006
嬉しいのか気まずいのかよくわからない時間はやがて過ぎ、俺が二台のパソコンを選び終えた頃には昼時になっていた。
どこからか美味しそうな匂いが漂い、食欲を喚起された人々が足早に店へと消えていく。
「んで、これからどうすんだ? そろそろ昼だけど、何か食うか?」
店を出ても未だ腕に引っかかったままの二人を引き連れながら、俺達は顔を見合わせた。
「んー、夏音ちゃんはお腹空いてる?」
「正直、全然です。朝ご飯を食べ過ぎました」
「実は私も。悠一君は?」
「軽いものならって感じ」
腹は減ってないけど、多分カレー程度ならいける。カレーは飲み物だしな。
「あ、それならメイド喫茶にでも行ってみますか? せっかく秋葉原に来たのですし、部活と言ってもその程度は許されるでしょう」
「本当っ!? そ、それなら私、行ってみたいメイド喫茶があるんだけど!」
と喜色の声をあげたのは、メイドフリークの冬雪さん。
冬雪は駅で配られていたガイドマップを取り出して、メイド喫茶のページを探す。
「あった! ここなんだけど、どうかな?」
「ふぅむ、確かに良さそうなとこですね」
「でしょ!? 店内の雰囲気も良さそうだし、アニメの聖地にもなった場所だからずっと気になってたの! 料金もお手頃だし、メイド服もとっても可愛いよね! 私、やっぱりメイド服は丈の長いロングスカートバージョンが良いと思うの。ここはまさに――」
一呼吸でどこまで喋るのこの子。オタクにかけられた、自分が好きなものの話は早口になってしまう呪いは、冬雪でも抗えなかった様子。
そんな冬雪に動じる事なく、ガイドマップを覗き込んでいた夏音が頷いた。
「じゃあ、ここでお茶にしましょうか。綾瀬さんもそれでいいですね?」
当然俺も異論はなく、俺は二人に挟まれたままメイド喫茶への道のりを辿っていった。
道中にある看板はオタク色たっぷりで、少しだけ違和感がつきまとう。
何とも不思議な街だなというのが正直な感想。
あちこちに普通のビルがある中で、ふとした瞬間オタクが溢れる店やビルが現れる。
かと思えば少し道を外れるだけで全く普通の風景になり、慣れていない俺はそのギャップについ戸惑ってしまっていた。
やがて俺達が辿り着いたのも、ビル自体は普通、けれどデカデカと萌えイラストが描かれた看板を掲げるビルだった。
「ここに本当に喫茶店があるのか?」
「そうみたい。何か思ってたのと違うね」
一般に想像する喫茶店の外見とは全く違い、見た目は本当に普通のビルだ。多分看板がなければそこにそういう店があるとは気付かないレベル。
ひとまずビルに入り、エレベーターで上へ登っていく。
やがて店がある階に辿り着くと、コーヒーの香りと共にお決まりの「お帰りなさいませ、ご主人様」の台詞が聞こえてきた。
出迎えてくれたのは俺達と同い年くらいの若いメイドさん。丈の長いスカートを履くメイドさんは、柔らかな笑みと共に優雅に一礼をして――。
「っ!?」
俺を見た途端、突然身体を強ばらせた。
「…………」
メイドさんは、目にしているものが信じられない、というように目を見開く。
その唇は震え、やがて何かを言おうと開き。
「あや……」
「あ、あの、メイドさん?」
「……っ!?」
そんな硬直するメイドさんに思わず話しかけると、メイドさんはビクリと肩を震わせた。
それから一度自分の姿を見下ろし、その後慌てた様子で素早く頭を下げる。
「し、失礼しました! お席へご案内致します!」
そう言って踵を返し、店内へと歩いていく。
わけもわからず、顔を見合わせる俺達。
けれど結局それ以上何を言うわけでもなく、後に続いて店内へと進んでいく。
店内を見渡してみれば、アンティーク調でまとめられた調度品と淡い色の壁紙の、案外普通の喫茶店があった。
忙しなく動く店員はメイド服を着ているが、決して過剰な接触などもなく、必要な時に必要なサービスだけを行っている。
