5 《海向こうの民》(チェンジャン)
店も閉まり、リリーたちが忙しく掃除しているのを隅の席でぼおっとながめながら、ルルドはこれからどうしようか考えていた。
街の入り口で会った男はリリーがヴェルナール一番の踊り子だと言った。でもリリーはトランで、ナルーじゃなかった。他の町へ行って探すしかないのだろう……。
「ルルド!」
名前を呼ばれてハッ、と我に返る。いつの間にかフロアの真ん中には大きなテーブルがどん、と置かれ、大皿に乗った料理が並んでいる。リリーが手招きをしてほほ笑んだ。ラウラのようにそのテーブルをみんなで囲み、ルルドが座るのを待っているようだ。
おそるおそる促された席に座ると、目の前に寝ぼけたような目をした、だけど抜け目なさそうな男が座って、ルルドのことをじろじろと眺めてきた。カウンターの中にいた男だ。男はやがて柔和な笑顔で言った。
「あなたがリリーのお客ですか。ってことは、ぼくの客でもありますねえ。ぼくはアルバン。この店の主人ですよ」
よろしく、と向かいからのばされた手をルルドはどうしたらいいかわからず、じっと見つめた。隣の席に座っているリリーが、ぷっ、と噴き出す。
「ラウラには握手の習慣がないみたいだよ、アルバンさん」
「お、そうなんですか。じゃあこれが初めての握手なんですねえ。ルルドくん、ちょっと手を出してごらんなさい」
ルルドが言われたように手を出すと、アルバンはその手をぎゅっと握って軽く振った。
「あ、く、しゅ、ってね。これが町のあいさつですよ。手を握り合ったらお互いの心の内が読めるってもんです。覚えておいて損はないですよ、きっと」
「あたしも握手する!」
「ぼくも!」
アルバンの隣に座っていた子どもたちが声を上げる。よく見ると、リリーの踊りの後ろで竪琴と太鼓を奏でていた少年たちだった。もっと大きな子たちだと思っていたら、舞台から降りると驚くほど幼い顔つきをしている。少年たちはかわるがわるルルドの手を取って、笑った。
「あたしは竪琴弾きのパン」
「ぼくは太鼓叩きのトン。パンとは双子なんだ」
ぽかぽかとあたたかいパンたちの手に、ルルドは少しずつ緊張がほぐれていくのを感じた。
「おれはさっきも自己紹介したな。カリョウだ。よろしく」
カリョウの大きな手はルルドを心ごと包み込んでくれるような気がした。そして最後にリリーが、誰よりもしっかりとルルドの手を握った。
「で、おれはリリード。リリーでいいよ。よろしくな、ルルド」
手を握り合ったらお互いの心の内が読める、とアルバンは言ったが、その通りだ、とルルドは思った。
(こうやってあいさつするから町にはたくさんの人がいても、お互い一緒に暮らせるんだ……)
ルルドは椅子から立ち上がり、みんなにおじぎをした。
「ラウラの、ルルドです。よ、よろしく」
食卓は和やかな空気に包まれ、みんなにこにことルルドを歓迎した。ルルドも、ぎこちなく微笑んだ。すると今度はアルバンが立ち上がり、ぐるりと全員の顔を見回して、言った。
「さあ、自己紹介も済んだことですし、食事にしましょう!」
食事はとても楽しいものだった。雰囲気がラウラの食事と似ていたからか、今度こそルルドも味わって食べることができた。
軽くトーストされたかためのパンに温かな豆のトマト煮を乗せて食べると絶品だった。リリーが取り分けてくれた大きな卵焼きは、ロランの葉やスライスされたソーセージが入っていて食べ応えがある。トンやカリョウが食べているのは赤くて辛いソースを絡めた魚の料理だった。
「どうですか、おいしいですか」
アルバンに尋ねられてルルドは元気よくうなずいた。どの料理もルルドが初めて食べるもので、とても美味しかった。
「アルバンさんはね、もともと料理人なんだよ! チェンジャンの料理もすごく美味しく作ってくれるんだから!」
ね! とパンがトンに顔を向けると、トンもこくこくとうなずいた。
