003

「落ち着いた?」


「う、うううぅ……」


 肩で息をする冬雪を公園のベンチに座らせ、俺達は一息ついていた。

 冬雪の顔には既にマスクやサングラスはなく、赤く染まった頬に汗を伝わせている。

 傍らには破れた紙袋とメイド本。

 冬雪を捕まえた後も受け取れ要らないの応酬を広げた末、今はベンチの上に置かれていた。

 俺は側にある自販機でジュースを買って、冬雪の脇に置くと自分も隣に座った。


「…………」


「…………」


 きまずい! 気まずいよ! 何を言えばいいんだよ!

 とりあえず自分用に買った緑茶に口をつけるが、味なんて全然分からない。

 コーヒーよりお茶派なんだよねー、とか言って場を和ませた方がいいんだろうか。こんな時どうすればいいのか分からない。笑えばいいかな?


「ははは、冬雪こやつめ、あっははは」


「ちょっと死んでくる」


「うおおおおおおおおい! 待て待て待てぇ!」


 突如立ち上がった冬雪を、必死で止めた。


「離してええええ! 死なせてえええええええ!」


「悪かった! 笑って悪かったから! ていうかこれで死んだらそっちの方が恥だぞ!」


「だって悠一君にバレたもん! 私がメイド好きでオタクで、ご主人様を作って命令されたい変態女だって全部バレたもん!」


「そこまではバレてなかった!」


「死なせてよおおおおおおおおおおお!」


 二人でしばし死ぬ死なないのやりとりをした後、冬雪は再びベンチで膝を抱えてしまった。


「……これ、お父さんのだから」


「往生際悪いな!?」


 娘にメイド本を買いに行かせる父親とかイヤ過ぎるよ!

 冬雪が買った本の大半が、メイドに関する本だ。

 メイドのなり方とか、メイドの作法に関する本が大部分をしめており、それ自体はここまで過剰反応するようなものでもないと思うんだけど。

 やがて冬雪は膝を抱えたままチラリと俺を見る。そして怯えを隠さず目を伏せた。


「……わっ、私を脅して酷い事するつもりでしょう?」


「するわけないだろ!? 頭にエロ同人でも詰まってるのかよ!」


 段々分かってきた。こいつ馬鹿だ。


「? ?????」


「おう不思議そうな顔やめろ。別にエロい事をしようと追いかけたわけじゃないっつの」


「じゃあ何するの? あ、他の人に迷惑かけるようなのは駄目だよ?」


「何で選択肢が『死ぬ』か『脅される』しかないの? 俺は、その本をお前にちゃんと返したかっただけだよ?」


 ベンチの上に置かれた限定版とメイド関連の本。

 それを買った直後の冬雪の嬉しそうな表情は、マスク越しでもハッキリと見えていた。


「冬雪にとって大事なものなんだろ? だったらあんな所に放り出さないでくれ」


「……軽蔑、してないの?」


「え?」


「その、こういう本って、普通の人は嫌がる、から」


 膝を抱えて俯く冬雪の姿が、かつての俺に重なって見えた。

 一昔前より減ったらしいが、今でもオタク的な趣味を嫌う人はいる。

 誰にも迷惑をかけてないとか、最近はこういうのを好きな人も増えてる、なんて言葉は全くの無意味なんだ。

 逆に「生理的に無理」なんて言葉で貶される事すらある。


「べっ、別に、大丈夫だよ? 気を遣ってくれなくても。その、気持ち悪いなら、そう言ってくれても、私は気にしないから……」


 冬雪の反応は、明らかにそういった扱いを受けた事がある者のそれだった。


「もしかして、誰かに何か言われた事があるのか?」


「……ちゅ、中学の、時に」


 俺の問いにそう答えてから、冬雪は再び膝に顔を埋めてしまった。

 俺は次の言葉を辛抱強く待つ。やがてポツリと、冬雪の声が聞こえた。


「私、おうちにいるメイドさん達に憧れてて、それでメイドのなり方を調べてたの。そしたら本屋さんでメイドさんが出てくる漫画を見つけて……」


 それを買って読んでから、徐々にオタク文化にハマっていったという。


「中学の時も美術部で絵を描いてたから、それからはそういうイラストも描くようになって。だけどその頃から段々とクラスメイトの子達の目が変わっていって。最初はちょっと嫌味を言われるだけだったんだけど、少しずつ直接的な言葉が増えていって、そのうちハッキリと言われるようになったの。気持ち悪いって」


 冬雪が当時通っていたのは、お嬢様ばかりが集まる私立の女子校。

 オタク文化など低俗だという意識が強かったのもあってか、徐々に白い目で見られる事が増えていったそうだ。

 多分、やっかみも多かったんだと思う。

 奇しくも中学の頃は最も成長が顕著な時期。勉強も運動も出来る冬雪が容姿すら美しくなっていくのを目の当たりにした少女達が、何とか相手の欠点を探そうとした結果なんだろう。