正直、俺が想像していたメイド喫茶より、随分と落ち着いた雰囲気の店だ。
「うーん、意外と言っては何だが」
「はい、結構普通なんですね」
夏音も一緒に首を傾げる。もっとこう、一緒にチェキろうぜ! 千五百円になります! みたいな感じでグイグイくるかと思っていたのだが。
「このお店ね、アイドル性とかよりも正当なメイドとしての振るまいを追求してるんだって」
「ほー」
俺が案内された席に着くと、その対面に夏音と冬雪が座った。
それから冬雪は、目を爛々とさせながら説明してくれる。
「メイドさんはちゃんと訓練を受けてて、所作とかも叩き込まれてるんだよ。それにお料理もコックさんが作ってくれてるから、味にも自信があるんだって!」
「へぇ、他の店とは違うのか?」
「全っ然違うよ! 他のお店ではもっと萌えを推してるけど、このお店はそういうサービスを一切やってないの!」
プリプリと怒る冬雪さん。人のこだわりってよくわかんねぇな。
「だから、ほら。お客さんも結構女の人が多いでしょ? 普通にランチを食べに来る人もいるみたいだよ」
言われて見た先では、帽子を目深に被った少女が店に入って来て「お帰りなさいませ、お嬢様」と言われていた。
「メイドさん達も、うちにいるメイドさんみたい。本当にちゃんとメイドをしたい人が集まってるんだね」
「発言がブルジョワすぎる」
「高一で庭付き一戸建てを買った人が何を言ってるんですか」
呆れるように言う夏音はスルー。テーブル越しにムッとされたけどやっぱりスルー。
「冬雪もいつかはこういう店で働きたいって思ってるのか?」
「え? ううん、私は別にいいかな」
「あれ、そうなのか」
意外と言っては何だが、あれだけメイドが好きな冬雪の事だから、いずれこの手の店で働くのかと思ってた。
「うちはアルバイト禁止だしね」
「ああ、そうか家の都合とかもあるのか」
「うん。それに私はご主人様は一人でいいし、ね?」
「へー? でもそれって、ぬっひょおおおおおお!?」
微笑みかけてくる冬雪に返事をしようとしたが、唐突に腹にゾワリと違和感が走り、変な悲鳴をあげてしまった。
「な、何だ!? お、おい夏音、お前何してんだよ!」
「べっつにぃ。何でもありませんよ」
慌てて見れば、対面にいたはずの夏音がいつの間にかテーブルの下におり、俺のシャツをめくり上げていた。
「さっきのはお前が腹に息を吹きかけたからか! 何のつもりだ!」
「だから何でもありませんってば。それより冬雪さんとイチャついてないで早く注文を選んで下さい。夏音はもう決まりましたよ」
「イチャついてねーよ! お前たまにとんでもない事するな!」
「ふーんだ」
慌ててシャツの乱れを直していると、夏音はテーブルの下から這い出て俺の隣に座った。
それから後ろをチラリと見て、ニヤリと悪そうな笑みを浮かべてから俺に視線を戻し。
「綾瀬さん綾瀬さん、このトロピカルカップルジュース注文しましょう。二人で吸わないと飲めないハートのストロー付きですよ?」
ドン! ガシャン!
後ろから何かがぶつかった音と、グラスが倒れるような音が聞こえた。
『お、お嬢様! 大丈夫ですか!?』
『……だ、だいじょうぶ』
「何か後ろが騒がしいな」
「気にしなくて大丈夫ですよ。それより何事も経験です。綾瀬さんの唾液が混じっても夏音は眉間に皺を寄せるだけですし、どうですか?」
「嫌なんじゃねーか! 要らんってひゃっはああああああああ!?」
再び腹にゾワリとした感触があり、先程よりも大きな悲鳴が出た。
「な、何事!? ふ、冬雪まで何してんだよ!」
「……ふ」
「ふ?」
「腹筋、思ったよりあるんだね……」
「何言ってるの!?」
冬雪は顔を真っ赤にして、夏音と同じように俺のシャツをめくり上げていた。というか恥ずかしいなら止めときなさいよ!
ドン! ドン! ドン!
