8 シンツァオとの出会い

 ルルドもリリーも驚きのあまり言葉が出なかった。朽ち果てた廃墟の地下、長い長い下り道の先に少女がいるなんて、想像もしていなかった。

 だが、ルルドの胸の中には息が止まりそうなほどの喜びがあふれていた。

(この人が、待ってた人だ)

 ルルドと同じ年くらいの少女は茶色い瞳をきらきらさせて微笑んでいた。肌の色からしてチェンジャンなのだろう。

 ここが、大陸人と触れ合わないチェンジャンの集落だろうかとルルドは思ってあたりを見回した。

 ケヤキの広場ほどの広さの空間だ。干し草が地面を覆っているせいか、湿気はなく、ほどよく乾いた空気をしている。天井は見上げてもなお高く、筒のようなもので地上とつながっている明かり取りの窓があるおかげでそこまで暗くない。

 少女が座る、布を敷いた寝場所には、何冊もの本が積み上げられていた。少女以外の人の気配はない。

 あまり物がない空間の中で、ひときわ目を引いたのは広い壁一面に貼られた巨大な織物と、その前にちんまりと置かれているほこらだった。織物は青と緑と黒が多く使われているが、色とりどりの糸で細かく織られている。黒い石で組まれたほこらはルルドにも抱えられそうなほど小さく、屋根は赤く塗られていた。

「あなたたち、泥だらけね」

 少女に言われて、ルルドたちは初めて自分たちが泥にまみれていることに気付いた。リリーは顔を真っ赤にして服をはたく。泥は灰色の上着にべっとりとついている。

「ふふ、そんなことしてもだめよ。こっちに来て」

 少女の案内にルルドとリリーは黙ってついて行った。

 空間の先にも道が続いており、そこには地下にあるとは思えないほど広くて浅い湖があった。湖面からは白い湯気がもうもうと立ち込め、硫黄のにおいが鼻をくすぐる。

「温泉……?」

 ルルドのつぶやきに、リリーが水に手を伸ばした。そして、「本当だ!」と声をあげると、目を見開いてルルドを見た。少女は控えめに、でもうれしそうに笑う。

「よかった、あなたたちしゃべれないんじゃないかと思った。すごいでしょう、この温泉。母様が作ってくださったのよ」

「君の母様って……?」

「話はあとにしましょう。とにかくこの温泉で体を洗って。この岩の上に布と服を置いておくわ。あなたたちの服はこっちに置いておいて。後で取りに来るから」

 少女は湖のすぐそばの岩の上に白い服を置いて去って行った。

 取り残された二人はしばらく呆然としていたが、そのうちリリーがうーん、と背伸びをして、言った。

「とにかく、入るか」


「あの子、何者なんだろうな」

 リリーのふわふわで長い金髪がお湯にたゆたっている。

 熱すぎず、でもじんわりと体の芯をぬくめるお湯は、歩き通しだった足に心地いい。ルルドは肩までお湯に浸かり、ほう、と息をついた。

「わからない。けど……」

「けど?」

 どう言えばいいのかわからずルルドは口ごもった。胸の中には呼び声が響いている感覚がある。

 だが、リリーの踊りを見たときや、地下への扉を見つけた時とはどこか違う。まるであの少女のために呼び声が、そしてルルドの旅があるのだというような、今までで一番重い響きだった。

「あの子は……呼び声の主なのかもしれない」

 そう言ってルルドは頭までお湯に入った。お湯の中で空気がはじける音と、自分の血が体中をめぐるごうごうとした音が聞こえる。そしてルルドの心臓に合わせて、大きな鼓動が聞こえた気がした。


 温泉から上がったルルドたちを見て、少女はほっ、と笑顔を浮かべた。リリーの顔が赤い。温泉でのぼせてしまったのだろうか、とルルドは思った。

「よかった。服、着られたのね」

 ルルドとリリーは顔を見合わせて苦笑いした。

 少女が用意した服はチェンジャン独特の衣装で、リリーが前にカリョウに教えてもらった着方を一生懸命に思い出してなんとか着られたのだ。

「いろいろありがとう。おれはリリー。こっちはルルド。君は……?」

 リリーが尋ねると、少女は小鳥のさえずりのような声で答えた。

「私は、シンツァオ。ねえ、リリーとルルド、こっちに来てお話しましょうよ。じじ様以外のお客様なんて初めてなの!」

 シンツァオに招かれて、寝場所の敷物の上に腰を下ろす。温泉でほぐれた体に干し草の柔らかさはぴったりだった。

「二人は外から来たんでしょう。どこから来たの?」

「ぼくはラウラのノダーリから……」

「おれは、元はフルーエットの村、今はヴェルナールの町からだ」

「それってあの地図でどのあたりかしら」

 そう言ってシンツァオが指差したのは巨大な織物だった。それは大きすぎて分からなかったが、シンツァオの言うとおり地図だった。しかし、ルルドやリリーが見慣れている地図とは違った。

 ルルドたちがよく見る地図はムーア火山が真ん中に描かれているのだが、この地図ではムーア火山は左に寄って描かれていて、真ん中は青で埋められ、右端に緑と茶色の模様がある。シンツァオはその模様を指差して言った。

「あそこが、私の生まれた場所よ」

「あれって……」

 リリーはそのまま口ごもったが、ルルドにはリリーが何を言おうとしたのか分かった。

(あれは、カリョウが言ってた、チェンジャンの祖先が住んでいた、『海の彼方』……それじゃあ、この青は『海』……)

