2 ラウラの言い伝え
長老は、少し甘い香りのする煙がたちのぼる香草キセルで織物のひとつを指した。ルルドが夕食前に報告に来た時にも見ていた、あの赤地に白い線の織物だ。
「あれはラウラの伝統の模様じゃ。あの模様の意味を知っとるか?」
熾き火を囲んで右隣りにいたリョーがひそひそ声で「何か知ってるか」と尋ねてきて、ルルドは頭を横に振った。かわりに父さんが口を開いた。
「あの模様はムーア火山の噴火の暦だ」
「えっ、そうなの!」
「そうだよ、リョー。長老が読み解く月の暦と、《風見役》が記録する火山の様子からムーアの噴火はある程度予測できるんだ。ラウラの女たちはそれをはるか昔から継いできた方法で織りあげて、未来に遺していく。もっとも、噴火の暦をしっかり読み解けるのは、やっぱり長老だけなんだけどね」
おばさんが言葉を引き継いだ。あの織物にそんな秘密があったなんて……。ルルドは驚きのあまり、少しぼうっとした。
「ただその暦にも予測できない噴火がまれにあっての。そういう噴火ほど規模が大きいんじゃ。規模が大きい噴火は人々に災いをもたらす危険なもの。ひどければ、大地は大きく揺れ、噴煙が太陽を隠し、灰は畑を埋め作物は枯れてしまうじゃろう。わしらの生きる草原、森、そして町が燃えるかもしれん。復興には時間がかかる。記録によるとここ百年ほどなかったんじゃが……」
ルルドもリョーも小さな噴火なら何度も見ていた。ほんの少しだけ大地が揺れて、噴煙が巻き上がる。
ムーアの灰はどういうわけか土を豊かにし、作物を育む力を持っていて、《恵みの灰》と呼ばれ人々にありがたがられている。だからルルドは噴火が災いになるなんて考えたこともなかった。
「ルルド、わしはお前の話を聞いてすぐに噴火の暦を読んでみた。暦には何も出ていない。じゃが、バルデたち《風見役》にムーア火山の様子を調べさせると、確かに噴火の兆候が表れている。そこで思い出したのじゃ。成人の儀にだけ語る、ラウラの古い詩を」
ランプの中の炎がじりっ、と音を立てた。長老の低いしわがれ声が歌うように言葉をつむぎはじめる。
「母なるムーアに抱かれし子よ
ムーアの涙はもう満ちた
空も 大地も 海も
人の子の行く末を祝福しよう
聞けよ はじまりの呼び声を
踊れよ 迎え火の舞を
この世のすべてはムーアの中に
この世のすべてはムーアの外に」
その詩を聞いている間、ルルドはふしぎな気持ちになった。はじめて聞く詩なのに、前からその詩を知っているような気がして、詩のことばがすんなりと頭の中に入ってきた。右隣をみると、リョーも半分寝ボケたような顔で詩に聞き入っていた。
「この詩はラウラの祖先であるナルー(女の踊り手)とトラン(男の踊り手)が歌っていたといわれておる」
「ラウラの祖先のナルーとトランって……あの言い伝えの?」
リョーの驚きの声に大人たちが一斉にうなずいた。ルルドも、夕食前に長老が年少組に語っていた言い伝えを思い出した。ムーアの怒りを鎮めた伝説の踊り手たちが歌っていた詩……。ルルドの腕にぞわっ、と鳥肌が立った。
「詩の真意はわしらには伝わっておらん。ムーアの涙が何なのか、何を迎える迎え火なのか……。ただ、この詩は暦にない噴火が来たときにムーアに捧げる詩として、わしらに言い伝えられてきたのじゃ。わしが考えるに、詩の『呼び声』は、ルルド。お前が聞いた呼び声のことじゃろうて。これから噴火が始まるのじゃ。人に災いをもたらす噴火がの。わしらはそれを鎮めるために踊りを捧げねばならぬ」
「本当に踊りだけで火山が鎮まるのかよ」
「こら! リョー!」
おばさんにたしなめられてリョーはふてくされたように唇をとがらせた。長老は「もっともじゃ」と目を伏せる。
「リョー。たしかに他の火山はそうはいかないと思う。じゃが、ムーア火山は謎多き山よ。そもそもムーアという名前も『水がある土地』という意味を持つ火山らしからぬ言葉じゃ。名前ひとつとっても、わしらには計り知れぬ謎がある。巨大なふしぎに対してわしらが持つ手立ては、古くから言い伝えられてきた先人の学びなのじゃよ。それに、」
長老はそこで目を開いて言った。
「わしらラウラの民はムーアが人に災いをなすのを放って逃げ出すような民ではない」
リョーはしばらく黙っていたが、しぶしぶうなずいた。
「しかし長老」
父さんが険しい表情のまま尋ねた。
「言い伝えでは鎮めの踊り手は年若い男女だといいます。トランはルルドかリョーでいいでしょう。ですがナルーを務められる年の女はいません。幼すぎるか、年を取りすぎているか、あるいは結婚しているか。結婚している者はナルーにはなれない決まりがありますよね」
「そこじゃ」
長老はそこで言葉を区切って、香草キセルの煙を深く吸い込んだ。その煙をぽっ、ぽっ、ぽっと吐くと、煙はゆらゆらといくつもの輪になって、波紋のように重なった。