「まあ、おれたちは町生まれのチェンジャンだから本物のチェンジャン料理なんて知らないんだけどな。それでもアルバンさんのチェンジャン料理が絶品なのには変わりないぜ」
カリョウも満足そうにうなずく。ルルドはひとり、首をひねった。
「あの……チェンジャン、って何、ですか……?」
はた、とみんなの食事の手が止まった。ルルドは自分が聞いてはいけないことを聞いたのか、と腹の底が冷える思いがした。
「そうか……おれたちがラウラのことをよく知らないように、ラウラもおれたちのことを知らないのは当たり前かもな」
カリョウがぐい、と袖をまくり、ルルドに腕を見せながら言った。
「おれたち肌の色が濃い一族はチェンジャン……《海向こうの民》って呼ばれていてな、その昔、祖先が海の遠く彼方からこの大陸にやってきたっていわれてるんだよ。パンもトンも、チェンジャンだ」
「海、って、湖よりも広くて、川よりも大きく水が動く、あの海……?」
ルルドは『海』を言い伝えでしか知らなかった。本当にそんな大きな水が集まる場所があって、カリョウたちの祖先がその海の向こうに住んでいたなんて。そして自分たちが生きるこの世界を『大陸』と呼ぶなんてことも、ルルドは知らなかった。
パンが、いつの間に持ってきたのだろう、竪琴をぽろん、と鳴らした。その旋律に合わせてカリョウとトンが朗々とふしぎな響きの歌を歌いだす。
「奏で 唄は渡る 遠い海の彼方
栄華 露と消える 祖国離れ我ら
命の呼び声誘う 子の笑い声響く
命は連なり ここで 母に想い馳せる」
歌詞の中に『呼び声』という言葉が出てきて、ルルドはギクリ、とした。これは偶然なのだろうか。
しっとりとした歌が終わると、カリョウが笑って続けた。
「ま、もともとこの大陸の住民じゃないからなのか、ちょっと大陸人はチェンジャンに厳しいんだ。奴隷ってほどじゃないけど、下働きの口しかなかったりな。でも長い時間をかけてチェンジャンはこの大陸になじんでいった。大陸人と触れあわずに暮らすチェンジャンもいるらしいけど、おれは町の暮らしがいいな」
カリョウの言葉にパンもトンもにっこり笑う。
「アルバンさん、優しいもんね」
「ぼくは楽しそうに働く人が好きですからね。大陸人もチェンジャンも関係ありませんよ」
アルバンは照れ笑いを浮かべながら、リチェル(アルコール入りのシャンパン)をあおった。
「こういう人だから、旅人もついこの店に寄って行っちゃうんだよなあ」
「リリーはそのまま絡めとられた口だもんね」
「リリーは、この町の生まれじゃ、ないの……?」
ルルドが尋ねると、リリーは少し顔を赤らめながら答えた。
「おれはムーア火山からもっともっと遠い田舎の生まれなんだ。フルーエットっていうのは、その田舎の名前。そこからずっと旅をして、この町で落ち着いちゃったってわけさ」
「おいおい、旅立った理由をルルドに話してやれよ」
カリョウのあおりに、リリーはますます顔を赤くする。しばらく渋った後、ぐっ、とリチェルを飲んで、小さな声で言った。
「おれ、ラウラに憧れてんだ」
予想外の答えにルルドは目を丸くした。
「どうして!」
「その田舎の家に本があったんだ。大陸中の古い昔話の本。その中にラウラのことが書いてあってさ……。『草原を旅するムーアの番人』って。その本が大好きだったおれは、なんだか妙にラウラに心惹かれてね。自分でラウラについて調べまくって、憧れが増していって……それでラウラになろうと思って旅に出たんだ」
ルルドは驚いてばかりだった。町の人はラウラを馬鹿にしていると聞いていたのに、まさかラウラに憧れる人がいるなんて思いもよらなかった。ルルドにとって自分がラウラであることは当たり前だからリリーのように憧れたことなんてなかったが、もし自分がラウラじゃなかったら、ラウラに憧れたりしたのだろうか……。
「でも、いざラウラの草原に通じる森へ、ってときになって怖気づいちゃってさ。
ラウラはムーアの番人っていう使命を背負っているから、町の人間を受け入れてくれないんじゃないかって森の前で引き返しちまったんだ。その時寄ったのがこの酒場で……」
