第7話 熊倉の出会い 1


 時間は既に夕方であった。

 既に景色は赤みがかっており、そこはかとない寂しさを感じさせた。

 山を10分程登り、ほとんど舗装されていない道を進んでゆく。雑草の生えた小道にはよく見ると雑草だけではなく、漢方や昔治療などに使われていた薬草などもちらほらみられる、恐らくここに住む者の趣味なのか、それともただ適当に生えているのか、どちらにせよここのどこか怪しげな雰囲気に合っていた。

道を進んでゆくとそこには実に簡素な村があった。いや、村というか廃村といった方が良いだろう、昔話に出てくるような木造の平屋が複数見られるが、その殆どはボロボロに劣化していて人が住めるような状態ではない。

 しかしその中には三つほどそこそこ良い状態の建物が見つかった。

 一つ目は道場の様な建物。

 二つ目は物置小屋。

 三つ目は古民家といった所か。

古民家の入り口には樫木が立てかけられておりそこには文字が書かれていた。

『柳流拳闘術 八雲鈴仙』

 聞きなれない名であった。

 太陽の日差しが墨で樫の木に書かれた文字を照らしていた。

 決して達筆と言えるものではないが荒々しく力に溢れた文字である。

 屋敷の中は思った以上に綺麗にされていた。

 まずは印象としてはそこまで狭いという印象はなく、むしろ広いという感じだった。

 柿の木で作られた囲炉裏は使い込まれているものの、決して汚れている訳でもなく、むしろ年季の入っていて味のある高級そうな雰囲気を醸し出している。鉄瓶などはなく、ただ僅かに形を保っていた消し炭が残っており昨日の夜までは使用されていたことを察する事が出来た。

 囲炉裏の前にはステンレス製のコップが置かれており、向かいには湯呑と数枚の皿が置かれていた。皿の上にはまだ湯気が立っている料理が盛られており、それをかなりのペースで熊倉が口に運ぶ。一口惣菜を食べる毎に茶碗のご飯が3割程度消えてゆく、体の中に掃除機でも仕込んでいるのかと心の中でツッコミを入れた。

 子気味の良いリズムで包丁の音が鳴る、音の主は宗一であった。やけに手馴れた様子で料理を作る姿は一切の淀みがなく流れるように複数の作業をこなしてゆく、鍋にはスープが、フライパンには肉が多めの野菜炒め、オーブンには焼き魚が入っていた。

 ふたりで食べるには明らかに多い量であるが成長期の男性と大柄のプロレスラーが食事をするのであれば多いと言う事はないだろう。実際熊倉の皿は既に空になり米を炊いていた土鍋は既に半分以上腹の中に納まっている。追加で炊いている米も足りるだろうかと宗一は不安になっていた。


 「宗一君も食べないのかい」

 「作りながら食べてるんで大丈夫ですよ」


 そもそも宗一と熊倉が同じ飯を食べるまでに至るのは今から2時間ほど前まで遡る。

 学園から帰る時の話であった。

 闘いが終わってからというもの適当に歩いて帰るつもりであったが、そのまま帰るのもなんとなくもったいない気がする為どこかで食べることになった。しかし宗一と熊倉の食欲を考えるとそれなりに金がかかる、それなら食材を買ってから自分の家で食べないかと提案したのである。

 熊倉自身も特に断る理由もなかったためその提案を受け入れた。なにせ熊倉はプロレスラーであるが食費という問題は常に付きまとっている、与えられる給料の大半は食費と格闘技の資料に回されている万年金欠の熊倉からすれば断る理由など在りはしなかった。

 宗一と熊倉が話すのは大半が格闘技に関しての話題であった。別にそれ以外の事を話せないわけではないが自然と出てくるのはその話題であった。二人共寝る時も飯を食う時も考えるのは自分がいかにして強くなれるのかどうかと言う事である、そういう風にしか生きられないのだ、生まれた時から。

 

「そういえば熊倉さんはどうしてプロレスラーになったんですか?」

「……俺がプロレスに出会ったのは中学の時だった」

 



 生まれつき熊倉はかなりの巨体であった。

 他の男子と比べればそれは顕著であり、常に背の順番では最後尾であった。

本来は体格の良い人間がいるだけで威圧感という物を放つのだが熊倉の場合は違った。元々彼は賑やかな場所よりも静謐を好む性格である、同級生からも教室の隅で読書を好む、居てもいなくても大して気が付かない程度の認識でしかなかった。

