人鬼の野郎だ……」
霞は腕を組んで割り箸を強く噛む。わかりやすい苛立ちの表現だ。
「でもよ、夢乃夜も夢乃夜だぜ? いつまでもおまえがその調子じゃあクラだって浮かばれない。まだ捕まっていない殺人鬼だって笑い続けるだけだ。無自覚かもしれないけど、おまえ、全然笑わなくなってる」
「……もちろん気付いてるさ。自分が死んできていることくらい」
だが、どうして彼女が死んで僕が平気で生きていられるだろう。
何をするにしても君が連想される。自分が死んでいくことを君のせいにしているみたいで、一層自己嫌悪に陥る最悪。
「過ぎたこと──までは言わんけどさ。それなりに消化していくしかないんだよ」
「うん。そうだよな」
僕は上辺だけの返事をした。今だけは上手く笑えている。そんな気がする。
「そんなわけで! さっそくリハビリしようぜリハビリ!」
空気が一変して悪巧みを考えてそうな顔になる霞。その身を乗り出して小さく言った。
「背後の娘と友達になってみろよ」
「うしろ……?」
促されるままに振り返る。背後の席には女の子が座っていた。肩までの濡羽色の髪をブラウンハーフアップにしている。凛々しい居住いで後ろ姿ですらその可憐さを発揮しているこの人を僕は知っている。
人間性は──しらない。
今もそうだが、瑠璃宮さんは基本的に複数の女子に囲まれていることが多い。彼女本人もその周りも基本笑顔の様子だから『きっと良い人』という身勝手な分析はできるけれど、話したことのない人の性格を断定するには足りない。
「…………」
僕は再び振り返って霞に言う。
「戯言はよせよ。リハビリどころか罰ゲームだ」
「罰ってことはないだろうに」
「それは言い過ぎたけどさ。彼女、あまり男子と一緒にいないだろう」
そう。瑠璃宮さんは基本的に女子とつるんでいる。確かに例外も存在するのだが、それは本当に稀だ。
「だからこそのリハビリじゃねえかよ。無落ちゃんと友達になれたら周りの空気だって変わるさ」
「それはそうなんだろうけどな……」
どうにも気が進まない。
瑠璃宮無落が気に食わないとかそう言う話ではない。ならばなんなのかと訊かれれば具体的に答えられないのだけれど……。
抽象さを極めた恐怖心、とでもしておこうか。恐怖心という言葉すらも曖昧さを含んでいるのだが。
ふと黙り込んでいた海野に目を向ける。何かを見定めるようにして僕──いや、違うな。瑠璃宮さんを窺っている。
僕と目があってから海野は目を逸らした。意味ありげな動作について訊くのはなんだかよくない気がした。少なくとも今ではない。
「なっ、千里はどう思うよ」
鈍感くんが察することなく訊きやがった。
「ほっ⁉︎」
驚く海野に霞は容赦なく詰め寄る。
「いいから、そういうあざとい反応いらんから。良いと思うだろ? 夢乃夜と無落ちゃんに関係を持たせるのは」
「あー……うん。そうだね。まあ、空気は変わるんじゃないかな、たしかに。たださ……それを決めるのはひとえだよ。あたし達にどうこう言う資格はない!」
キッパリと言って霞の頭部に拳を下ろす。可愛げのない鈍い音から分かるように霞には大きいダメージが入った。
撃沈した霞を差し置いて海野は僕に向かって言う。
「クラもひとえが笑ってないと寂しいと思うけどさ。焦る必要なんかないよ。ひとえだけじゃない……あたしたちにとっても一生の傷なんだからさ、クラが殺されたことは。すぐに癒えないのは当たり前じゃない……」
僕たちはそれぞれ表情をなくした。少しでも気を緩めると怒りが、悲しみが、虚ろが込み上がってくる。それに対してのささやかな抵抗だった。
×
人一人に大袈裟と思われるだろうか。
人は毎日死ぬ。世界中で誰かが死なない日なんてない。その事実を誰もが知っている。明日には自分が──或いは自分の周りが死ぬかもしれないという事実に目を瞑りながら。
偶然人が死んだ。
偶然僕の彼女が対象だった。
偶然殺人鬼に殺された。
この偶然を割り切れると言うのか? 日頃他人の死に興味を持たなかった僕がそう思うのは傲慢なのだろうか──。
「今日部活休みだからこの後どっか行かね? どうせ暇だろ、帰宅部共よ」
ホームルームが終わるなり霞が言った。
「あたしは空いてるよ。あと、一応忙しいから。帰宅部舐めるな」
いちいち面白い海野の受け答えの次には僕に視線が集まる。
即答しようとしたところで、僕はとどまった。
「いや……今日はパス。少し図書室に用がある」
海野が「へえ」と意外と言いたげ顔を見せる。
「なんで? おまえ読書家でもないだろ」