「ぼくはリリーが来てくれて助かってますからね。いつまでもいてもらって構いませんよ」
「じゃあトランとして踊らせてよ、アルバンさん」
「それはまだダメですね。酒場の客は男よりも女の踊り子を好みますから。そこは商売優先ですよ」
ケチ、とリリーが口をとがらせて、アルバンたちがどっ、と笑った。ルルドも思わず笑ってから、さっきの残念な気持ちがまたむくむくと胸の中に満ちてきた。そんなルルドの様子に気づいたのか、リリーはわざと明るい声でルルドに言った。
「ルルド! そんなわけだからさ、ラウラの話をしてくれよ! あと、ラウラの踊りを教えてほしいな。みんなにも見せてあげなよ。すごいんだよ、ルルドの踊りは。猫みたいに身軽なんだ!」
歌ったり踊ったりの楽しい食事はいつまでも続いた。町の暮らしやチェンジャンの話を聞くのは、ルルドにとって世界が広がっていくような時間だった。
だいぶ酔いが回ってきたリリーが店で披露した踊りを踊る。それに合わせてパンとトンが異国の言葉の歌を歌った。
「あれは、チェンジャンの言葉……?」
ルルドが尋ねると、カリョウがリチェルのビンを口から離してうなずいた。
「そうさ。でっかいお山は母のよう、いつでも我らを見下ろして、っていう、チェンジャンなりのムーア火山信仰の歌さ。町に住むチェンジャンはそうでもないけど、大陸人に交わらないやつらはムーアを強くあがめてるらしいぜ」
ルルドは自分の胸が熱くなるのを感じた。自分たちが大事にしているものを、海の向こうから来た人たちも大事にしているのがうれしかった。
笑い声がして、リリーに目を向けると、パンもトンも交じって楽しそうに踊っていた。それを見たルルドは、鎮めのナルーじゃなくてもリリーの踊りに出会えてよかった、と思った。
みんな疲れて眠りこけたころ、ルルドはこっそりと荷袋を持った。中のチャンが鳴らないようにしっかりと抱えて、静かに酒場の扉を開く。
空はもう白んでいて、風は身を切るように冷たい。みんなを起こさないようにそっと扉を閉めて、ルルドは酒場に向かって礼をした。
(黙って出て行ってごめんなさい)
しばらく頭を下げたあと、スカーフを巻きなおして歩き出した。早く次の町に着かないと、ナルーを見つけないと……。ルルドの胸の中にぴゅう、と風が吹いた。
本当に、見つかるのだろうか。
昨日リリーに連れられて歩いた道を戻り、噴水の広場から奥に続いている大通りを歩いていく。この通りは入り口と出口をまっすぐに通っているとリリーは言っていた。
もうすぐ出口、というところで、ルルドはあっ、と声をあげた。見覚えのある人影が立っている。リリーだ。
「あいさつもなしで行っちゃうの?」
リリーの言葉にルルドは顔を伏せた。胸がズキズキする。ふう、とリリーの溜息の声が聞こえた。
「ルルド、おれはこの出会いは何か特別なものだと思ってる。ナルーを探すラウラと、ラウラに憧れてるナルー……もどきが出会ったんだ。だからさ、」
リリーはためらうように息を吐いて、言った。
「おれも一緒に連れて行ってくれよ、お前の旅に。お前の手助けがしたいんだ」
ルルドは驚いてリリーを見つめた。
「アルバンさんのお店は……」
「アルバンさんは全部分かってたみたいだ。昨日こっそり荷袋をくれたよ。だから何の問題もない」
緊張からか、リリー指先が小刻みに震えている。
それに気付いた時、ルルドはリリーの踊りを見たときの湧き上がる確信を思い出した。この人はナルーじゃないけど、きっとこの旅に必要だ。そんな気がする。
ルルドはゆっくりと手を差し出した。リリーが驚いた表情を浮かべる。
「よろしく、リリー」
ルルドの言葉に、リリーもしっかりとルルドの手を握り返した。ひんやりとした指先が、お互いの熱で暖められていくのを感じた。
「よろしく、ルルド」
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