003

「おいまた音がズレたぞ! 喉で歌うなっつってんだろ! もっと全身を使って音を作れ!」


「ひえぇぇぇん。無茶ですよぉ。綾瀬さんが言ってる事ちっとも分かんないですよぉ」


 軽く掃除を終えた防音室に、俺達の声が響く。

 俺は夏音に歌わせるため、歌う上での基礎の基礎、発声練習から始めていた。


「いいか、夏音! 歌は簡単に思われがちだけど、きちんと歌うためにはちゃんとした発声が必要なんだ。だからまず、発声練習を繰り返して声の出し方自体を変える事を覚えろ」


「ひぐっ、えぐっ。む、無理ですよぉ……。専門的すぎて、ちんぷんかんぷんですよぉ」


「無理って言うな! えーと、が、がんばれ!」


「励まし下手ですよぉ……」


 歌は一朝一夕で身に付くものではない。

 その理由を挙げればキリがないが、要因の一つに人の身体が歌に向いていない事がある。

 そもそも歌は人の歴史的にまだ浅い文化で、人体は歌に適した作りに進化していないのだ。


「いいか。よく勘違されるけど、声は喉だけで作っているんじゃない。声の大部分は、喉から発した小さな音が体内で増幅する事で出来てるんだ。だからプロなんかは筋肉を使って、体内を声が増幅しやすい形に変えて良い歌声を出してる」


「……ま、まっちょ」


 実際、歌は体力勝負。一曲歌う際のカロリー消費量は相当なものだ。


「とはいえ、今日明日でそこまで出来るわけないから、今回は発声練習と基礎的な呼吸法を学んだらさっさと録音にいくぞ」


「ふええええん!」


 人の身体は楽器ではない。

 だから歌う度に、人は自分の身体を楽器に作り替えなければならない。

 それが発声という技術であり、そのために行うのが、発声練習だ。


「いいぞ、よくなってきたぞ夏音」


 何度も発声練習を繰り返し、少しずつではあるが夏音の声も変わってきた。

 さすがに日常的に歌ってる人達とは比べられないが、それでも声を出す事には大分慣れてきたように思える。


「うぅ……。夏音は頑張りました。こ、これ以上はもう無理です」


「よし。じゃあ、この調子でもう三回ほどやろう」


「……ふ、ふにゃぁ」


 やがて数時間を費やし、発声練習を終えた頃に、部屋の扉が音を立てて開いた。


「ただいまー。うわ、何事……?」


 小春子が部屋に入るなり、ボロ雑巾のように部屋の隅で横たわる夏音を見て顔をしかめた。


「おう、おかえり。ていうかまだ昼じゃんか。どうした?」


「お腹痛いって早退してきた。何コレ、夏音はどうしたの?」


「散々発声させた上に筋トレもしたから、今は休憩中だ。過剰な練習は喉に悪いしな」


「へー……」


 どことなく同情した顔で夏音を見た後、小春子は俺を見る。


「そうそう、亜衣から伝言があるよ。生徒達の噂の払拭はちゃんと任せろ。でも昨日のアレは当分許さん。だってさ」


「おお、亜衣ちゃん……」


 俺のせいでかなりやり辛くなった中、どうやら亜衣ちゃんはしっかり噂の解決を担当してくれるようだ。

 まあ割と怒ってるらしく、今日も俺のスマホに「悪い子みっけ!」というなまはげのスタンプが送られてきた。こわい。


「で、上手くいきそうなの?」


「まあ、何とか形にはなるかな。かなり手を入れる事になると思うけど」


 さすがに今日から歌い始めて、いきなりプロ並みとはいかない。

 多少のテンポや音のズレなどを含めて、後で修正する必要はある。

 ただ、それでも大部分が夏音の努力によるのは間違いないが。


「ふーん。で、今日は何時までやる気なの?」


「んー。歌詞やメロディを覚えるのも今日中にやりたいし、眠くなるまで?」


「え、まさか夜までやるの?」


「というか深夜まで? しばらくこいつ泊めて良いか? 飯は俺が作るから」


 俺の言葉を聞いた小春子は、一度大きな溜息をついた後、渋々といった様子で頷いた。


「まあ、にーちゃが音楽やるためなら、いいよ」


 さすが俺の妹、話が分かるぅ!

 ていうか音楽やるためって言えば、何でも許してくれんじゃね、こいつ。


「……ぐふっ、な、夏音の予定が勝手に決められていってます」


 そして死んだように部屋の隅で言う夏音は、ひとまず無視しておいた。

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