「そうだけどさ。大学について色々見てみようと思って。これでも三年生だから」
二年生で色々と遅れてしまった僕には道が限られているだろうけれど、だからといって進学を諦めるには早すぎるだろう。
「図書室には結構な資料があるからな」
「なんだよつまんねーな。じゃあ千里、誰かしら誘ってどこかしらへ行こうぜ」
「すご。あたしより頭が悪そうなセリフ」
「……そんじゃあ、お先」
僕は二人に軽く手を振って図書室へと向かった。
図書室は玄関の向かいにある。仕切りは無く、二階まで吹き抜けの構造となっている。開放感あふれるデザインでとても居心地が良い。
そこでの時間はあっという間に一時間が過ぎようとしていた。
大学の資料を眺めると言うのは案外楽しかったりする。学部の紹介もそうだが、なによりキャンパスライフの紹介ページが面白い。こんな建物で四年間を過ごせたらどれだけ楽しいだろうかと妄想するだけである程度満たされてしまうのだ。
しかしまあ、大半が偏差値の都合で叶わないのだけれど。
「はあ……わっかんね」
どんな資料に目を通しても未来の自分が見えてこない。
それも当然だ。今の僕には明日がどうなっているのかすら予想もできないのだから。
どんな自分になっているかなんて話ではなく、生きているか死んでいるかすらも不鮮明ということ──。
「犯人、まだ捕まっていないんですってね」
落としていた視線を上げると、向かいの席には瑠璃宮無落が座っていた。
……え?
「いつの間に……」
いや、それよりも。
この人、今なんて言った?
「何を意外に思っているのですか? 彼女のことをこの学校で知らない人などいないでしょう。記者への対応の全校集会だって……」
「違う。君はもっと踏み込んだことを言ったぞ」
僕たちは初めて会話をする。彼女の死や犯人について語り合えるような間柄ではない。
この人……どういうつもりだ?
校内でいつも見る笑顔。それにはどこも不自然さはないはずなのに、今のアプローチから何か含みがある顔に見えてしまってならない。
「…………」
彼女から目を離すことなく僕は本と資料を片す。
「あら……ごめんなさい。警戒させてしまいましたね」
「気にしなくていいよ。僕が勝手に警戒してるだけなんだから」
「おかしな言い回しですね。好きですよ、そういうの」
“きみのそういうところが好きなんだ!”
──ふと記憶が蘇る。
幻聴にしてはあまりにも生々しい彼女の声を聞いて僕は顔を顰めた。
退散のために浮かせていた腰を落ち着かせる。未知の不安感を見定めてみたいという好奇心があったから、瑠璃宮さんに向き直すことにした。
……嘘だ。
本当は少し──本当に少しだけ彼女のことが連想できてしまったから。
それだけのことである。
「瑠璃宮無落……」
改めて、その名を繰り返す。
「はい。わたしは瑠璃宮無落です。そしてあなたは夢乃夜ひとえくん。お互い代替の効かない名前ですよね」
何がおかしいのか、瑠璃宮さんは小さく笑った。
「耳にしただけでは男女の判別もつかない《無落》には『決して落魄れることのないように』という意味が込められているそうです。小学校の時には《落武者》なんてあだ名が付けられたことがあるんですよ」
「へえ……なんか、イメージ通りだな」
「わたしは戦場に行ったことも、そこで逃げた経験もありませんよ」
「落武者じゃなくて。『落魄れないように』ってところが。気高く高貴でい続ける、みたいな。それがイメージ通りってことさ」
「──そうですよね。親の思想が滲み出ていますよね」
「……?」
彼女には似合わない棘のある言葉だ。だってのに小首を傾げて笑顔を崩さないものだから感情の読み取りが難しい。
「あなたはどうですか、夢乃夜くん」
「どうって……」
「自分の名前についてですよ、ひとえくん」
「そういうことか。残念ながら答えられないよ」
「そうですか……。まあ、わたしはまだ信頼されてませんから無理もないですね」
そういうことじゃないけどね、と否定しようと思ってやめた。わざわざ僕から口にすることではないからだ。
「……それで、一体何の用だっていうんだい? 瑠璃宮さん」
僕はいよいよ踏み込んだ。
瑠璃宮さんは少しばかり笑顔を崩す。
「用──と言いますと?」
「僕たちは友達と呼べる関係でもないだろう。そんな仲であの一声だ。このまま雑談をしたいわけでもないはずだ。用って言葉が気に入らないのなら、本題に言い換えるけれど」
「悲しいな。わたしはあなたのことを本当に友達と思っているのに」
