第2話 夏に向けて 4
塁が神英の野球部に入部してから一か月が経った。
ようやく自分のフォームを取り戻し、周りのことも見える余裕が出てきた。
「ねぇ、高松くん。キャッチボールしようよ」
声をかけてきたのは二年生の女子部員だった。いつもは榎本と肩を作るのだが、他の部員とも交流しようと思い、了承する。
「よかったぁ。ねぇ、いろいろ聞きながらしてもいい?」
先輩の名前は二年生の支倉奈々緒と言った。二、三年生の中では唯一の女性だが、身長は塁ともあまり変わらない。
キャッチボールをしながら、この最中に気にしていること、投げ方、ストレッチに仕方など、塁の練習方法を聞いていく。
「ねぇ、このままちょっとバッティングのことについてとか聞きたいんだけど、いい?」
「いいですよ」
「よかったぁ。高松くんっていつもは誰も近寄らせない空気で練習してるじゃん。今日ならチャンスかもって思ったけど、声かけるのはちょっと緊張したんだよね」
「そんなことはないと思いますけど」
「そんなことあるって。けど、まぁいいや」
奈々緒は真面目な表情を作り直し、塁に聞きたいことを質問してきた。ただ、菜々緒が塁に聞きたいことがあったように塁も奈々緒に聞いてみたいことはあった。
奈々緒は練習時、チームで一番飛距離を出している選手だった。塁たちが入部するまではチームの四番を務めていたものの、タイミングを外されたり、狙い球が違うと簡単に空振りをしてしまう脆い面があった。
自分とはバッティングスタイルがまったく違う選手の練習への取り組み方、どういう思考でバッターボックスに立っているのかを塁も知りたかった。
奈々緒は塁に自分のフォームを確認してもらい、アドバイスを求める。
塁は気になった箇所を伝え、二人でフォームの微調整を行っていた。すると、それを遠目で見ていた他の部員も塁に教えてもらえるならと二人に近寄ってくる。
塁もいいタイミングだと思い、野球を通して、他の部員と今までにない交流ができた。
その中で驚いたのは先輩たちの素直さだった。普通、後輩が先輩に教えを乞うことがあっても、逆はあまりない。いくら塁が中学時代に全国優勝したチームの主軸であっても、今は野球部に入部して一ヶ月程度の高校野球初心者なのだ。なのに、先輩たちはバッティングフォームや練習内容についても事細かに確認してくる。なおかつ、ただ言われたことをこなしたり、言われるのを待つ受動的な態度ではなく、自分たちで考えた上での質問なので、塁も頭が下がった。
このままいけば、公式戦のレギュラーに一年生から多く選ばれるだろう。面白くないと思う部員がいてもおかしくはないはず。いや、心の中では思うところがあるのかもしれないが、表立って空気を乱すような部員は一人もいない。
「どうしてですか?」
そんなちっぽけな質問を塁はしなかった。彼らを見てればわかる。もっと上手くなりたい、なにより、このチームで勝ちたいという気持ちが簡単に見て取れた。
美奈から去年まではこうでなかったと話は聞いていたが、それにしても変わりすぎだろう。
もちろん、美奈の話と彼らの野球に対するスタンスは違う。
彼らが神英の野球部に入部したのは、憧れからだった。八年前、女子選手として初めて甲子園の土を踏んだエースはこの神英高校のユニホームを身に纏っていた。
その年も翌年もテレビではドキュメントタッチのテレビ番組が数多く放映された。
橘きらりのいる野球部で野球をしたい。
そう思う高校球児は後を絶たなかった。その結果、野球部も今までにないほどの大所帯となった。
しかし。
部員が増えることは必ずしもいいことばかりではない。全員が真面目に一生懸命なんてことは絵空事だし、ベンチにも入れない選手からは不満も出る。きらりの在学中は彼女のカリスマ性を持って、なんとか一枚岩になっていたが、きらりが引退してからのチームは統率力を欠いた。
そんなチームが弱くなるのに時間はいらない。
甲子園に出たチームに対し、周囲は期待するも、一丸となり切れていないチームが勝ちあがるには実力が足らな過ぎた。勝ちたい気持ちはあるが勝てない。なにより、自分の思い描いていた未来と違うことに落胆したのか、いつしか負けてもその悔しさは持続せず、練習にも身が入らないというのが日常になってしまっていた。
