第8話 熊倉の過去
1
犬井を怒らせてから2か月間。
熊倉は虐められることはなかった。
これは犬井が虐めをやめた訳ではなく、熊倉が学校に行かなくなっただけであった。いわゆる不登校というヤツである、あれから学校の教師が何度か家に訪問してきたがここ一週間ほど見かけていない、きっと諦めたのだろう。前からいじめを知っていて見逃していた教師だ。
時間があるからと言って何かをやるという気も起きない、ただ夜も朝もなく街の中を放浪しているだけであった。朝は図書館や公民館に、夜は公園などで適当に時間を潰すのを続けていた。わざと人通りの多い場所は避けて歩いていたからか、見回りや警察に補導されると言う事もなかった。
これが特別寂しいだとかは思うことは無かった。初めから一人だったから、学校に友達と呼べる人もいなかった。
別に話が合わないだとか流行りのものを知らないだとかそんな訳ではなかった。むしろ熊倉はそういった話題にはかなり敏感であった。
無職の父親はパチンコなどのギャンブルに出掛けていて殆ど家に居なかった。
母親が帰ってくるのは深夜2時を回ってからであった。
だから学校から帰ればテレビやラジオなどは使いたい放題であった。
クラスの女の子の話すアイドルの事は知っている。
クラスの男子が話すアニメの事を知っている。
最近話題の漫画なら一話目から読んでいる。
何度かクラスメイトとそれを話そうと思って話しかけてみた。
しかし熊倉が話しかけると大抵その場は白けてしまう、熊倉はその時のクラスメイトが自分を見る目がトラウマになっていた。奇妙な生物を見る目であった。何を話しかけていいのだろうか、彼はどうして大して仲の良い訳ではない私達に話しかけたのだろうか、どう対応したらいいのか、そういった奇妙な生物を見るような目であった。
熊倉は会話が苦手だった。
自分は何が好きなのか。
その作品のどこが好きなのか。
貴方はどういった所が好きなのか。
そういう会話の引き出しが熊倉にはなかった、
圧倒的に他人とのコミュニケーション能力が足りていなかったのだ、だから何処からどの話に繋げればいいのか分からない、事前に頭の中で組み立てた会話から少し逸れると直ぐにボロを出して頭がフリーズしてしまうのだ。
それを理解してからというものの、自分でも会話をしない方が楽であった。
だから今の状況は熊倉にとっては幸せなのかもしれないとさえ思っていた。
金がない熊倉はなるべく金を使わないように放浪し続けた。
水は公民館や図書館の水飲み器で賄っていた。よく洗浄したペットボトルを2・3本用意してそれに貯めておく、それをカバンの中に入れて夜の間はそれを飲む、公園の水を飲んでいいかもしれないが、なんとなくこっちの方が清潔の様な気がしたのだ、あまり清潔な生活をしていると言えない熊倉だがそこら辺は気になった。きっと手の届く場所だからだろうと考えた。
これが不登校児『熊倉良三』の姿であった。
2
熊倉は夜の道を歩いていた。
朝に汲んでおいた水を飲み干して腹の虫を誤魔化すのも限界を感じる、普段は人気のない場所を歩くのが当たり前であったが、この時間だけは特別であった。
「そろそろ時間かな……」
ある程度の時間になると熊倉は決まって一通りの多い繁華街にまで足を延ばしていた。
食料を漁る為である、繁華街には飲食店が多くそこで廃棄になった食品などを狙って食費を補っていた。勿論その周辺で暮らすホームレスなども狙っている為、毎日という訳にもいかないが結構な確率で食事にありつけた。
繁華街は熊倉にとっては夢のような場所であった。
目が痛くなるほどに煌びやかなネオン。
所狭しと行き交う人間。
どこからともなく香ってくる香水の匂い。
熊倉にとってはそのどれもが夢のような光景であった。
決して手の届くことのない自分とはかけ離れた世界を路地裏から見つめていた。道行く人々は当たり前のようにそこを歩くが、熊倉にとってはそうではない。
裏路地は煙草の匂い。
酒の匂い。
下水道の匂い。
ビニール袋から漏れる生ごみの匂い。
立ちションでもしたのか排泄物の匂い。
そんな匂いが充満していた。
まさに光と影の関係なのだろう、表通りから差し込むネオンの光が薄暗い裏路地をほのかに照らす、この光が一般人と自分の境界線のように思えた。
そんな光景の中熊倉の手には弁当の入ったカバンが握られていた。
勿論これは既に賞味期限が切れていて廃棄されたものである、一つはこれから食べる為のものもう一つは明日の朝食べるものだ。
熊倉の中では惣菜を廃棄しやすい店、フルーツを廃棄しやすい店、酒を廃棄しやすい店などある程度の知識が頭の中に入っていた。