「君でも冗談を言うのか」
「冗談は言えますが、嘘はつけませんよ。そういう性格ですから。あなたを友達だと思い、それ以上になりたいと望んでいることは事実です」
「…………」
訊き返したくなるような発言だが、僕がそんな愚かをするよりも先に瑠璃宮さんが続けた。
「一目惚れというやつですよ」
「は……?」
「一年生の時、わたしは図書委員でした。二人一組で当番するのが基本で、わたしはある夏の日に欠席した子の代わりをすることになったのです。わたしが図書室に入った時、既に相方の人は居た。そう、あなたです。夢乃夜ひとえくん」
「そんなことが……」
言われてみればそんことがあったような気がしなくもない。
「太陽に照らされ、静かな風に煽られながら読書をするあなたは、わたしにとってどうしてか眩しすぎた。あなたは一言、『よろしく』とだけで済ませて平生と読書を続けていましたが、わたしはそれどころではなかった。隣で読書をしようにも心臓がうるさく一切集中できなかった。だというのに、まさか忘れているのですか? ふふ。ひどい人」
瑠璃宮さんは悪戯に笑って言うが、正直仕方のないことだと思ってしまう自分がいる。
誰だって昨日の夕食が何だったのか思い出せないことがあるはずだ。人と食事を同列に語るつもりなど毛頭ないが、赤の他人とひと言交わした程度ならば忘れたところでそれを責める人は少ないのではないだろうか。
それに、瑠璃宮さんと話したことを忘れたということは、それはおそらくこの人が有名人と知る前だ。これで話したことを忘れないと言うのは、その方がむしろに変にも思える。
……淡々と言い訳をしているが、人によっては記憶力の問題で片付けるのかもしれないな。
「そんなことで……そう思います? 人を好きになるには足らない理由かしら」
「いや、別に。恋がそういうものだというのは知っているつもりだ。ただ……」
君みたいな人が僕なんかに。それが事実であるならば本当に驚きだ。
「……二年も経っている。どうして今になって……」
「いいのですか? 言っても」
「……やめとく」
すぐに自己解決した。
一年から二年には彼女がいて。二年から三年は壊れかけていた。故に今──そういうことだろう。
「二年間見ていてよく醒めなかったな。僕が愉快な奴じゃないのは分かっただろうに」
「あんなことがあったのに愉快でいられたら逆に醒めますよ」
彼女に釣られて僕は微笑んだことを自覚する。
このまま黙り込んでは瑠璃宮さんのペースに持っていかれそうだから僕は言った。
「『それ以上の関係になりたい』と言ってくれたな。君の好意は素直に嬉しいけれど、その、僕は……」
「あの。何か勘違いされていませんか? わたしの言う『友達以上』の認識があなたと同じかどうか……おそらく違うのでは?」
「本当か?」
もしそうなら僕は一生分の恥をかいたことになる……是非とも認識のすり合わせをしたいところだ。
「えっと……君は僕を友達だと思っている」
「はい」
「友達以上になりたいと思っている」
「はい」
「それはつまり、恋仲」
「違います」
「……なら、親友」
「違います」
まるで意味がわからない。これ以外の人間関係なんてそうそう思いつかない。
困惑している僕に瑠璃宮さんは囁くように言う。
「恋仲以上、ですよ」
「……なんだって」
「わたしはあなたと生涯を終えるパートナーになりたい」
想像以上に重い告白に言葉を失った。
誰かが息を吹きだしたのが聞こえた。顔を向けると、入り口付近の受付にいた図書委員の女子がこちらを見て唖然としていた。
瑠璃宮さんが両手を合わせて「ごめんなさい。少し外してもらっても?」と言うと、図書委員は逃げるようにして出て行った。
「いいのかい? 明日には黒い噂が蔓延するぜ」
「あなたとなら、黒でも白でもどんな噂だって幸福です」
冗談には聞こえなかった。それがどうしようもなく不可解で、絶妙な心地よさを持っている。
しかし僕は冷静だった。
「一緒に生涯を終えたいってのは求婚みたいなものだな」
「ええ。もっとも、結婚した後で破局の可能性があることから、その言葉も些か間違っているように思えますが」
彼女は魅惑的な笑みになる。
僕には何を言っているのか、次の瞬間に何を口にするのかまるでわからなかった。
だから僕は彼女の言葉の続きを待った。
そして、瑠璃宮さんは言う。
「妄想を現実にする方法をご存知ですか?」
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