 ルルドはぶるり、と身震いした。ムーア火山を取り囲むラウラが生きる草原はこの巨大な地図の上であっても狭いものだった。世界はこんなに広く、果てしない。

「そして、今いるのはここ」

 そう言ってシンツァオが指差したのはムーア火山だった。

「えっ!」

 ルルドもリリーも声をあげる。ここがムーア火山のはずがない。だってここはウェイニン廃墟から地下へ降りて歩き進んできた先のはずだ……。

「まさか、ムーア火山の地下……?」

 リリーの呟きにルルドはそんなはずはない、と頭を振った。火山の地下は熱の塊のはずである。こんな空間があるわけがない。

「シンツァオ、君は一人でここに住んでるの?」

 ルルドが尋ねると、シンツァオは夢を見るような瞳で話し始めた。

「私はここから遠い、地図の右端の国で生まれて、母様に預けられてここへ来たの。それからずっとここで暮らしてきたわ。昔はもっとたくさん子どもがいたみたいだけど……今は私ひとり。でも必要なものはじじ様が届けに来てくれるし、母様は色んなことを教えてくれるから困らないわ」

「母様?」

「そう。母様はあのほこらの中にいらっしゃるのよ。優しい声をしていて……母様の声を聞いていると、私、気持ちよく眠れるの。でも母様は最近変なことを言うのよ。『お迎えを呼んだからね』って」

 ルルドは背筋がゾッ、とした。誰かはわからないシンツァオの母様がお迎えを『呼んだ』……それは、ルルドが聞いた『呼び声』のことではないだろうか。ということは呼び声の主はシンツァオではなく、シンツァオを迎えに来てほしい誰か……?

 リリーも真っ青な顔で立ちつくしている。二人の様子がおかしいことに気付いたシンツァオが心配そうに言った。

「二人とも顔色が悪いわ。肌が白いせいかしら。この布をかぶるともっとあたたかくなるわよ。それで……二人の話を聞かせてくれない?」


 外の話をしてみると、ここから出たことがないというシンツァオは、驚くほど聡明で物知りだということが分かった。ナルー・デ・サフゾールの祭りも、旅に出る前のルルドより詳しく知っていた。

「年一番の踊り子を決めるお祭りでしょう。たくさんの屋台が並んで、おいしいものもいっぱいで。じじ様がくれた本に写真が載っているわ。でも私、踊りっていうものを見たことがないの。美しい動きの連続っていうけど、どんなものかしら……」

「踊ってみようか?」

 リリーが言うと、シンツァオは目を丸くした。

「踊れるの?」

「リリーは、とびきりのナルーだよ」

 ルルドはそう言ってうなずき、荷袋の中からチャンを取り出した。リリーが立ち上がってポーズを取る。


――――シャランッ。


 広い空間にチャンの音が反響した。着なれないチェンジャンの服だというのにリリーの動きは滑らかだった。長い裾をひるがえし、ルルドのチャンに合わせて腕を広げたり、くるくる回ったり……。

 最初はぼうっ、と見ていたシンツァオの頬が興奮で赤くなったころに踊りは終わった。

「すごいわ! こんなにきれいなもの、初めて見た!」

 リリーは照れ臭そうに髪をかきあげた。細い金色がきらきらと光る。ちらりと見えた耳の赤さに、ルルドはハッ、とした。

「外にはもっとすごいナルーがたくさんいるさ。

 なあ、シンツァオ。シンツァオは、外に行きたいとは思わないのか? こんなところにひとりぼっちで、さみしくない?」

 耳の赤さを隠すように、リリーが矢継ぎ早に尋ねた。シンツァオは少し黙りこみ、ゆっくり、丁寧に、言った。

「外の世界を見たいとは思う。でも、さみしいと思ったことはないわ。私には母様がいて、広い世界を想像できて、おしゃべりする時間もたくさんあるもの」

「おしゃべり? 母様と?」

「いいえ、自分と。楽しいことを自分と分かち合ったり、悲しさを悩み合ったり……本を読んだり、母様から教えてもらったりしたことを自分としゃべるの」

 シンツァオはルルドたちに微笑んで、地図を見た。何度見ても、広い地図だ。

「それに、私はまだこの世にまだ出会っていないものの方が多いのよ。これから出会う機会があるかも、と思うと、嬉しくて、楽しみで、さみしさよりもそっちのほうがずっと大きいの!」

 その言葉はルルドの胸にすとん、と落ちてきた。

 自分もそうだ。旅に出るのは怖かったけれど、良いものも悪いものも、出会うことができた。まだまだ自分が知らないものがたくさんある、と思うと、世界はなんて豊かなのだろうか。

「……シンツァオ、ぼくらがここに来たのは……」

 ルルドが口を開いた瞬間、天井よりもずっと高いところから、部屋全体を揺らすような轟音が響いた。

(噴火だ……!)

 災いの噴火か、とルルドは腹の底が冷えた。しかし揺れと音はすぐにおさまったので、小さな噴火だと分かった。ほう、と息をついたルルドたちにシンツァオが言った。

「そろそろお別れしなさいって母様が言ってるわ。これ、あなたたちの着てた服よ。さっき洗っておいたの」

 シンツァオはまだ湿っている布包みを渡して、ルルドたちが落ちてきた通路とは反対の洞穴を指差した。

「あっちに、いつもじじ様が使っている道があるの。そこから帰るといいわ。でもまた来てね。きっとよ。私、またあなたたちに会いたい」

「君も一緒に行かないか、外の世界に」

 リリーが誘うと、シンツァオは首を横に振った。

「まだその時じゃないの」

 ルルドとリリーは後ろ髪を引かれる思いで、じじ様が使っているという通路へ向かった。

 二人の背に向かって、シンツァオがいつまでも手を振っている気配を感じた。

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