ムーアのうたの物語

よよてば

1 ムーアの呼び声

 誰かに名前を呼ばれたような気がして、ルルドははじかれたように振り返った。

 太陽が沈む直前のだいだい色の空に、白い雲が薄くたなびいている。あたり一面に生い茂った金色のカロナ草が、そろそろ冷たさをはらみ始めた風を受けて揺れていた。

 そしてカロナ草の原っぱの遠く向こうに、雄大なムーア火山がどっしりと腰をおろしている。でこぼこした山肌は夕陽に輝く一方で、ところどころ夜の闇よりも濃い黒々とした影に染まっていた。

 ルルドは呼び声の主を探して辺りを見渡した。誰の姿も見えない。耳から胸に響いたその声は、なんだか妙になつかしいような、胸がしめつけられるような声だった。ムーア火山の方から吹く涼やかな風がルルドの頬をなでる。風に乗ったにおいにハッとした。

(灰と、雨のにおいだ)

 さっ、と手に持った浅いかごを見ると、カロナの実でいっぱいになっている。成人の儀で使うには十分だ。もう一度だけムーア火山を見やってから、ルルドは仲間が待っているノダーリ(営地)へ駆けだした。


 ノダーリに到着した時にはもう日は落ちて、いくつかのホロゥ(テント)から細い煙が立ち上っていた。夕食の準備が始まっているのだ。煮立った鍋を木のおたまでかき回すおばさんが、ルルドに向かってにっかりと笑った。

「ルルド、カロナの実は集まったかい?」

 こくん、とうなずいて、ルルドはおばさんにかごを見せた。たき火やランプのあたたかな明かりの中で、黄色いカロナの実は宝石のようにキラキラ光っている。おばさんは満足そうにうなずいた。

「あんたももうすぐ十三になるんだね。なんだかあっという間な気がするよ。うちの坊主と一緒の日に成人の儀をするんだろう?」

 ルルドはもう一度、こくん、とうなずいた。

 ルルドと、おばさんの息子のリョーは、次の満月の晩に成人の儀を行う。十三になる子どもたちが、カロナの実の汁で化粧をし、月明かりの下でムーア火山に成人の踊りを披露するのだ。そして年少組と呼ばれる子どもたちグループから卒業し、一人の大人として認められる。これがルルドたち、ラウラの民に伝わる成人の儀だった。

 暗くなった空にのぼり始めた月は、もう半分より少し丸くなっている。

「よし、もうすぐ成人を迎えるラウラの子に、美味しいものを食べさせてあげないとね。ルルド、ちょっと待ってな。今あったかい羊汁、こさえてあげるから。そうそう、リョーを見かけたら、私のとこに来るようにって伝えておくれよ」

 そう言って、おばさんは羊汁の灰汁すくいを始めた。濃厚なうまみの香りが鼻をくすぐって、ルルドはハッと、さっきの雨と灰のにおいを思い出した。

(雨が来ることを長老に知らせなくちゃ……)

 あわててあたりを見回すと、夕飯を作る女たちと、狩りや遊牧から戻ってきた男たちのむこうに、大きなホロゥが見えた。そちらに近づいていくと、中からは長老が年少組にラウラの民の言い伝えを語る声が聞こえてくる。

「いいかい、子どもたち。わしらラウラの民は、母なるムーア火山を尊び、敬い、そして鎮める一族じゃ。それはわしらの祖先がムーアを鎮めたことに由来する。

 その昔、ムーア火山にはムーアの娘がおっての。娘は人の世にあこがれて母なるムーアから離れてしまったのじゃ。ムーアは怒り、人の世の地を揺らし、火を噴こうとした。その時現れたナルー(女の踊り手)とトラン(男の踊り手)が、見事な舞を披露し、ムーアの怒りは鎮められたのじゃ。まだ年若い二人の踊り手はムーアを鎮める役目を負い、彼らの子孫がわしらラウラなのじゃ。よぉく覚えておおき、子どもたち。わしらにはムーアを見守り、ムーアに見守られる使命があることを」

 ホロゥの出入り口の布をめくると、長老がくゆらす香草キセルの煙のにおいがふわっ、とただよった。年少組の子どもたちが一斉にルルドの方を向く。その中には年少組の子守役だったリョーの姿もあった。

