003
打ち合わせは時間も遅いという事もあってひとまず引き上げとなり、俺達は一日を終える準備をしていた。
遠くから聞こえるのは、冬雪と夏音の声。
水の音に混じって楽しそうな声が響いているのは、二人が一緒に風呂に入っているからだ。
あの二人、最初は険悪だったけど、ほんのちょっとで随分仲が良くなったなぁ。
正直あの二人に組まれると確実に俺の立場が弱くなるので、程々にしてほしいんですけどね。
「3Dで作画、か……」
俺はソファに脱力しながら、先程夏音に言われた事を考えていた。
結局俺は、あの場では結論を出せず、やるかどうかは保留にしてもらっていた。
夏音が言っていた、3Dを使ってアニメを作るという手法。
可能不可能で言えば、可能かもしれない。
プロの現場でそのやり方が通用するかどうかは分からないが、少なくとも少人数の高校生が作るものとしては、及第点には達する可能性はある。
そう思いつつ気乗りしないのは、それが余りにも果てしない事が想像出来るからだろうか。
けれど何となくそれ以外にもある気がして、俺は何ともモヤモヤした気分を味わっていた。
天井を仰ぐと、蛍光灯の光が目に染みこんできた。
自分の事は自分でも分からないとはよく言うけれど、こんなにあやふやな気持ちを抱くのは初めてだ。
夏音のアニメ作りに協力したい気持ちに嘘はない。
その一方で、『以前やっていた事』をと言われた瞬間、胸の内がざわめいた。
少し時間を置いた今なら、なんとなく分かる。
それは、人が嫌悪感と呼ぶものだ。
「……YUIの動画と同じ事を、か」
ポツリと呟く。
YUIとして活動していたのは、もう随分前の事だ。
技術も知識もすっかり錆付いているのに、以前ですら出来なかった事を求められても困る。
第一、俺はもう――。
「――――っ!」
ヤバい、と思う間もなく、ゾワリと身体が震えるのを感じた。
つい、思い出してしまった。
ずっとずっと、心の奥底に仕舞って蓋をし続けてきた事。
忘れるな、と心の底から声がする。
ふと無意識に、夏音が書いた役割の紙が目に入った。
いくつもの項目の中にある、音楽という文字。
それを見た瞬間、脳裏にかつての光景が蘇った。
荒れ果てた家のリビング。
崩れて泣く一人の少女。
忘れるな、と心の底から声がした。
忘れるな、この光景こそ俺が――、YUIが作り上げたものなのだから。
『…………………………ーん。綾瀬さーん』
「――っ!? はぁっ! はぁ、はぁ……!」
見当識を失った時間がどれ程のものかは分からないが、俺は遠くからの俺を呼ぶ声に、ようやく忘れていた呼吸を再開した。
荒い呼吸を繰り返しながら辺りを見渡してみれば、そこは夏音の家のリビング。
決して先程見たあの場所などではなく、清潔感がありつつも、どこか寂し気な夏音の家だ。
『ちょ、ちょっと夏音ちゃん? 今はダメだよ!?』
『よいではないですか。綾瀬さんってばー……、聞こえてますかー?』
何となく呑気な声が響き、ついでに冬雪の焦ったような声も混じる。
そんな彼女達の声に、ようやく少しずつ心の平静が戻ってくるのを感じた。
「……何だ? あいつ今、風呂に入ってるんじゃないのか?」
『綾瀬さん綾瀬さん。ちょっとこっち来て下さーい』
引き続き聞こえる夏音の声。
首を捻りながら声の方向に行くが、そこはやはり風呂で引き戸は閉まっている。
と思いきや、その扉が突然ガラリと開いた。
「ぬっほ!?」
「ふわっ、ちょ、ちょっと夏音ちゃん!?」
「ああ、綾瀬さん。そこにいましたか」
そこには、素っ裸の夏音がいた。
「お、お前、急に開けるなよ! 何考えてんだよ!」
まだ身体も拭いていない夏音が、平坦な身体を扉で隠して立っている。
けれど、ちょっと動いたら絶対見える。
しかも、その後ろには同様に素っ裸の冬雪がおり、俺を見て慌ててしゃがみ込んでいた。
いや、マジで冬雪さんの破壊力やべぇ。
「綾瀬さん、すいませんけど……、って、顔が真っ青ですよ? 大丈夫ですか?」
「あ、ああ。いや、大丈夫。ていうか何の用だよ?」
夏音は俺を心配そうに見る。いや、青くもなるわこんなもん。事案やんけ。
「いえ、ちょっと着るものを持ってくるのを忘れてしまったので、夏音の部屋から取ってきて欲しいのです。どれでもいいので」
「……何でそんなもん忘れられるんだよ」
「うっかりいつものように自分の分だけを持ってきてしまったのですよ。このままでは冬雪さんか夏音が裸で出る事になります。夏音は別にそれでもいいのですが、綾瀬さん的には結構マズいのかなぁと思いまして」
「おま……」
「というわけで、お願いします。夏音の部屋はリビングの脇の扉ですので」
と、言いたい事だけ言って夏音は勝手に扉を閉めてしまった。
残されたのは、途方に暮れる男一人。すげぇ、さっきまでの気分とか完全にすっ飛んだわ。
いや、というかあれでも年頃の娘さんですよ? 大丈夫だよな? 部屋に入ったらいきなり高額の請求とかされない?
