4 リリー・フルーエット

 アルバンの酒場は細い路地の奥にあった。

 重い木の扉を開けると、中からむわっ、とアルコールのにおいが流れ出る。まだ外も明るいというのに店内は薄暗い。三十ほどある椅子はだいぶ埋まっていて、みな一様に赤い顔をして陽気に歌を歌っていた。カウンターの中で人の良さそうな顔をした男がフライパンを持って客と話をしている。あの人が『アルバンさん』なのだろうか。

「リリー、ようやく戻ったか。もうみんなお待ちかねだぞ」

 いくつもの皿やジョッキを持った日に焼けた肌の男がリリーに声をかける。

「もうそんな時間? もうちょっと待ってよ。あたし、お客さん連れてきたんだから」

 リリーに連れられて、ルルドは奥のテーブル席に座った。ごちゃごちゃと酒瓶と食器が並ぶカウンターから、リリーが緑の瓶を持ってきた。

「まだお酒を飲む、って年じゃないだろ。チェル(アルコール抜きのシャンパン)があったから、これを飲んで待ってて。カリョウ……さっき、あたしに声を掛けてきたやつなんだけど……そいつが特製の料理を持ってきてくれるから」

 慣れた手つきでチェルの栓を抜いてリリーは店のさらに奥へ行ってしまった。ルルドはチェルの瓶に口をつけてみた。初めて飲むチェルはのどのあたりでぱちぱちと弾けて、さわやかな甘みが口の中に広がり、とてもおいしかった。


 ちびりちびりとチェルを飲みながら見回す酒場はなんだか落ち着く空間だった。がっしりして豪快に笑うおじさんも、やせっぽちのおじいさんも、みんな楽しそうに仲良く酒を飲み交わしている。ラウラの男たちもたまにある酒盛りで、こんな風に酒を飲んでいたことを思い出す。

 昨日ノダーリを出てきたはずなのに、ラウラのことがやけに懐かしい。ルルドは酔っ払いの調子っぱずれの歌声を聴きながら、ちょっとだけ泣きそうになった。

「お待ちどう」

 ルルドのテーブルにほかほかと湯気の立つ焼きそばが置かれた。顔をあげると、さっきリリーがカリョウと呼んでいた、日焼けした肌の男が立っていた。

「アルバンさんお手製のヴェルナール風焼きそばだ。あんた、リリーの友達か?」

 どう答えたらいいのか分からずルルドが黙っていると、カリョウはルルドの向かいの席に座った。

「食べなよ、冷めちまうぞ」

 促されて、ルルドはあわてて焼きそばをほおばった。甘辛いソースが細長く切られた野菜や平たい麺によく絡んでいる。飲み込んだ後、ふわりとふしぎなスパイスの風味が口に広がった。

 とてもおいしいが、いつも大勢で食事をすることが当たり前だったルルドは、自分だけが食べている事になんだか落ち着きのなさを感じていた。結局、せっかくのおいしさもろくに味わえないまま、ルルドは焼きそばを食べ終えた。

「もうすぐあいつのショータイムだ。リリーはすごいんだぜ、町一番っていうより、あんなに踊れる踊り子は他の町にもざらにいねぇよ。お、出てきた」

 ルルドは自分の席のすぐ近くにある小さな舞台を見た。リリーだ。顔に軽くおしろいをつけ、目じりに紅をさしている。少し派手な赤色の踊り子のドレスをまとい、ルルドのスカーフよりもっと軽い羽衣のような薄紫の布を持っていた。

 リリーの後ろで小さな竪琴を構える少女と太鼓を抱える少年がいた。二人ともカリョウと同じ褐色の肌をしている。

 酔っ払いも待ってましたと言わんばかりに大歓声で三人を迎え、やがて酒場の中は穏やかな沈黙に包まれた。


 少女がぽろん、と竪琴を弾く。

 少年がツタンッ、と太鼓を叩く。

 リリーの布が空気の上をなめらかに滑っていく。

 それだけでルルドの腕に鳥肌が立った。

 それはルルドが初めて見る踊りだった。ゆるやかに空気をかきまわすような、くるくると回る踊りだ。手のひらを上に返すだけでも、まるで偉大なものに祈りをささげているような神聖さをかもしだしていた。すべての動きが無駄なく連続して、大きな流れを生み出す。ここが酒場だということをだれしもが忘れかけていた。

 竪琴を弾きながら少女が歌いだした。ふしぎな響きがする異国の言葉の歌だった。リリーはその歌声のふしぎな音をひとつひとつ丁寧に拾い上げて、慈しむかのように布を揺らした。

