9 ムア神の伝説
長い長い通路をやっとの思いで抜けると、地上はもうとっぷりと日が暮れていた。さほど遠くなさそうな場所にたき火の明かりが見える。
「ここは、廃墟じゃないみたいだな」
うなずきながらルルドがリリーを振り返ると、その向こうに二人の男が立っていた。暗い中で分かりづらかったが、男たちの肌はチェンジャンと同じ色をしていた。
「お前たち、何をしている!」
男たちが声をあげる。
ルルドはどう答えればいいのか分からずに黙っていると、リリーが強い調子で言った。
「あんたたち、森のチェンジャンか? 集落に連れて行ってもらいたい。いろいろ聞きたいことがあるんだ。話はそこでしようぜ」
度肝を抜かれたのか、男たちはぽかん、と口を開けて、でもなお不審そうにルルドたちをにらみつけた。リリーもにらみ返す。
やがて根負けした男たちは、ルルドたちを連れてたき火の明かりの方へ歩き出した。
集落にはラウラのホロゥとも、町や廃墟の石造りの家とも違う、木を組んで作った住居が点在していた。
集落の入り口のあたりでたき火は燃え、それを囲むように川魚を刺した串が並べられている。それを、見て、ルルドはここが川からさほど遠い場所じゃないことを知った。きっと今のノダーリからずっと西の森の中にある川の近くだろう。
「この者たちは何者だ!」
たき火を囲んでいた見張りらしいチェンジャンの老人が立ちあがった。チェンジャンの男たちは申し訳なさそうにうつむく。
ここでもリリーは強気の態度で老人の前に立った。
「おれはヴェルナールから来たリリー。こっちはラウラのルルドだ。ムーア火山の噴火を鎮めるナルーを探す旅をしてる間に、あんたたちに聞きたいことができてね。
あんた、この集落のお偉いさんかい?」
老人はたじたじとなって、首を横に振った。
「じゃあ、一番偉い人に合わせてくれないか」
「それは私のことじゃ、お若い客人たち」
しわがれた声がして、ルルドとリリーはハッ、とそちらの方を見た。集落の奥からゆっくりとした足取りの老人が歩いてくる。
(ラウラの長老みたいだ……)
たき火の明かりに照らされた老人はしわだらけの顔に柔和な笑顔を浮かべ、つるりとしたはげ頭をしている。
「じじ様……」
チェンジャンの男が呟いた。
「あんたが、シンツァオの言っていた『じじ様』かい……?」
リリーが言うと、じじ様と呼ばれた老人はぴくり、と片眉をあげた。
「驚いた。お客人たちはあの娘に会ったのか」
ルルドがうなずく。リリーが少しつらそうな表情を浮かべて言った。
「なんでシンツァオはあんなところに一人でいるんだ」
じじ様は穏やかな目でルルドとリリーを見つめた。その視線があまりにもやさしさに満ちていて、ルルドはドキリ、とした。
「お客人たち、私はあんたたちを待っておったよ。たき火を囲もう。魚ももう焼けた頃じゃろう」
たしかに魚は香ばしいにおいを漂わせていた。ルルドは自分がずいぶん長く食事をしていないことに気がついて、急に腹が減ってきた。さっき声を荒げてきた老人がルルドたちに魚の串を渡してくれる。
魚にかぶりつくと、口の中に魚のあぶらがじゅわっ、と広がり、ヤケドしそうになった。はふはふと熱さを逃がしながら噛むと、まぶされた塩の味と赤くて辛い味噌が魚のうまみが絡まってとても美味しい。少し苦味のある腸の部分は香草が詰め込まれていて、さわやかな味になっていた。
二人の腹がくちくなった頃、じじ様は目を細めてぽつりぽつりと語り始めた。
「あんたたちが会ったあの娘は、ムア神に預けられた我ら……大陸人にチェンジャンと呼ばれる我らの娘じゃよ」
「ムア神?」
「そうじゃ。ムア神は我ら一族、海の向こうの祖国の母神じゃ。そもそも我らがなぜ海を越えてムーア火山のあるこの大陸に来たのかという伝説がある」
じじ様は歌うように言葉を紡いだ。
「遠き母神、ムア神は子を見守り育てる神。やむをえぬ事情で子を手放さなければならぬ親がムア神の社に子を預けると、ムア神が育ててくれるのじゃ。
ある時、ひとりの母親がムア神に子を預けたが、彼女はどうしても子を取り戻したくなった。しかしいくら探しても社には子の姿はなく、母親は絶望した。しかし彼女の夢に不思議な声が聞こえ、その声に導かれて海を渡ると、そこに子の姿があったという。
それ以来、ムア神に子を預けた者は迎えの声に導かれ、海を渡ってこの大陸に子を迎えに行くようになる。彼らが我らチェンジャン《海向こうの民》の祖先となった」
ぱちん、と薪がはぜる音がした。老人が太い木の枝で炭をかき回し、そのままその枝をたき火に放り込んだ。
「でもカリョウの……町に住むチェンジャンの歌によると、チェンジャンは栄華が滅び、祖国を離れてこの大陸に来たと歌われていたよ」
「さよう」
じじ様は目に優しい光を宿したまま話を続けた。
