第11話
1
古い道場であった。
使われていない倉庫を買い取り、道場として使っているらしかった。
中央にリングを設置し、そこから最低限のクッションを敷いただけの実に簡素な造りである。その他にはダンベルやらの筋肉トレーニング器具が無造作に置かれ、天井からサンドバックがぶら下っている位だろう。
しかしベンチプレスのシャフトは異常に使い込まれているのだろう、シャフトが擦り減っていて手の形に凹んでいる、
ベンチプレスだけではない、どれもこれも器具はボロボロになるまで使い込まれていた。サンドバックは何重にもガムテープが巻かれていてそこだけ盛り上がっていて不格好に見える、トレーニングに使われているロープは既に蝋が剥げており握るとチクチクとした。
熊倉は出入り口のシャッターを開ける、すると夏特有の青葉の香りが風に紛れて香ってくる。心地よい風と臭いであった。
夏の日差しが道場に照り付ける、既に道場の中の温度はサウナの如き蒸し暑さになっていた。さっきまで密室となっていたこともあり、すでに温度は30度近くなっているだろう、ただ立っているだけでも汗が滲んでくるのが分かる。
熊倉がいる道場は先日、熊倉を救ってくれたレスラーの大年寺が所属しているプロレス団体のUFWが使用している道場の一つであった。
大年寺に助けられて以降、一日の始まりは道場の清掃から始まるようになった。
まずは道場の換気から始まる。
その次に周辺の掃き掃除である、道場だけでなく隣の家の前まで掃き掃除をしろ、特に自分の所よりも丁寧にやれ、そう教えられた。それをするだけである程度周りの民家からの見る眼も変わってくるらしい。
それが終われば大体門下生が出てくる時間になる、そうすれば水分補給の水と洗濯物を片付ける、今この道場には若手と前座のレスラーが大半だ、それでもそこそこの人数はいる為、洗濯物の量もバカにはならない。
それだけの人数が居れば1度や2度で終わらない為、洗濯機を回している間に干す作用を終わらせ、時間が空けば細々とした雑用を終わらせる、全ての洗濯物を終わらせた後の白シャツがずらっと並ぶ光景はなかなかに壮観である。
それが終わればようやく熊倉の自由時間である。
今の熊倉は大年寺の付き人兼弟子という関係性になっていた。
とはいっても大年寺が了承したわけではなく、熊倉自身が後ろについて歩いていた結果周りからそう認識になっていったというのが事実である、大年寺自身も弟子と呼んだこともないし、熊倉も師匠として名を呼んだこともない、後ろから観察して勝手に技を盗み、トレーニングを真似して鍛えているだけである。
雑用をこなす代わりに最低限の食と練習スペースを用意してもらえるようになった。
それもこれも全てUFWの社長である東海(あずみ)という男のお陰である。
2
大年寺に助けられたその日に熊倉は道場を訪ねた。
なけなしの金をかき集め菓子折りを持参して行った。しかし所詮は子供の小遣いで買った物、しかも熊倉はその日の食事に四苦八苦している貧乏人である、その菓子折りもそこら辺で買った安い駄菓子の詰め合わせであった。
その日の事は大人になった今でも鮮明に思い出せると熊倉は語っている。
まるでサウナの様に熱の籠った道場には幾人もの門下生がトレーニングを繰り返す、肉体から放たれる熱気を帯びた闘気は天から照り付ける太陽の熱をも凌駕していた。
リングには複数の男たちが互いに技をかけあっている、練習しているのは関節技である。片方が技をかけ、もう片方が動いて技を解きに行く、それが解ければまた関節を取り合が直ぐに技が掛かる。
よく見れば全ての門下生は滝の様に汗をかいている。
汗をぬぐった白いTシャツはリングの床に何度も擦りつけたのだろう、既にボロボロになっており生地が薄くなっていた。
熊倉にとっては初めて見る光景であった。
見学者は自分だけではなかった。
同年代であろう少年が数人、それとそれなりに大きな体格の男が2人腕を組んで立っていた。少年たちはどうやらプロレスのファンの様なものらしく雑誌の写真と見比べながら話をしているたしかった。
だが男達は違ってようだ、熊倉は今までの生活の中で人の感情に対してかなり敏感で絵あった。他人の感情を逆撫でしない為に、ひっそりとやり過ごす為に、他人の観察する力は人一倍鋭敏になっていた。
その熊倉の直感は男達の事を危険な存在だと警報を鳴らしていた。
「なんだい君たちは、入門かい」
よく通る声であった。
力強く、多くの人の耳に良く通り、集団を引っ張っていくのに優れた声であった。
周りと同じように首周りの生地が薄れたTシャツとプロレスパンツを着ている、首元にUWFのロゴが入ったタオルを掛けた男であった。