 少年の太鼓がどんどんリズムを刻み、曲が速くなる。歌も竪琴も、踊りも、楽しく盛り上がってくる。

 嬉しそうに笑いながら踊るリリーを見て、ルルドの胸の中に何かが聞こえた。それはあのカロナ草の原っぱで聞いた呼び声のような、何かなつかしくてたまらないものだった。

(この人だ)

 ルルドは呆然とした。リリーがムーアを鎮めるナルーだ。まさかこんなに早く見つかるなんて。こんなに近くにいたなんて。

(よかった……)

 これで災いの噴火に間に合う。ルルドは知らず知らずのうち指を組んでいた。


 また曲調がゆるやかになり、リリーの布がゆっくりと床に落ちて踊りは終わった。

 安心感からか、踊りの素晴らしさからなのか、ルルドの目から涙があふれた。それに気付いたカリョウが、少しおろおろとして、濡れたタオルを持ってきてくれた。

「泣くほどよかったか? まあ、すごいよな。普通、酒場の踊りってのはもっと肌を見せたり足を開いたりするもんだ。でもリリーの踊りはそんなことしなくても酒飲みの心を癒して、楽しませてくれるんだ」

 カリョウがそういったとき、リリーが普段着に着替えて戻ってきた。

「あ、ちょっとカリョウ! 何泣かせてんだ!」

「おれじゃなくてお前が泣かせたんだろ!」

 二人の言い合いを聞きながら、ルルドは涙をふき、息を整えた。胸の奥でまだ呼び声が響いているような気がする。ルルドの落ち着いた様子にカリョウとリリーはホッと息をついて、カリョウは仕事に戻り、今度はリリーがルルドの向かいに座った。

「そんなによかった? あたしの踊り」

「す、すごく!」

 ルルドの言葉に満足したようにリリーはほほ笑んだ。

「よかったあ。あんた、すごくいい踊り手だもん。そんな人の前で踊るなんて緊張しちゃったよ」

 ルルドは恥ずかしくなって顔を伏せた。どうやってリリーにムーアの呼び声の話をしよう……引き受けてもらえなかったらどうしよう……。正直に言うしかない、と意を決して口を開いた。

「リリー、さん……」

「リリーでいいよ」

 出だしからつまづいてしまった。また恥ずかしさに顔を赤くしながら、ルルドは丁寧に、ラウラの言い伝えとムーア火山の呼び声、自分の役目を話した。最初は笑って聞いていたリリーも、だんだんと真剣な表情で聞き入っていった。


 夜の酒場はますます盛況になり、リリーとルルドは店の奥の、舞台の控室のような小部屋で話を続けた。話が終わった頃にはもう日が沈み、リリーの夜のショータイムが迫っていた。

「……そのナルーがあたしだと思うんだね」

 ルルドはこくん、と頷く。リリーは長いため息をつき、困ったように頭を抱えた。

「ルルド、正直に言うよ」

 そう前置きをしてリリーがまっすぐにルルドを見つめた。空気がピン、と張り詰める。

「あたしはあんたの話を聞いて、すごく心がひかれたよ。でもそのナルーはあたしじゃないってことがわかってるんだ。だって、」

 そこでリリーは、バッと上着を脱いだ。ルルドはあわてて目をそらそうとしたが、ハッとあることに気付いて視線を戻した。リリーの身体は胸がなく、まるで……。

「おれ、男なんだよ。本当の名前はリリード。トランなんだ。だからナルーにはなれない」

 たしかに、男の身体だった。細身だががっしりした体格も、成長期の少年と言われたら納得できる。化粧や仕草や言葉が女性らしかったから気にならなかったが、声も女性にしては低い。

 ルルドは衝撃に頭がくらくらした。リリーが男で、トラン……。リリーの踊りを見た時に、胸に響いた呼び声に似たものは何だったのだろう。

「なんで、女の格好……」

「店主命令でね。女の踊り子の方が、客が喜ぶんだ。だから女装が通じるうちはナルーのリリーってわけなんだ」

 呆然とするルルドに、リリーは少し申し訳なさそうな笑みを浮かべて言った。

「ルルド、この町に泊まっていくだろ。色々聞きたい話があるんだ。ちゃっちゃとステージ済ませてくるから、待っててくれよ」

 ルルドは力なくうなずいた。そのあとのリリーの踊りがやっぱり素晴らしかったことが、ルルドの心をさらに重くした。

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