 結果として、教室内でイラストを描いていた冬雪を襲ったのは、純然たる悪意だった。


「普通の子がこういうのを気持ち悪がるって事は、ちゃんと分かってるんだ。だから新しい学校では趣味を隠してたんだけど。あはは、バレちゃった……」


 力なく笑い、冬雪が怖々とした目を俺に向けてきた。

 そこにいるのは、かつての俺だった。

 あの頃、クラスメイトに散々オタクメガネとからかわれて、毎日地面ばかり見て家路についていた頃の俺。

 きっと冬雪も同じように沢山笑われ、沢山傷ついてきたんだと思う。


「ね、悠一君も、私の事を気持ち悪いって思ったでしょ? 悠一君は普通の人、だもんね」


「俺、は……」


 もし隠れオタとして生きていくつもりなら、ここは適当な事を言って誤魔化すのが正解だ。

 それでつつがなく万事解決、一件落着。

 そのまま何となく昨日と同じ今日を過ごして、明日も何もなかったように振る舞うだけだ。

 それが正解。分かってる。分かってる。


「軽蔑なんて……」


 分かってるけど、もうどうしようもなかったんだ。

 目に涙を溜めた冬雪の表情を見た瞬間、気付いたら立ち上がっちまってたんだから。


「軽蔑なんて、するわけねえええええだろおおおおおおおおおおおおおおっ!」


「ゆ、悠一、くん?」


 俺は自分の手をギュッと握った。勇気を出すとか覚悟を決めるとか、そんなん考える間もなく、ただ湧き上がるものに身を委ねていた。


「冬雪! お前さっき、何で俺があそこにいるのかって聞いたな!」


「え? う、うん」


「俺は、花盛りの婚約者達の限定特装版を買いに行ったんだよ!」


「ふぇ?」


「知らないとは言わせないぞ! お前が買ったあの本だよ! オタクであれば誰だって欲しがるあの限定版だ!」


 冬雪が買った限定版はベンチの上に置かれている。


「俺は花盛りの婚約者達の大ファンだ! だからわざわざ電車で帰ったように見せかけて、トイレで時間を潰してあの店に戻った! あの店に限定版があるってさっき見てたからな!」


 溜まっていた涙すら拭かずにポカンとする冬雪。

 そんな彼女を見て気持ち悪いと言うのが普通の人なら。

 それなら俺はもう、普通じゃなくてもいい!


「誰にも知られないように限定版を買おうと思ってた。どうしても限定版が欲しかったけど、誰にも見られたくなかったから! 何故なら俺はお前と同じ、隠れオタだからだあああ!」


 冬雪の目が見開いた。こんな展開は想像もしていなかったに違いない。

 きっと、気持ち悪いと言われるか、何となく誤魔化されるかと思っていたんだろう。

 俺には分かる。

 散々気持ち悪いと罵倒されてきた俺達は、他人がこの手の趣味をどう思うか、変えようのない固定観念が出来てしまっている。

 だけど、俺だけは別だ。

 同じ痛みを分かち合える俺だけには、こいつも本当の姿を晒せるはずなんだ!


「俺はお前と同じように自分の趣味を隠して生きているんだ! そうしなきゃ生きていけなかったから! それがどれほど辛くて大変な事なのか、俺が一番よく分かってる!」


「…………」


「そんな俺が冬雪を馬鹿にするわけがない! 冬雪を気持ち悪いなんて思うわけがない! もし世界中がお前を否定したとしても、俺はお前を否定するもんか! 俺だけは絶対に――」