『お嬢様! お嬢様!?』
後ろは相変わらずうるせーし。何なの。
「ふぅむ、意外とねばりますね。ちょっと手法を変えてみますか」
「なあ、お前らさっきから何をやってんの?」
「いえ、あちらが我慢出来なくなるのを待っていたのですが、思いの外我慢強くて。というか綾瀬さん」
「何だよ」
「早く注文を選んで下さい」
「あんたらが邪魔したんでしょうが!」
俺は悪態をつきながらメニューを見直し、結局抹茶アイスとケーキのセットを選んだ。
やがてメイドさんがテーブルに品を置き、居なくなった頃に。
「ところで綾瀬さんは、小春子さんの事をどう思ってるんですか?」
ガン! ガシャッ! と、相変わらず後ろが騒がしい中、夏音を見る。
「何だよ急に」
「いえ、二年前まで幼馴染みだった子と一つ屋根の下で暮らしてるって、何だか漫画っぽいじゃないですか。実際その辺り、どうなのかなぁと思いまして」
「何言ってんだ。俺達はそういうんじゃないよ。そりゃあ小春子は超絶可愛いし、家事も出来るし可愛いし、めっちゃ頑張り屋で頭もいいし可愛いけどさ」
「ベタ惚れじゃないですか。ちょっとイラっとしました」
「でもあいつ、妹だし」
それが全てだ。
「よく分かりませんが、恋愛感情的なものはないと?」
「そりゃあそうだろ、妹だし」
俺の答えを聞いた夏音は不意に後ろを振り返り、それから恐ろしいものを見たような顔で慌てて前を向いた。
「う、うわぁ。今のは結構なダメージっぽかったですよ? 綾瀬さんはちょいちょいえげつないですね」
「さっきから何言ってるんだ、お前?」
「本題の前に現状の確認をしたかっただけです。ちなみに小春子さんに彼氏的な相手が出来ても気にならないんですか?」
「おう、妹だしな」
「小春子さんはかなり男子にモテますよ? この前も告白されてましたし」
「は? なにソレどこのどいつ? 俺より稼いでる? 家柄は? 成績は? 将来の展望はちゃんとしてる?」
「めちゃめちゃ気にしてるじゃないですか。シスのコーンです。完全に妹面に堕ちてます」
「違いますぅ。妹想いなだけですぅ」
「本気で怒らせたくせにぃ?」
「うっ、うるさいな!」
痛い所を突いてきやがる。ほんと、何で怒ったんだろうなー。やっぱチキンカレーかな?
俺が夏音を睨んでいると、いつの間にか隣に座っていた冬雪が頬に指を当てて首を傾げた。
「でも、あんなに分かりやすいのに、何で悠一君には分からないんだろうね」
「分かりやすいって、何がだよ」
「小春子さんが怒った理由がですよ」
「そりゃあ、俺は小春子に恨まれてるからだろ。最近だって顔を合わせる度に悪態をつかれるしな。結構傷付くんだよ、あれ」
「それは綾瀬さんが鈍感なせいでしょう?」
「そんな事ないですぅ」
俺ほど敏感な奴はそうそういないですし。
何なら誰かを遊びに誘って断られると「あれ、俺もしかして嫌われてる?」とか思ったりするし。敏感すぎて自分でも困るわ。
「というか恨まれる覚えがあるって、小春子さんに何したんですか」
「別にいいだろ、そんな事」
「二年前にYUIさんが曲を作らなくなった事と何か関係が?」
唐突な言葉。あまりに不意打ちすぎて、心臓がみっともなく跳ねるのを感じた。
「な、何でいきなりそんな話が出てくるんだよ」
「昨日から、ずっと考えていたのです。YUIさんの活動が止まった時期と、綾瀬さんのご両親が再婚した時期が一致しているなーと。だから、そこに何かがあるのではと思っただけです。その様子では――」
夏音がチラリと俺を見て。
「どうやら図星だったようですね?」
昼飯時の騒がしい店内の音が、急に消えた気がした。
動揺を抑える事すら出来ていない。
ただ、夏音の質問に馬鹿正直に答える必要はないとだけ考えた。
これはあくまで個人的な事なのだから、言いたくないと言ってしまえばそれで済む。
だから、というわけではないのだろうが、夏音は。
「……昨日の話の続きをしましょう」
そう言ってから、一枚の紙を取り出した。
「昨日の話?」
「はい。アニメ作りの話です。昨日は途中で終わってしまいましたからね」
夏音が取り出したのは、昨日の打ち合わせの際に使った紙だ。
そこには、アニメを作るのに必要な工程が書かれている。
「昨日はあえてしませんでしたが、アニメには作画以外にも特に重要な項目があります」
「…………」
「そう、音楽です」
企画、シナリオ、キャラデザ、絵コンテ、3D、作画、音楽、編集。
そう書かれた紙を広げながら、夏音は毅然としながら俺を見る。
「夏音はアニメ作りの中で、音楽が作画と同じ位に重要だと考えています。悲しい時には悲しい曲、嬉しい時には嬉しい曲。見る側の心の芯を揺さぶる素晴らしい音楽があってこそ、アニメは完成するのです」
