第9話 熊倉の過去


 今日も熊倉は歩く、特に目的もなくただ見慣れた街の中を歩き続ける。いつもの着古したボロボロの服を着ている、片手には先日借りた本が手提げ袋に入っている。

 本は読み始めて数ページで止まっている、美恵と話を合わせようと何度か挑戦してみたものの一ページかそこら読んだ程度で挫折している、今日もなんとか読んでみようと持ち歩いては見たものの一向に挑戦してみようとは思えない。熊倉は活字が苦手である、興味の無い本を読むこと程苦痛なものはない。

 朝から歩いているが何かにつけて別の場所で読もうと理由を付けて今に至る。

 やることがないからただ歩く、無意味に時間は過ぎ、朝から夕方へと変わっていた。普通の学生であれば部活や友達と遊んでいる事だろう、しかし熊倉にはそんなものはなかった。部活動には入ってもいなければ友人なんてものはいない、学校にも行っていないから時間ならそれこそ腐る程あるのだ、しかしそれを活かす術を持たない。なにか打ち込めるものがあればいいのだろうがそれを持たない熊倉にとってやる事と言えばそこら辺を歩いて時間を潰す程度だった。

 

「……はぁ」

 

思わずため息が出てくるがそれに気が付く者はいない。

 何せここは学校裏の山の中だ、熊倉はここが好きだった。

 何より人がいないのが嬉しい。

 ここまで前に走っていたのは犬の散歩をしている老人、新聞配達のバイク、部活帰りの学生、実に心地良い。

 山を越えるとその先は田園が広がっている。

 山を抜けたせいか空が高い。

蒼いペンキをぶちまけたような雲一つない晴れ空が目に飛び込んできた。

緑の絨毯が広がり、咽かえる程の自然の匂いが肺の中を満たしてくる。

障害物が無くなったせいかカエルの鳴き声とセミの鳴き声が混じりあって聞こえてくる、稲に付いた虫を狙った小鳥達が宙で弧を描いて飛んでいるのが見えた。


「おい‼」

背後から唐突に声がかけられた。

奇しくも聞き慣れた声。

もう二度と聞きたくないとさえ思う、聞いただけで足がすくみ上がる様な恐怖感が熊倉を襲った。

逃げ出したくなる気持ちを抑え、意を決して振り返った。

想像通り、そこに居たのは犬井とその取り巻きの二人であった。

喉からヒュッという音が零れ落ちる。


「熊倉ァ最近学校に来てないじゃんかよ。俺は寂しくて退屈だったぞ」


犬井とその取り巻きは学校指定のズボンと白いワイシャツを着ている。

シャツのボタンをいくつか外し、大きく胸を開けさせた場所から、鍛えられた体が露わにっている。薄っすらと生え始めた髭が実年齢よりも少しだけ老けて見せた。

片手にはさっきまで使っていたのであろう道着をぶら下げていた。


「何でここに居るんだっ……ですか」

 「そんなもん、さっきまで部活だったからに決まってんだろ。てかお前学校に来てねぇから忘れてっか」


 薄ら笑いを浮かべながら親し気に肩を組んでくる。

 いつものパターンだ。

 今までイジメられてきた記憶が濁流の様に押し寄せてきた。

 さらに続けて何かを言ってきているらしいが熊倉はただ俯き黙るしかなかった。

 

 「……はぁ」


 溜息の後、熊倉の腹部に衝撃が走った。

 犬井の膝蹴りが熊倉の腹に叩きこまれたのである。

 嗚咽と共に膝から崩れ落ちる、熊倉が黙っていることが犬井にとっては無視されたと感じたのだろう、それが犬井をイラつかせたのだと悟った。

犬井は人に暴力を振るうのに躊躇がない人間なのである、熊倉にはとても理解できないがそういう人間は実際に存在するのだ、しかも熊倉の大きな体が犬井の暴力によって地面に伏しっているのだからさぞ心地よいだろう。


「なんかイラついてきたわ」


 襟首を持ち上げ無理矢理体を引き起こさせる、そのまま抵抗もできない熊倉を思うがままに殴り始めた。

 体の芯にまで響きそうな衝撃が熊倉を襲う、痛みはやがて吐き気を帯びはじめ、胃の中のものが食道を通り地面に落ちた。


 「うげぇええええ」

 「なんだよ汚ねぇな」

 

 吐瀉物を避けた犬井が不満げに熊倉を見下ろす。

 悔しさに唇をかみしめた。

 取り巻きの一人から拳が叩き込まれた。鼻の奥から生臭いもので満たされる。ドロッとした生温かい駅が、鼻から口に流れ込んだ。しょっぱい。鼻血であった。

 コツンと膝をついた時に何か手に当たる感触がした。木の棒であった。木の棒を握り犬井に一矢報いようとする。

 声が聞こえたのは、その時である。


 「おいおいこんな所で寄ってたかってイジメてんなよ。ケンカなら正々堂々とタイマンでやらねぇとな」


 ビクッと体を飛び上がらせて、取り巻きの1人が顔をあげた。それにつられるように驚きと戸惑いの入り混じった表情を浮かべ、もう一人が声の主を睨みつけた。

 それは巨漢の男であった。

 180㎝は超えているであろう。

 素人が見ただけでも鍛えこまれているのが分かる程の肉体、その内から放たれる威圧感がヒシヒシと伝わってくる。

 まずその男の首がなかった。人よりも広い肩幅に丸い頭が乗っかっている、いや……首が無いわけではなく首と肩の筋肉が岩の様に盛り上がっていて首が見えていないだけである、損な肉体をしていながらも仏の如き柔らかな笑顔が乗っかっていた。

 

 「なっ何なんだよお前」

 「お節介焼のオジサンだよ。ただ事じゃない様子だったし少し仲裁に来ただけって。おいおいそこの坊主は鼻血だしてんじゃねぇか」


 体格のわりに軽やかな動きで犬井たちの間に割って入る、いや割って入るというよりも男の動きに合わせて犬井達が避けたと言った方が良いだろう。


 「大丈夫か坊主、ハンカチかタオルは持ってんのかい?」

 「いえ、でもシャツで拭けばいいんで問題ないです」


 それを聞くと男は首に掛けていたタオルで熊倉の血を拭った。


 「てめぇいい加減すっこんでろや!」


 犬井が男を威圧する。

 堂に入った恫喝に自分に向けられた訳でもないのに熊倉は身を震わせた。

 だが男はどこ吹く風と言わんばかりに熊倉を見つめていた。

 

 「君の名前は?


 男は熊倉に話しかけた。


 「くまくら……熊倉良三といいます」

 「そうか、俺の名前は大年寺信也(だいねんじしんや)プロレスラーさ‼」 

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