言われた夏音の部屋の扉の前まで行くが、本当に開けていいものか、やっぱり悩んだ。
「いや、でも本人に頼まれたしな」
もし何かあっても俺は悪くない。はず。小春子以外の女子の部屋に入るのは初めてだなぁ。ど、どうしよう、出しっぱなしの下着とか見つけちゃったら。えへへ。
とか思いつつ、やがて俺は一度大きく深呼吸してから、気軽さを装いつつ扉を開けた。
「――――っ!?」
最初に目に入ってきたのは、膨大な紙の山だった。
次に目に入ったのも、膨大な紙だった。
部屋にあるのは、底が抜けそうな程に山積した紙の束。
あちこちに塔の如くそびえ立つ紙の山は、足の踏み場もない程に部屋に積まれている。
「な、何だコレ」
壁一面は本棚で埋まっているが、その本棚すら見えなくなる程だ。
手元にある紙を見て、戦慄する。その紙の正体は、全て絵コンテとシナリオだ。
一体どれだけの枚数を描いたのか。膨大な量の夏音の努力の跡が、そこにあった。
一朝一夕では到底出来ない。これだけ描くには、どれ程の時間と熱意があれば可能なのか。
夏音の覚悟は、あの絵コンテを見た時に測ったとばかり思っていた。だからさっき3Dでアニメを作ろうと言われた時に、気軽にやりたくないと言うのだけは止めたのだ。
けど、それでもどこかで軽く見ていたのかもしれない。
きっと夏音は、最初から高校生初心者アニメ、なんてもので満足する気はなかったのだ。
「本気……なんだな」
その時初めて俺は、自分の覚悟が圧倒的に足りていなかった事を知った。
「……で、何で制服なんですか?」
夏音の部屋で見たものに動揺しながらも、やがて俺は着替えを選び任務を無事成功させた。
と思いきや、その後に待っていたのは、不満を露わにリビングで仁王立ちする夏音だった。
「やたら遅いと思えばこれですか。まさか制服フェチなんですか? 毎日欲情三昧ですか?」
「ち、ちげーよ! さすがに女子のタンスは開けられないだろ!」
夏音が着ているのは、見慣れたセーラー服だ。
結局俺はタンスを開けられず、散々悩んだ末に壁に掛けられてた制服を持ってきたのだ。
結果、夏音は大いに不満を漏らし、深々と溜息をついている。
「全くもう、綾瀬さんには本当にがっかりです。何でよりにもよって制服なんですか。大体下着も持ってきてくれなかったせいで夏音は今ノーパンですよ? どうするんですか見えたら」
「悪かったよ! さっさと履いて来いよ!」
なまじスカートが短いもんだから超危険。いやでもこれ俺は悪くないよね? むしろ年頃の男子にタンスを漁れと言うこいつの方がおかしいよね?
「大体、何で一回り大きい方の制服を持ってくるんですか。あれですか、ダブダブの制服から覗くチラリズムにどうしようもなく興奮するんですか?」
「知らねーよ! 壁にかかってるのを適当に持ってきただけだっての! つーか何でサイズが違う制服を持ってるんだよ!」
「お母さんが『もう少し大きくなってくれないかなぁ』と言いながら、買ってくれたのです」
「もうただの願望になってんじゃねぇか。親の期待を裏切った事を恥じろ」
「ま、まだ分かりませんよ!」
分かるよお前はもう無理だよ。冬雪とは雲泥の差だよ。
「ん? というか冬雪はどうしたんだ? 一緒に風呂からあがったんじゃないのか?」
「はれ? そういえば随分遅いですね」
「な、夏音ちゃーん……」
俺達が二人で首を傾げていると、風呂場から蚊の鳴くような声が聞こえてきた。
「どうしたんですか冬雪さん。そんな所で隠れるようにして」
見に行くと、脱衣所の扉で身を隠すようにしながら、冬雪が顔を赤らめていた。
「あ、あのね、貸して貰ったパジャマなんだけど、そのちょっと……」
「何ですか、開けますよ?」
「え、ちょっと待って! ふひゃっ!?」
夏音は首を傾げて、無遠慮に扉を開ける。
慌ててしゃがみこむパジャマ姿の冬雪。その胸元は、ボタンを閉めようとした形跡はあるが大きく開いており。
「そ、その、頑張って着ようとしたんだけど、どうしても閉まらなくて……、ふわ、ふわわ」
弁明する冬雪の目には涙が浮かび、気まずそうにチラチラと俺を見ていた。
「……すみません、ちっちゃくて」
「と、というかお願いだから扉閉めて! ゆ、悠一君、見ないでえええええええ!」
何というか、とにかくすげぇ。冬雪ってあれでも着痩せしてたんだな。
結局夏音の家には冬雪が着られるパジャマはなく、冬雪も制服を着たのでした。まる。
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