今の三年生もきらりに憧れ、神英のユニホームを着たいという気持ちで入部した。けれど、きらりが引退してから三年も経っていたチームには停滞感という名の雰囲気がはびこっていた。練習は言われた通りするけれども自主性はない。三年間普通に野球をやって、普通に引退する。入部した時点でそんな未来が見えた。けれども、自分たちならこの空気を変えられる。変えるんだと彼らは意気込んだものの、下級生の彼らのアクションに応える上級生はいなかった。
熱意はあった。けれど、結果の出ない日々にこれでいいのかと不安になる。この努力は正解に近づいているのだろうか? そのしんどさがいつしか、彼らの足をじわじわと締め付けてくる。
去年の夏。神英は三回戦でコールド負けを喫し、今の三年生は最上級生になりチームの主力を任された。
変われるかもしれない。いや、変わらなきゃいけない。そう思っても、身体が、意識がついてこない。結果、秋季大会は地区予選で敗退してしまう。
これが実力か。
これが運命か。
しょうがない。
しょうもない。
部員たちの熱意は切れていた。
練習にも身が入らない。ただ無為な時間を過ごしていた。
そんな時。
「なにしてるんですか!」
フェンスの向こうから怒声が聞こえた。
なにごとかと部員が声の方向を見てみると、一人の少女が怒髪天を衝いていた。
「そんなんで甲子園に出れると思ってるんですか!」
当時、中学三年生で、翌年に進学を控えていた美奈にとって、今の惨状を認めるわけにはいかなかった。
「昨日だって、試合の途中で投げ出したかのような態度。なのに、負けた時の悔しがり方だけは一流みたいに。それで、今日のこの練習」
美奈はこのチームを追いかけていた。このチームに憧れていた。あの時の強さは失われたかもしれないが、信念みたいなものは受け継がれていると思っていた。
なのに。
「なめてるんですか!」
あったのは失望だけだった。
今だってそう。部外者から無茶苦茶言われて、部員たちは練習の手を止め、美奈を睨む。けれど、まったく引く気のない態度にいつしか部員たちの方が怯んでいた。
「お姉ちゃんが作ったチームはこんなんじゃなかった」
美奈は感情が高ぶり、目に涙を浮かべる。
今のチームにきらりは関わっていない。昔はよかったなんて、過去を美化するつもりもない。けれど、この野球部を見て、悲しむ人はきっと多いはずだ。
昨日の試合、美奈にとっては負けたことよりも誰もが途中から試合を諦めたような態度が気に食わなかった。
「私は来年神英に入ります。お姉ちゃんも成し遂げられなかった甲子園の優勝を本気で目指します。やる気のない人は今のうちに大学受験に専念するなり、他の部に移るなり、野球部を辞めて下さい」
美奈は部員に覚悟を求めた。それくらいのことをしないとこの部は変わらない。現に、部員たちは美奈の言葉をただ黙って聞いているだけ。
「私、明日からここに来ますから」
きらりの作った野球部をこのままにしたくない。美奈は宣言通り自分のクラブで練習することはなく、神英のグラウンドで高校生に交じって練習をした。
中学生と高校生。一年の差は大きく、体格や体力は当然、部員に劣る。けれど、美奈は誰よりも声を出して、練習着を汚す。
不真面目な部員にはきつく注意をし、反論があれば徹底抗戦。美奈は部員に必死になること、諦めないことを強制した。
そして、初めは戸惑いを見せていた部員も次第に美奈に感化されていく。年下の女の子が頑張っているのに、理由をつけて楽な方に流れるのはカッコ悪い。なにより、彼らがこの高校を受ける決め手になった橘きらりの妹にここまで言われて奮い立たないわけがない。
上級生は下手なプライドを捨てた。彼女のために、チームのためにできることをしよう。自分たちが上手くなれるのなら、耳を傾け、反復練習をしよう。先輩たちのその気持ちが今の素直な態度に現れていた。
先輩たちと美奈にそんなストーリーがあることを知らないが、塁も当然チームのことを考えてはいる。それでも、先輩たちの姿勢を見るにつれ、よりチームのことを考えるようになった。
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