「…………」


「俺だけは絶対に、お前の味方でいてやるんだああああああああああ!」


「…………」


「…………」


 散々叫んだ後に、静寂が舞い降りた。

 言いたい事を言ってスッキリ、なんて全然しない。

 カミングアウトなんて一生する気はなかったんだ。

 心臓はバクバクしてるし、足は今にも崩れ落ちそう。

 勢い余ってめっちゃ痛い事を言った気がするし、きまずくて仕方ない。

 こんなん、絶対後で頭抱えて布団の中でジタバタするやつだろ。

 もし誰かに聞かれてたらマジで立ち直れなくなる。

 こんな台詞は一生で一度、一人にだけ聞かせれば十分だ。

 その相手は今も放心したまま、じっと俺を見つめているわけだけど。


「あの、聞こえてたよね? もう一度言う勇気はないんだけど」


「……あっ、うん。聞いてた」


 普通。

 何かすっげー普通なんですけど。

 こっちは今にも顔から火を噴きそうなのに、冬雪さんってばまるで明日の天気の話でもしてるかのよう。


「……あの、悠一君も昔、何かあったの?」


「ああ」


 やがておずおずと聞かれた言葉に短く頷く。多くを語る気はない。必要もないだろうし。

 冬雪もそれ以上は聞いてこなかった。ただ、グッと息を飲んで俺を見る。


「それでも、好きなの?」


「そうだ」


 好きじゃなくなろうとした事も何度もある。それでもどうしようもなく好きだったんだ。


「冬雪も、だろ?」


「……うん」


 冬雪は思い出したように、ベンチに置かれた本に触れた。


「凄く、好き」


「メイド、好きなのか?」


「うん」


「漫画は?」


「好き」


「アニメとかは?」


「毎日見てる」


「ラノベは?」


「すっごい読む」


 まあ、似たようなオタクだよな。


「そういうの気持ち悪いって言われたの」


「うん」


 人の悪意は棘のようだ。

 容易に人を傷付け、心にずっと痕を残す。


「でも、好きなの。どうしても好きなの」


「うん」


「大好きなの」


「俺もだよ」


 冬雪の瞳が揺れた。


「悠一君も、そうなんだ……」


 冬雪の身体から、力が抜けていくのが分かった。

 好きなものを好きだと言えないのは、辛い。

 誰かを騙してるとか、好きなものを自分が一番認めてないとか思ってしまう事もある。

 だけど今だけは。俺の前でだけは、好きなものを好きだと言えるようになったんだ。


「ふひゃぁー……」


 しばらく冬雪は呆けていたが、突然変な声を出したかと思うと抱えた膝に顔を埋めた。


「ど、どうした?」


「お、お団子!」


「は?」


「悠一君、お団子、好き!?」


「へ? 好きだけど」


「買ってくゆ!」


「え、おい! ちょいまちちょいまち!」


 顔を真っ赤にして立ち上がった冬雪を慌てて引き留めた。


「何でいきなり団子!?」


「一緒に食べゆの!」


「だから何で!?」


「二人で一緒に食べゆの!」


「分かった! 落ち着け! お団子はまた今度一緒に食べよう!」


 あかん。こいつが何を考えてるか全く分からん。

 冬雪は俺の言葉にようやくストンと腰を下ろすと、再び膝を抱えた。


「だ、大丈夫か?」


「……うん」


「そ、そうか」


 頷きながら足をパタパタさせる冬雪。

 ていうか冬雪さんってばスカートなもんだから丸見えなんですけど。


「……見てる?」


「ふわっ!? み、見て……、……………………………………………………見てない!」


「? そんなに動揺して、どうしたの?」


「い、いや……」


「今期のアニメ、何か見てる?」


「へ? あ、ああ、アニメの話ね」


「??」


 焦った。危うく口を滑らせる寸前だった。俺は一度深呼吸してから口を開く。


「今期は『心の境界』と、『花人』と『僕と私』だけだな」


「あ、私もその三つだよ」


 冬雪が嬉しそうに顔を上げて笑顔を見せた。

 俺が挙げた三つのアニメは、今期のアニメの中でも特に評価が高い作品だ。


「心の境界の三話のバトルシーン、凄かったよね」


「ああ、あんなにグリグリ動かしてるのに全然作画崩壊してないんだもんな」


「ね! あれ見て一気に引き込まれちゃった! それにヒロインも可愛いし、何より主人公が格好良すぎる!」


 俺はまたベンチに腰かけて冬雪と話す。

 オタクである事を隠していても、オタクな話がしたくないわけじゃなかった。

 だからたわいのない話をしながら、心が跳ねるのを感じた。


「凄いよねぇ! ああいうの見るとアニメーターさんの技術の高さを思い知るよ。本当に尊敬しちゃう!」


「あのシーン、重心の移動とかすっげー上手かったもんな! マジで重さを感じたし!」


「…………」


「ん、どうした?」


 返事がないので冬雪を見ると、冬雪は何かに驚くように目を見開いていた。


「俺、何か変な事言ったか?」


「う、ううん。重心とかって普段絵を描かない人は気にしないから、不思議に思って」


「あ、ああ。いや、絵は描かないけど、昔3Dをちょっとだけやってて」


「3D……」


「ちょ、ちょっとだけだぞ? 完全な独学だし」


 中学の頃に3Dキャラが踊っている動画を見て、簡単な所から学び始めた事があったんだ。

 今時は学生でもパソコンさえあれば無料の3Dソフトを使って3Dを作る事が出来る。

 作り方だってネットで調べれば色んな方法が出てくるし、本もあるから独学でもやれる事は多いんだ。


「ね、ねえ。アニメのキャラを作ったりも出来る? 背景を作ったりは?」


「ああ、うん。そういうのも出来るは出来るけど――」


「……そう、やっぱり悠一君が」


「ん?」


「悠一君!」


「ふはっ!?」


 急に手を掴まれて、変な声が出た。


「私と一緒にアニメを作ろう!」


「はい?」


「私と一緒にアニメを作ろう!」


 え、何事? 唐突すぎて何言われてるか全然分かんない。

 それより女の子って手も柔らかいんだなーとか考えちゃってる。

 ぐいぐいと身を乗り出してくる冬雪。その顔は喜色に満ちており。


「私と一緒にアニメを作ろう!」


 三回目で、ようやく彼女の言葉を理解した。

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