「さっきのは伝説にすぎん。史実はあんたの言った通りじゃ。我らの祖先は祖国を追われ、この大陸に移り住んだ。じゃが、ムア神が我らの母神であり、子を預ける社があったのは真実じゃ。あの娘もその一人じゃからの」
「えっ」
そういえばシンツァオは言っていた。『ここから遠い国で生まれて、母様に預けられてここへ来た』と。
「もう海の向こうに我らの一族の者はおらんと思っていたが、あの娘は突然火山の地下に現れた。遠い昔、まだウェイニン村に一族が住んでいた頃には度々あったそうじゃ。おそらく海の向こうで一族の生き残りがムア神に預けた娘じゃろうと思い、我らはこの集落から地下への道をこさえ、あの娘の世話をしているのよ。我らの掟通り、一族の最年長の者が、生活に必要な物だけを与える世話じゃがな」
ルルドはぼんやりと納得した。廃墟から続いていた道は昔使われていた通路なのだろう。そしてじじ様の使う通路はシンツァオのために作られた新しい通路だったのだ。
「正直わしは、あの娘の両親はもう生きておらんと思っておる。捨てた祖国に残った者の末裔が、まともな暮らしをしているとは思えん。迎えがいない時は近くの者に迎えの声が聞こえるはずじゃ。我らはそれを待っている」
「つまり、あんたたちは迎えの声ってのを待って、シンツァオをずっとあそこで世話してたってことか?」
じじ様がうなずくと、リリーは眉間にしわを寄せて立ちあがった。
「かわいそうじゃないか! あんなところに一人ぼっちで! 無理やりにでもあの子を引き取ればよかったんじゃないか!」
「……あんたはあの娘に同情しとるのか」
じじ様の低く響く声にリリーはひるんだ。慈しみをたたえた声でじじ様は続けた。
「お若い客人よ。あんたにはあの娘はかわいそうに見えるかもしれん。じゃが、人には、ひとりでいるべき時間があるのじゃ」
リリーの目もとが光った。リリーはそれを乱暴に拭うと、もう一度座って、尋ねた。
「だけど、そんなことありえるのか? 海の向こうで社に預けた子どもが、ムーア火山の下で育つなんて……」
リリーの意見に、ルルドもうなずいた。おいそれとは信じられない話だ。じじ様はやんわりと首を振った。
「あんたたちには信じられないかもしれんが、我らは神の奇跡じゃと思っておるよ。昔から幾人もの子がムア神に育てられてきた。それに、ムア神は我らだけのものではない。母神は、名を変え、姿を変え、世界中で、我ら人の子を見守っていらっしゃるのじゃ。子を守り、慈しんで育まれておるのじゃ。あのようにな」
じじ様が空を指差す。満月が近い月はしっかりとムーア火山を照らしていた。
「あなたたちは、ムア神はムーア火山の事だと?」
「そう思っておるよ」
ルルドはカリョウの言葉を思い出した。ムア神は、きっとムーア火山の事だろう。だからチェンジャンにもムーア火山信仰があるのだ。
じじ様にラウラの言い伝えの話をしようと思ったルルドは口の中がからからに乾いている事に気付いた。舌がうまく動かない。ずっとラウラにだけ伝えられてきた話をしていいのだろうか……。
ルルドはひざの上でぐっ、と拳を握り、心を決めて口を開いた。
「実は、ラウラの言い伝えに、人の世に憧れたムーアの娘がムーアから離れたため、怒ったムーア火山が災いの噴火を起こそうとした、という話があります。その災いの噴火が今また起ころうとしている、とぼくらラウラは、考えています。その……ムーアの娘が、シンツァオだとしたら、シンツァオを連れ出すと、噴火が起こってしまうのでしょうか……」
言い終えて、ルルドは胸の中で何かが違う、と感じていた。ラウラの言い伝えは何かが間違っている。じじ様も真剣な顔つきで言った。
「我らの伝えてきたムア神の伝説には続きがあっての。ムア神が子の迎えを呼んでも誰も来ないとき、ムア神は涙を流すのだそうだ。迎えられぬ子を思って泣き、迎えに来ぬ人を呪って泣き、迎えのない子は死ぬまでムア神のもとで暮らすのだと」
ルルドは鳥肌が止まらなかった。長老が教えてくれた歌を思い出す。
母なるムーアに抱かれし子よ
ムーアの涙はもう満ちた
空も 大地も 海も
人の子の行く末を祝福しよう
聞けよ はじまりの呼び声を
踊れよ 迎え火の舞を
この世のすべてはムーアの中に
この世のすべてはムーアの外に……。
(ムーアの涙は、……噴火?)
また、薪がぱちん、と爆ぜた。ルルドはびくり、と肩を震わせる。
シンツァオは『母様が迎えを呼んだ』と言っていた。その迎えは、ルルドに聞こえた『呼び声』……。
「涙ってので思いだしたんだけど、」
リリーが遠くを見つめるような目をして言った。
「昔、本で読んだんだ。ムーアって、今じゃ『水のある土地』って意味だけど、古くは『涙を流す者』って意味だったんだって。それが転じて、『母』をあらわす言葉だったそうだ」
ルルドは、もう一度自分の全身に鳥肌が立ったのが分かった。
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