「……東海さんですよね」
「そうだが―」
タオルを掛けた男は東海というらしい。
数歩、東海が男たちの前に歩み寄ってくる。真っ直ぐに何の警戒もなく歩きだしたのである。
危ない。
熊倉はそう警告しようとするものの、なぜか歩みだす事が出来なかった。
「ほぉ……テメェいい身体をしてるじゃねぇか」
「ありがとうございます」
「体重は95前後ってとこか、身長からすればもう一声ってとこだな」
東海は舐め回すかのように隅々まで眺め、時折体を触り感触を確かめる、いくら実力を隠そうとしても鍛え上げられた肉体だけは隠せない、格闘技に精通した者、さらに言えば東海のような数多くの格闘家を見てきた者からすれば積んできた格闘技や、その経験値すら触れば分かる程である。
一通り観察がすんだのか、一呼吸置いてから言った。
「まぁそこら辺のチンピラ相手じゃ話にならねぇだろうよ」
東海が言う。
喉が潰れているのだろう、かすれた声であった。
「空手……あとは柔道ってところか?」
「だいたい当たってますよ」
少し驚いた表情をした後、ニヤリと笑った。
「そこにいる人は大年寺さんですよね」
嫌な予感がした。
「それがどうしたい」
「あの人とやらせてほしい」
まっすぐ大年寺を見据え宣言した。
周りの門下生は慣れたことの様に静観している、視線は大年寺に向いてはいるが男に対してはあまり興味はなさそうである、大年寺と東海の反応を観察しているように見えた。
東海は大年寺に目配せをしてから話し始めた。
「あ~まず大年寺はうちの稼ぎ頭になる男だ、だから残念だが、ハイどうぞってやらせてやるわけにゃいかないんだよ」
「ならここで大年寺さんの次に強い男は誰でしょうか」
すこしイラついたような声で男は言った。
「他のやつは巡業で出払っているんでな、うちに今残っているのメンバーならアイツ以外はどんぐりだが……」
「それで他には?」
東海は周りを見渡した。
他の門下生は薄っすらと微笑を浮かべ頷いた。
「やるのは……俺だなぁ」
東海は言った
男は完全にイラついていた。
それは完全に東海を格下に見ての事であった。
「おれを強い奴とやらせろ」
同じ言葉であったが先ほどとは完全に違う憤怒をにじませた言葉である。
「やめとけ他のやつとじゃ怪我をする」
「先ほど俺は悪くないと言っていただろう」
「素人の時点の話だ、ここの餓鬼達じゃ怪我させちまうかもしれねぇ」
余計な怪我は負いたくないだろ、半笑いでそう言い東海は大年寺と入れ替わる様にリングに上がる。
周りの門下生は先ほどとは打って変わって、好奇心に満ちた眼でリングを見ていた。
「台本がなけりゃ怪我しちまうって事かい?」
あからさまな煽りであった。
それなりに同じ様なセリフで煽られていたのであろうか、東海が指で首をこりこりと書き音を見つめる。
「ショートがご所望かい?」
「取り消すつもりはないさ」
「まぁ俺に勝てたら大年寺とやらせてやっても構わん」
「……へぇ」
男はバックの中から一枚の紙を取り出す、それを近くにいた門下生に投げつける。
「準備が良いじゃねぇか」
それは契約書であった。
『今日の試合において、如何なる怪我を負うことになろうとも、私は、責任について問わないことを誓う』
文章の下には、きっちりと名前と日付けが書いてあった。
日笠明二(ひかさ めいじ)
そこにはそう書いてあった。
東海は初めて聞く名前である、それなりに力のある者であれば耳に入ってくるだろうが日笠という名前には聞き覚えがない、契約書を受け取った門下生に目配せしても首を横に振るだけであった。
「まずルールを決めようか」
東海から提示されたルールは以下の通りだった。
1 フォール負けは無し
2 リングアウトは無し
3 ロールブレイクは無し
4 禁的や眼突きなどの急所攻撃は無し
5 勝利条件はノックアウト・リングアウト・ギブアップのみ
6 審判がこれ以上危険と判断した場合は強制終了
基本的なバーリトゥード形式にプロレスのルールを付け足したような内容であった。
「構わない、俺は元々どんなルールでもやるつもりだぜ」
日笠はリングに手をかけ言い放つ。
ひょいっとリングの上に上がると中央に立つ。
リングの上に立つ東海は顔を伏せていた。
恐らく日笠からは見えないだろうが、リング下にいる熊倉からは確かに見えていた。
それに気が付いた熊倉の全身に、ゾクっと震えが走る。
これから起こる闘いへの期待なのか、それとも別の震えか、それは今の熊倉には分からない。
身体の奥底で何か、黒い炎が猛り始めていた。
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