「おう、ルルド。飯ができたのか?」

 ルルドが首を横に振ると、目を輝かせかけた子どもたちがしゅん、と頭を下げた。それを見てルルドとリョーは苦笑いを浮かべた。年少組は夕食の前に長老の話を聞くのがならわしなので、みんな耳にタコができるのだ。

「まだ、だけど……そろそろできるよ」

「お、聞いたか、年少組! 準備の手伝いに行くぞ!」

 子どもたちはわぁっ、と歓声を上げて、どたばたと長老のホロゥから飛び出して行った。

「待て! まだわしの話は終わってないぞ!」

 長老の声もむなしく、あっという間にホロゥの中には長老とリョーとルルドだけになってしまった。長老の長い長いため息と、リョーのからからとした笑い声が香草キセルの煙に溶けていった。

「ところでルルド。おれの分までカロナの実を取ってきてくれたか?」

「あ、うん……ちゃんと、かごいっぱい取って来たから、足りる、と思う……」

 おばさんに見せたようにかごを見せると、リョーはおばさんと同じように満足そうにうなずいた。あまりにもそっくりなその様子に、ルルドは小さく吹き出した。

「何笑ってんだよ」

「リョー。おばさんが、呼んでたよ」

 あ、いけね、と舌を出して、リョーもばたばたとホロゥから出て行った。布の隙間から入ってくる表のにぎやかさが増す。ぼんやりと布を見つめていたルルドの後ろから、こほん、と咳払いの音が飛んできた。

「して、ルルド。何かわしに用事かの」

 そうだった。ルルドはあわてて長老の前に腰をおろして、頭を下げて言った。

「長老、先ほど、ムーア火山の方角から、雨と灰のにおいがしました。明日には、雨が来るんじゃないか、と……」

 長老は深々と香草キセルの煙を吸い込み、ゆっくりと細く吐きだした。しわだらけの顔の中で、薄茶色の瞳がきらり、と光る。

「長引きそうな雨かの」

「いえ。濃い湿り気のにおいでは、なかったので……多分、一日で通り過ぎる、かと」

「ふうむ。ルルドは鼻が利くからの。長雨になりそうにないのなら成人の儀も無事に行われるじゃろう。月が満ちるまで七日ある」

 それを聞いてルルドはホッとした。満月の夜に雨が来たら成人の儀は来月になる。もうすぐに迫った日が先送りになったら、とうとう大人になる、と緊張した気持ちが長引かされるのが怖かったのだ。まだまだ満月までは日があるだろうとはいえ、ラウラで唯一月の暦を読める長老の言葉はルルドを安心させてくれた。

「ただ、気になるのは、灰のにおいじゃな」

 長老は斜め上を見上げた。ラウラはホロゥの内側をたくさんの織物で飾る習慣がある。その中でも長老のホロゥにはとびきり古くて、とびきり美しい模様の織物がいっぱい飾られていた。ルルドもつられて長老が見つめる織物を見た。赤地の上に白と灰色の線が斜めにたくさん走っている、ラウラの伝統的な織物だ。

「ここはムーア火山に近い。灰のにおいはいつものことじゃ。気になるくらい灰のにおいは濃かったのかの?」

 そう聞かれてルルドは何と答えたらいいのかわからなくなった。たしかに灰のにおいはいつもしている。でも、今日のにおいは、何かに気づかされたような、そんな気がした。

「何かに……名前を呼ばれた気がしたんです」

「名前を?」

 長老の白髪だらけの眉がぴくり、と上がった。

「はい。でも……ルルド、ってはっきり呼ばれたわけじゃなくて……でも、ぼくが呼ばれたって思って、振り向いたら、灰と雨のにおいが、したんです」

「呼ばれた、のう……」

 長老は香草キセルを薄い皿の上に置き、何かをぶつぶつとつぶやき始めた。長老の言葉を待っていたら不意に、わっ、と外のざわめきが大きくなった。誰かがホロゥの布をめくったのだ。リョーのおばさんだ。

「長老! ルルド! 話し込むのもいいけど、もう夕飯の時間だよ。『食事はみんなでいただく』のがラウラのしきたりだからね! せっかくの羊汁が冷めちまったら、長老といえども、後片付けを任せますからね!」


