第12話
1
日笠明二(ひかさ めいじ)
この時はまだ17歳であった。
小学生の時に格闘技をはじめ、様々な道場を点々としていた。
特定の格闘技に固執することなく、良く言えば幅広く学んでいると言えるだろう。
柔道、空手、ボクシング、キックなどを習っているがその中でも先ほど指摘された柔道と空手は学校で部活として指定されていたのもあり長く習っていた。
日笠は自分に自信があった。
さっき言われた通り町のチンピラ相手にワザと絡まれ、実戦を経験したこともあるしそれで負けたこともない、大抵の人間には負けない自覚もある。
実際この前にいくつかの道場に挑んでみたが、手負いにはなったもののそれでも負けてはいない。
しかしそれでもこの感覚は初めて出会った。
「マジかよっ……アタリだな」
東海とリングで向き合った瞬間、日笠の全身がブワッと大きくなるような錯覚に襲われる。
威圧感……というやつなのだろうか、無意識に後ろに下がろうとする自分に気が付き足に力を入れる、恐れる必要などない、人が急に大きくなるわけがないのだ、これは自分の恐怖心が見せる幻覚の様なものであり、決して飲まれてはいけないものだった。
「コオオオォォ………‼」
日笠は立った状態から胸の前で腕を十字に切り、思いっきり息を吐き出した。
―息吹である。
筋力トレの知識がある者は知っているだろうが、人間というのは息を吸う時には筋肉がリラックスした状態、吐く時には緊張した状態になると言われている、重りを上げる動作で息を吐き、下げる時には息を吸う、これを利用し空手道には『息吹』という呼吸法が存在する。
呼吸に合わせた筋肉の弛緩を肉体に覚えさせることで、いかなる時にでも一気に身体を緊張させることで戦闘状態にまでもっていける体、つまりしなやかな肉体を作り替える呼吸法である。
それに体の中にある空気を全て吐き出すことにより、多くの新鮮な空気を体の中にため込む事が出来、肉体のパフォーマンスを引き上げることにつながる。
何より今回、日笠が息吹を使ったのは精神状態を一定に保つためであろう。
冷静になった日笠は思う、東海とはなんとも不気味な男である。
思っていたよりも身長は低い。
決して筋肉が発達しているわけではない、周りの門下生と比べれば寧ろ痩せていると感じる程度には細いだろう、いわゆるロートルと呼ばれる段階に片足を突っ込んでいるだろう。
顔を見れば鼻と耳が潰れている。
軟骨潰れて柔らかくなって平たくなっていた。
耳は餃子の様に膨れている、柔道耳というやつだろう、投げなどの耳への繰り返し圧迫や摩擦などの刺激により、耳の軟骨膜の血管から出血し、血液が溜まることによってこういった耳になる。
身長は174㎝
体重は90㎏前後といった所か、目測なので東海よりあまり当てにならないのだろうがおおよその目安はついた。
身長、体重、年齢、何処をどう見ても明らかに日笠の方に分がある、劣っているのは経験値とタフネス位だろう。
リングを思いっきり踏みつける、思っていたよりも固く仕上げられている、恐らく投げ技で叩きつけられでもしたら相当なダメージを受けるだろう、東海もそれを狙っている筈だ、しかし体格で考えるならば自分よりも優位な東海を投げるというのは簡単な事ではない、その前に必ず攻防が行われるはずなのだ、そしてそこから接近戦が繰り広げられる、恐らくそれがこの立ち合いの肝となるポイントと日笠は考えた。
腰を軽く下げ脚でリズムを取る、拳を軽く握り顔の前に構える、打撃中心の構えと言う事だろう。
対して東海は緩く掌を開き顔を覆うように構えている、打撃を警戒しての構えというのが分かる。
互いに構えて数秒が経つ。
開始のゴングは未だに鳴っていない。
睨み合う。
恐らく両者の間合いではない、確かに大きく踏み出せば攻撃を繰り出せる距離にはなるものの、それにはかなりのリスクが伴う。
チリチリと針に刺されるかのような緊張感が2人の間に流れる。
否、それを感じているのは日笠だけなのだろうか、東海はどこ吹く風とでも言わんばかりに薄ら笑いが浮かんでいる。
じりじりとフットワークを使い始めた。
リズムに呼吸を合わせ、ゴングが鳴るのを待つ。
タンッ
タンッ
タンッ
マットを脚で叩く音がやたらと大きく聞こえる。
尖らせた精神が限界まで張り詰めた瞬間、ゴングが鳴った。
2.
初めに動いたのは日笠であった。
右足が浮き上がり東海の腹部に前蹴りが突き刺さった。
閃光の様な前蹴りであった。
普通の教本では前蹴りとは
1.膝を高く上げる。
2.膝の高さを変えずに、膝から下で蹴る。
3.蹴った足を引いてから足を下ろす。
といったような教え方をされるが、日笠の蹴りは少し違った。
地面を蹴るという動作は、ふくらはぎの筋肉とつま先で床を蹴って行われる。
そうすると、短距離のような足の動きになりつま先が下を向いてしまうそのため、空手で蹴りをするときは、地面を蹴った反作用で膝を上げてはいけない、地面を蹴ると一瞬だが足の筋肉が硬直してしまう。
その結果、次の動作が遅くなり蹴りがスムーズにだせなくなる。
洗練された実に美しい前蹴りだった。
しかし蹴りの後、日笠は違和感を感じていた。
異様な肉体であった。
数えきれないほどに他人の身体を打ち抜いてきた井笠である、しかし今までの男達とは明らかに違う、人を蹴った感覚がしなかった。
蹴った感触こそするがダメージを与えたという感覚がない、綿の詰まったクッションを蹴ったかのような包み込まれる感触であった。
いいようのない恐怖感が日笠を襲った。
ヤバい‼
日笠の本能が全力で警報を鳴らしていた。
ザッとバックステップで後ろに下がる、距離を取らなければ、構えを頭部に持っていき体を少し縮こめる、当たる的を少しでも小さくし急所を必死に守る。
「っ……ぐぅ」
進めない。
これが引退したプロレスラーの肉体か、日笠に戦慄が走る。
東海の身体からドロドロとした気配が漏れ出ている、それが日笠の身体に纏わりついてくるかのようだ、次第に四肢が縛られ動かなくなってゆく気がする。
恐怖か、それとも精神疲労か、日笠の呼吸が乱れ、自分の頭の中が真っ白になっていく気がした。
糞ッ‼
日笠は幾度も拳を打ち込む、しかし東海はしっかりと頭部をガードを固めている。
誰が見てもやぶれかぶれの攻撃であった。
リズムには乗れている。
望むところに、思い描いた技が入っているはず。
さっきの蹴りは生半可な人間ならうずくまって吐瀉物をまき散らしている筈だ、しかし東海は一切動じていない、それどころか蹴りのダメージまで回復しているかのように思える、寧ろ客観的に見て責めているはずの日笠の方が追い込まれているように見えた。
攻めろ‼
止まるな。
叩き続けろ‼
身体に言い聞かせ懸命に拳を、脚を、叩きこみ続ける。
効いているのか。
自分よりも小さい老人の筈だった。
しかし蓋を開ければどうだ、これだけやって沈める事すらできない。
「うっ……くぅ⁉」
口の端から一筋の血が流れる、日笠の攻撃で口を切ったせいだろう、手で血を拭い、奇妙な笑みを浮かべた。
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