夏音は言いながら、紙に書かれた音楽という文字を指差す。
「にも関わらず昨日の打ち合わせを途中で止めたのは、この話は少しばかり慎重にすべきと思ったからです」
分かっていたはずだ。いつかはこの話が来るのだと。
「動画制作部の音楽は、綾瀬さんに担当して頂きたいと思っています。YUIさんの曲を聴いた時に感じる、あの胸が張り裂けるような強い気持ち。夏音は、あれがどうしても欲しい」
何かを言いかけ、けれどどうしても出てこず言葉を止めた。
それすらも最初から分かっていたように夏音が先んじる。
「綾瀬さん。夏音達は部活仲間ですよね?」
「え? あ、ああ」
「それなら、もし音楽の制作を断るのであれば――。同じ部活仲間である夏音達には、理由を教えてくれますよね?」
突きつけられたのは、単純な二択。
引き受けるか、断る理由を教えるか。
引き受ければそれで良いし、断られたら理由が聞ける。夏音にとっては得しかない。
けれど、こんなのは完全に詭弁でしかない。
仲間だとしても必ず腹を割る必要はないし、誤魔化そうと思えば簡単に誤魔化せるのだ。
ただ、もしここで誤魔化せば、きっと俺達の関係はここで終わるだろう。
そう確信出来る程、夏音はいつものふざけた様子と違っていた。
「…………」
夏音はただ黙って、後はお前次第だと言わんばかりに俺を待っている。
そんな中で、ふと冬雪が俺の手を握ってくるのを感じた。
何かを言うわけではないが、不安だけが伝わってくる。
俺は今、この二人の少女と自分の秘密の、どちらかを捨てなければならないのだ。
許されるなら、今すぐ走って逃げたいと思った。
出来るなら、いつもみたいにふざけて笑いたいと思った。
けれど、そんな気持ちはぐっと押し殺し、俺は少しだけぎこちなく冬雪の手を握り返した。
「……俺が音楽をやっていても、誰かを不幸にするだけだと思った。だから辞めただけだ」
やがて俺は重々しく、それでもゆっくりと口を開いた。
嘘をつこうと思えばつける。逃げようと思えば逃げられる。
けれど、それでも話し始めたら止まらなかった。
「俺がかつて音楽をやっていたのは、小春子のためだ」
そう言った瞬間、二人の肩に力が入ったのが分かった。
「俺はずっと小春子のために歌ってた。子供の頃の小春子は身体が弱くて、よく体調を崩しててさ。学校を休むのなんてしょっちゅうで、あいつ、いつも不安そうに一人で泣いてたんだ」
誰にだって打ち明けた事のない、俺と小春子だけの二人の思い出。
「それで俺は小春子を元気付けたいって思ったんだ。でも寝込んでる相手に出来る事なんてほとんどなくて、せめてもって思ってその日学校で教わった曲を歌ったら、小春子は案外喜んでくれてな。それが嬉しくてよく歌うようになって、そのうち二人で曲を作ったりもするようになった」
YUIの活動に始まりがあるとすれば、そこがそうだ。
ただ、小春子を元気付けたいだけだったんだ。
歌だって下手も良い所で、ただ二人で楽しんでいただけだ。
「でも中学になった頃に小春子が倒れて入院するようになった。気軽に会う事は出来なくなって、だからいつでも小春子が歌を聴けるように、ネットに歌を投稿するようになったんだ」
小春子が元気になるように。病気に負けないように。
真摯に、一途に、ひたむきに。いつも励ますつもりで、二人で作った曲を歌っていた。
「そのうち多くの人に応援してもらえるようになって、本格的に動画を作るようになった。そんで小春子が無事に元気になって、退院した」
「……それから?」
「それから。それから」
俺は小春子を勇気付けるために歌っていた。
けれど。
「それが金になり、かなりの額になった頃に両親に気付かれた」
ネットに投稿した動画は、知らないうちに多額の広告収入を稼いでいた。
そこから家庭が崩壊するまでは早かった。
金額を見た両親はすぐに仕事を辞め、母親は毎日外で遊び回り、父親はあちこちに女を作った上に小春子の母親とも不倫をするようになった。
結果、両親は離婚。
そして俺と小春子の親が再婚した事で俺達は義兄妹になり、やがて俺はそんな親達にぶち切れて小春子と共に家を出た。
脳裏に浮かぶのは、いつも同じ光景。
退院した小春子を訪ねて見た、荒れ果てたリビングで声を殺して泣く小春子の姿。
「全て、俺のせいだ」
心がきしむ音がした。
最初は夏音と同じだったんだ。
誰かを楽しませたい。誰かの心を動かして、一杯にしたいと思ってた。
けど俺には無理だった。
「だから俺はもう、音楽はやらないと決めたんだ」
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