 空気が冷え始めた頃に食べる羊汁は格別だった。深いうまみが溶けこんだ熱い汁に浮かぶ羊の肉は、口に入れるとほろほろととろけていく。口数の少ないルルドの父さんですら、「今日の羊汁はうまいな」と、笑ったほどだ。鍋をかこんだ向かいでリョーの弟が三杯目のおかわりをついでもらっている。隣の鍋では、夕飯になった羊を育てた男が、自分の羊をほめたたえる歌を歌っていた。

 ラウラは遊牧する民だ。だいたい季節ごとに新しいノダーリへ移動してはホロゥを張って集落を作る。ノダーリはいつもムーア火山と、それをぐるりと取り巻くような森の間にある草原地帯にすることになっている。ルルドたちは三十人くらいでいつも動き、その三十人はみんな家族のようなものだ。産んでくれた母は違っても、みんなラウラの子として一緒に育てられる。ルルドの母はルルドが物心つく前に亡くなったが、ラウラの子だからさみしくはなかった。

 大人の男たちは馬や羊や牛を飼いながら、森で狩りをおこなう。成人の儀が終わったら、ルルドもリョーも、狩りに連れて行ってもらえるようになる。

「ルルド」

「何? 父さん」

 ルルドが顔をあげると、大きくて、少し乾いた父さんの手がルルドの頭をなでた。母が亡くなってから、それまで狩りの腕が人並みだった父さんは、ラウラで一番の狩りの名手になった。悲しみを忘れるために森の中を歩き続けていたから、森と仲良くなったんだろう、と、ラウラの仲間はうわさしていた。

「……お前も、大人になるんだなあ」

 父さんの声が、羊汁のあたたかさとともに、じんわりと胸に広がっていく。ちょっとだけ鼻の奥がツンとした。

 もうすぐラウラの子から、ラウラの男になる。ルルドはそれがとてもうれしくて、とても怖い気がした。


 ひとつ、またひとつとホロゥの明かりが消えていく。空には満天の星が広がり、月は煌々と光っていた。まだ雨が降る気配はない。

 いつもならもう眠りにつく時間なのに、ルルドはリョーと共に長老のホロゥに向かっていた。夕食の片づけの後、なかなか帰ってこない父親を自分のホロゥで待ちながら寝る支度をしていたところを呼び出されたのだ。

 ルルドの前を行くバルデが持ったランプが、みんな寝静まったノダーリをぼんやりと照らす。バルデは、天気と火山の様子を探る《風見役》をまかされている、ルルド達の兄貴分ともいえる青年だ。

「ルルド、お前何かやらかしたのか? おれ、長老に呼び出されるような覚えないぞ」

 ひそひそ声でリョーが言った。ルルドも長老に呼び出されるようなことをやったか思い出そうとしたが、夕食前の話しか思い当らなかった。

「雨が来るって報告と……誰かに呼ばれた気がしたら灰のにおいがしたって、言った、だけだよ」

「しっ」

 バルデがけげんそうな顔をして唇に人差し指を当てた。

「お前ら、その話は長老のホロゥに入ってからしろ。まだ他のホロゥが近くにある」

 ルルドとリョーがうなずくと、バルデは眉間にしわを寄せたままもう何も言わずに、長老のホロゥへ足を速めた。

 ホロゥの中はランプと熾き火の明かりで満たされていてあたたかかった。相変わらず香草キセルをくゆらせる長老と、ルルドの父さん、そしてリョーのおばさんが座っていた。バルデは長老に頭を下げて、ホロゥの外に出て行った。表で見張りをするようだ。見張りが必要な話なんて初めてで、ルルドは緊張に体を固くした。

「来たか。座りなさい、ルルド」

 長老の示す敷物の上に座る。リョーの不安そうな顔、おばさんと父さんの険しい表情に、ルルドの心臓がばくばくと音を立て始めた。何かが始まろうとしている。長老が重々しく口を開いた。

「ルルド。お前は夕暮れに、ムーアの方から呼び声を聞いた。そうじゃな?」

 緊張したまま、こくん、とうなずく。父さんとおばさんはハッと息をのみ、長老は細く長く、煙を吐いた。

「どうやらお前は大変な役目を背負ってしまったようじゃ。ルルド、リョー。それぞれの保護者である大人たちと話をしたが、お前たちの成人の儀は中止にする。そのかわり、今から、成人の儀に話すはずじゃったラウラの秘密を教えよう」

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