第92話 秩序

第92話 秩序


『あー! もう無理動けない....』


 エプロンを脱ぎ捨て、屋台の前に置いてある椅子に脱力しながらエナがぐったりと座り込む。普段から幽霊屋敷で家事や子供達の相手をして体力は同年代の人よりはある。しかし、いつも使っていない筋肉を使ったのか関節を曲げるたびに痛い痛いと口にする。


 辺りには夜の帳が下り出し、近くの家の中からは暖かいランプの光が溢れていた。キノ達の屋台も粗方素材が尽きたのか片付けを始め、複数の撤収用のリアカーに馬を付ける。


『屋台は骨組みを折り畳んで、明日もすぐに組み立てられるように置いといて! 馬で運んだ食材は殆ど消費して身軽だとは思うけど、追い剥ぎに配慮するように』


『『『はい! 分かりました!!』』』


 どたどたと忙しく当たりをあっという間に片付けていくと繋いでいた馬の手綱を握り多くの人が帰路に着く。 馬の扱いに慣れていない者は調理道具と共にリアカーに乗り込み、馬の扱いに慣れている者はリアカーを馬で引いて帰っていく。


 デンケンやニーナを筆頭にした子供達も小さな馬に乗ったり、回復術師の人と相乗りして幽霊屋敷へと向かう。


 あっという間にキノとエナだけになる。


『エナ、私たちも帰るよ?』


『無理動けない』


『別にここで一晩明かしてもいいけど....?』



 屋台の骨組みを解体し、道の端に寄せるキノが溜息を吐くようにエナに向かって言い放つ。


 エナが重い瞼に力を入れて目を薄く開くと、さっきまで明るかった路地がガランとしていた。直ぐそこの路地からは今にも黒い手が出てきて影の中へと引き込まれてしまいそうだった。


『やだ! お家帰る!』


 飛び起き、ガタガタと歯を打ち鳴らしながら背後からキノの首に腕をまわしてはいるものの下半身は完全に脱力しきっていた。


『まぁ、私たちの家もあんまり変わらないけど....』


『大分変わるでしょ!?』



 所々が老朽化で朽ち果て、幽霊屋敷と形容されている事を知らない筈はないが、自分の家がそう呼ばれているのが気に食わないのか頑なに否定する。



『じゃあ、どうやって帰るか....。こんなにグデンとしてたら相乗りも危ないし....』


 そんな事を考えていると、馬の足音が聞こえてくる。


『こんな時間に馬車?』


『でも、何も見えないけど?』


 耳を澄ませて辺りの音を聞くキノを不思議そうに見ると大通りまで歩いていき、馬車が来ているのかをエナも確認する。


『ほら、何もいない』


 昼間や街明かりで照らされた場所でキノの「強視」は見えすぎてピントを合わせにくい。それを補うためにキノがポケットの中から目薬をさし、目に魔力を込める。この魔法は男の体である昼間にしか使えないのだが、目薬を使うことで一瞬だけ使うことができる。


 すると、裸眼では見えなかった何かがこちらに向かってきていた。しかも、影が大きくなるにつれて馬の蹄が地面を蹴る音がどんどん大きくなっていく。それだけで、普通の人が乗るような馬車ではなくこの住宅地には似合わない大きな馬車である事が分かる。


『いや、来てる』


『え?』


 道の真ん中にいたエナの腕を思い切り掴み、自分の胸へと倒れ込むように突っ込んできた何かからエナを守る。


 尻餅を着き、粉塵が巻き上がる。目には見えないのだが確かにそこには何かがいた。


 そして、キノの上にエナが覆い被さっていたのだが、そんなことは些末な事である。


『何これ?』


『馬鹿、不用意に手なんて伸ばしたら....』


 硬いものに触れた感触。すると次の瞬間には黒一色の馬車が目に飛び込んできた。何も無かった筈の場所から真っ黒な馬車が姿を現していった。


 未知との遭遇は好奇心を掻き立てる。何故こんな時間に馬車が走っているのか?一体何頭の馬に引かせているのか?10頭はいるのではないか?


 見たことのない黒塗りの馬車は何故ここにいるのかなどさまざまな好奇心が沸々と湧いてきた。その疑問を遮るように乗っていた男が口を開く。


『いけねぇ、お二人さんお怪我はありませんか?』


 黒いコートに身を包み、黒いシルクハットを被った短い茶髪の好青年が馬を止めると二人に駆け寄る。飄々と軽めに喋るのだが、決して痩せているわけではなくガッチリとした体型だ。


『大丈夫。それよりあなたは?』


 腰が抜けてしまったエナをどかし、キノが立ち上がる。手を貸すとエナもヨタヨタと立ち上がった。


『あー、なんて名乗ろうな。じゃあ、猿で』


『本名を名乗る気はないのね』


『名前なんて記号でしかない。大事なのはそれを体現する為の中身。何が自分を自分たらしめているのかを自覚する事じゃないですか?』


『で? 御託はいいから要件は?』


『少しぐらい興味を持ってほしいなー。人生を楽しいものにするには適度な余裕が....』


『そんな御託二度と叩けないようにしてやろうか?』


 キノが持つ短剣が、軽口を叩くひょうきんな男性の喉仏に触れ、うっかり掻っ捌いてしまいそうな位置に置かれる。体温と比べるとヒヤリとしたナイフが男の肌に伝わる。



 ドクドクと刃の先を通じて男の生きている証が伝わってくる。しかし、そのペースは一切乱れていない。それどころか、眠っている時のようにゆっくりと震音が伝わってきた。


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