酒は日本酒やウィスキーなど同じ酒ならぐちゃまぜにしてペットボトルに入れていた。これを飲ませてば気の立った父親も多少大人しくなる、寄っている人間には酒も食べ物の味は分かりはしない、特に父親の様な腹を満たせて酔えればいい人間にとっては味なんてどうでもいいのだ。
裏路地をでる。
しばらく歩いて後ろを振り返った。
すれ違う人間は熊倉の事を見ていた。前から歩いてくる通行人は必ず熊倉の事を避けて歩くのだ、猫のように背を丸くしてトボトボと歩きながら出来るだけ威張って道を歩いていた。
それもそうだろう、ここは繁華街であり子供が夜間に歩くような場所ではない。スニーカーには土が付き、土はズボンの裾にも跳ねていて半分程度乾いていた。正しくみすぼらしいという他にない風貌であった。
明らかにまともな教育を受けていないというのが見て取れた。
それを不自然に思う者もいる、決して関わりたくはないとわざと気が付かない体を装い通り過ぎてゆく。
それを悪いとは思わない、もし自分がその立場ならそうしていたのかもしれないし自分に恩を売る必要性もない事を長い経験から理解していた。
きっと自分は生まれつき奪われる側なのだろうと熊倉は思った。
3
今思えばあの出会いは必然だったのだろう。
人の人生には幾つかの転機があるという。それが他人との出会いであったり、学校の進学であったり、部活動だったりと、今までの人生を変える出会いもあるだろう。それは熊倉にとっても同じことである。
それは夏休み数日前の話である。
その日は珍しく熊倉は学校に居た。
不登校児とはいっても本当に学校に通えないわけではない、熊倉は学校に夏休みの間の課題を受け取りに来た。普通なら家に生徒なり教師なりが届けに来るのだろうが熊倉が学校に受け取りに行くことになった。恐らく熊倉の現状を確認したかったのだろう、特に教師は何も言わなかったのは熊倉の家庭事情を知っているからだろう、触らぬ神に祟りなしなのだから教師も面倒毎は避けたいのも分かる。
図書室で時間を潰し数冊の本を借りた。
普通なら3冊迄だが夏休みと言う事もあり6冊まで借りる事が出来た。
別に本が読みたいわけではない、むしろ活字が並んでいるのを見ると眠たくなるタイプだ、暖房の効いた部屋で10分程度たてばもうぐっすりと眠ってしまうだろう。
「こういう小説が好きなの?」
「別に好きって訳じゃない、ただ読書感想文のリストにはいってたから……あと時間ならいくらでもあるし時間つぶしだよ」
ふーんと口を小さく尖らせる少女がいた。
同級生の牧野美恵(まきのみえ)であった。
茶色味が強い髪の毛と眠たそうな目付きが特徴的な少女である。
美恵は図書委員であり読書が趣味であり、熊倉は彼女が目的で本を借りに来たのである、つまり熊倉は美恵に恋をしていた。
彼女と会話したのは数度程度だった。
熊倉からすれば特別な少女であったが、美恵からすればあまり学校に来ない良く分からない同級生程度の認識だが彼女は優しかった。
何時も眠たげな眼をしているが本を読んでいる時の真剣な目。
周りの女子生徒よりも少し高い身長。
ふわっとウェーブのかかった髪の毛。
周りよりも発育の良い体。
厚ぼったい真っ赤な唇。
それが周りの同級生と比べて浮いている印象を与えた。
美人というよりも愛嬌がある、犬とか猫のような愛らしさを感じさせた。
当然、他の男子にも人気はあり熊倉とは別の世界の住人に見えた。
なにより美恵は熊倉に優しく接してくれた。
特別扱いという訳ではない、美恵は誰にも優しいのだった。同級生の一人、飽くまで多くの人間の中の一人として平等に接してくれるのが何よりも嬉しかったのだ、熊倉は会話をするのが苦手だったが美恵は言葉に詰まる熊倉の言葉を優しげな眼で待ってくれた。美恵との会話は苦ではなかった。
熊倉も付き合えるとは思っていない。
それでも少し会話しただけで鼓動が早くなり、学校に居た時には自然と彼女の事を視線で追ってしまう、そこで眼が合えば顔が紅くなり、少しの罪悪感を覚えていた。
「美恵さんは夏休みに来るの?」
「先生が代わりに来るから私は来ないよ」
少しショックだった。
熊倉の学校では、夏休みの間に2週間に一度だけ図書館が解放される、その時にまた会えることを期待していたのだが、その期待はあえなく打ち砕かれることとなった。
「そっ……そうなんだ」
「うんっごめんね」
「別にいいよ借りても夏休み中に読み切れるとも思わないし、多分来ないから」
熊倉の気持ちを知ってか知らずか、美恵は謝罪する。
むしろ此方が申し訳ない気持ちになってくる。
小走りで出口に向かう。
外は既に陽が沈みかけていた。
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