「世界の中心にムーアがある。ラウラはその周りを旅する民じゃ。そのラウラの旅を囲むように森があり、森を囲むように人の作る町がいくつも並ぶ。『この世のすべてはムーアの外に』……」
「まさか長老はナルーを町へ探しに行け、と?」
今度はおばさんが声を荒げた。
「冗談じゃない! 町のやつらはムーアに見守られていることも忘れて、他人をおとしめることばかり考えているそうじゃないか! 私たちラウラのことも文明から取り残された民といって馬鹿にしてるって聞いたよ」
ルルドも聞いたことがあった。だからラウラは重大な用事がない限り町には近づかない。町の人もラウラには近寄らない。ルルドも生まれてこのかた、町には行った事がなかった。
「今は緊急事態なのじゃ。ルルドは『呼び声』を聞いた。わしらにできることは言い伝えを再現することじゃ」
「だからって……」
おばさんと長老の声をどこか遠くに感じながら、ルルドは考えていた。自分が聞いたあの声がそんなに重要なものだとは思いもしなかった。どっしりと世界を見守るムーア火山が災いの火を噴くと思うと体が震える。自分に課せられた使命の重さにも押しつぶされそうだ。だけど話を聞いていくうちに、胸の中に火の玉のような熱が宿って、どんどん熱くなっていくのが分かった。
(やらなくちゃいけない。あの呼び声に応えたい)
ルルドは突き動かされるように言った。
「リョー、君は、成人の儀の踊りの練習じゃなくて……鎮めの踊りの練習をしてくれないかな」
リョーは目を丸くしてルルドを見つめた。
「おい、ルルド。お前、おれにそのトランをやれ、って言うのか?」
ルルドがうなずくと、リョーは困った顔で頭を抱えた。
「……ルルド、悪い。おれはトランとしては三流だ。そんな大きな儀式のトランを務めるなんて柄じゃない。おれのへたくそな踊りじゃムーアはもっと怒っちまうよ」
「でも、」
「ルルドが年少組一番のトランだってことはみんな知ってるし、自分でもわかってるだろ? きっとムーアにはお前の踊りが必要なんだ」
違う、と言いかけて、ルルドは口をつぐんだ。リョーの目にうっすら涙が浮かんでいたからだ。自分ができないことを認めるのはなんて勇気のいることだろう。
「……わかったよ、リョー」
ルルドはそう言って、長老の方へ向き直った。視界の端で父さんが力強い目で見つめてくるのがわかった。
「長老、ぼくは、ナルーを探してきます。それが、ムーアに呼ばれたぼくの、仕事だと思うんです」
「ルルド!」
おばさんが悲鳴のような声を上げる。リョーがおばさんの手をぎゅっと握った。
「行ってくれるか……」
長老は目を細めて行った。
「もとよりこの旅は『呼び声』を聞いた者にしかできぬものじゃ。お前の旅の期限は次の満月が来るまで……はっきり言えば、七日じゃ。前兆のない噴火は満月の次の夜に起こりやすいと記録されておるでのう」
「七日? そりゃ気が急く話だね!」
たしかに短い。その間にナルーを見つけられなかったら……。ルルドは身体を固くした。その時、父さんがルルドの隣に来て、ルルドと同じように長老に向き直り、頭を下げた。
「長老、私も息子の旅に同行させてください」
「父さん!」
ルルドは驚いた。どんな獲物をしとめてもいつも人の後ろで微笑んでいる父さんが、そんなことを言うとは思ってなかったのだ。
「いや、おじさん。おれが行くよ」
今度はリョーが口を開いた。
「もしかしたらすごく過酷な旅になるかもしれないだろ? へへ、おれ、踊りは下手だけど体力には自信あんだ! それにルルドは人見知りだけど、おれは平気だぜ!」
「ばかおっしゃい、子どものくせに」
おばさんがリョーの頭をはたいて言った。
「ルルド、あたしがついていこうか。ナルーは女じゃないか。女がいた方がなにかと便利だろ?」
ルルドは何も言えなくなった。こんなに自分は支えられているのか、と思うとありがたさに涙が出そうだった。そして同時に、胸の中の火の玉がごうっ、と音を立てて燃え盛った。
「どうかの、ルルド」
長老に尋ねられて、ルルドは火の玉の熱を口にした。
「みんなありがとう。でも、だめだ。これは、ぼくの仕事なんだ。ひとりで、行かなきゃならない。そんな気が、するんだ」
父さんが息をのむのがわかった。見開かれた目はゆっくりと細まり、夕食の時と同じように大きな手がルルドの頭にのびかけて、すっ、と肩に置かれた。
「お前はもう、大人になっていたんだなあ」
ルルドは頬が熱くなって顔を伏せた。リョーも、おばさんも、長老も、何も言わなかった。静かなホロゥの中で、熾き火の炭がぱちん、と跳ねる。ホロゥの外からは、しとしとと雨の降る音がした。
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