そんな彼の生活が一変したのは一人の少年の一言であった。


「熊倉ァお前調子に乗ってるよな」


同級生の中でも熊倉に次ぐ大きな体を持った男の子であった。

名を犬井といった。

同級生の中でもいわゆるボス階級の人間であり、熊倉の人生の中で決して交わることのない人種であった。しかしその犬井から目をつけられたのは正しく人生の転機と言える出来事であっただろう。

気に喰わなかった。

犬井よりも熊倉の体格が優れている事が気に喰わないという理由で目をつけられたのである、犬井自身も最初からイジメる気はなかったのだが、4年生5年生と学年が上がる毎に二人の身長差が縮まり、犬井自身が熊倉を怖がらなくなったことが大きいだろう。なにより熊倉が大人しく暴力を嫌っている事に気が付いたからである。

始めは言葉だけのイジメであった。容姿や体格から始まり、果てには家族の悪口にまで派生していた。当の本人たちは大して悪気のないこと、ただの軽い弄りの範疇でしかないと思っていたのだろうが熊倉自身の感情は違った。

この時初めてナイフは人を殺せるのだと知った。

ナイフを刺す側は刺される側の感情など知った事ではない、しかし刺される側はそんな事は無い、本物のナイフを刺されればいずれ傷は癒えるだろうが心の傷はそうではない、深く心の中に残りいつまでも熊倉を傷付けるのだ。

なぜ自分はここまでされなければならないのか。

なぜこんなに苦しい思いをしているのか。

自分はこんな思いをしているのにこいつらは笑っているのだろう。

そう思っても熊倉は抵抗できなかった。というよりも抵抗の仕方を知らなかったという方が正しいだろう。なぜ自分がこんなことをされているのか分からないというのにそれをどう対応すればいいのか分からないし、誰も教えてくれる人はいなかった。それも仕方ない、なぜなら彼はこの時小学生であり何も知らない無知な少年なのだから。

そしてイジメは中学生まで続いた。

はじめはクラスの中の少数から始まったイジメは学年の中ではもはや常識という認識になり当然エスカレートしていた。



 それは何時もと同じようにクラス名とにいじめられていた時の事だった。

 

 「お前ら押さえてろよ」

 「分かりました‼」


 中学生になると部活動が始まる。

 当然熊倉も犬井も何らかの部活に入ることになるのだが、そこで彼は柔道部を選んだのだ。別に柔道をやることは決して悪いことではない、だが最悪だったのはいじめっ子の彼には暴力癖があった事だろう。

当然と言えばそうなのだろうがその矛先は熊倉へと向かった。


「やめてよ‼痛いっ‼」

「痛いってことはうまくかかってんだな」


教科書を片手に熊倉の腕を締め上げる、ミシミシと筋肉が悲鳴を上げるのが聞こえる。一定の場所まで締め上げるとビンッという何か糸を張ったかのような感触がする。それは腕の腱である。このままさらに追い込めばバツンッと音を立てて切れてしまうだろう、腱が切れるというのは痛いなんてものではない、痛みと恐怖に悲鳴がすぐそこまで競り上がってきている。

 それを犬井とその取り巻きの二人が笑ってい見ていた。こうすればもっと痛がるぞ。次はあの技を掛けよう。俺が別の技を掛けてみたい。笑いながらそんなことを言っていた。

次第に目の端に涙が溜まる、涙が重力に従って地面に零れ落ちる。これが痛みによる涙なのか、それとも惨めさによるものなのか、恐らく両方なのだろう、それが分かっているからこそ涙が流れる。

 

 「別の技掛けんぞ」

 「うっす」


 突然パっと熊倉の腕が自由になる、一瞬の解放感に自分ですら驚くほどに素早く動くことができた。犬井が話した腕を引っこ抜き、すぐさま体を起こして走り出した。どこまでも情けなく、余りにも無様な姿である、もはや自分の今の姿を取り繕う暇も無くただ熊倉は走り出した。

 逃げ出そうとした熊倉を犬井が止めようとする、迫る腕に反応した熊倉が腕を突き出し犬井を押しのける、ドンっと突き飛ばした感触がした。

やばい。

こんなことをしたら今逃げ切れたとしても明日には確実に報復されるに決まっている、いつも通り殴る蹴るならばすぐに分かる場所を狙われることがないからまだ耐えられる、だが今日やられた様なことをされたら、そんなことを一瞬考えたが今は痛みから逃げることを優先した。

「熊倉ァ‼」

 

 犬井が叫ぶ。

 その時には既に取り巻きの一人の脇を抜けつつある、これで今日の所はこれで逃げられる。そう思った瞬間、熊倉の体は宙に舞った。自分の体の重みが消え、浮遊感を覚えたと同時に、地面に体を叩きつけられ背中に衝撃が襲った。

何が起こったのか、背中からの衝撃でうまく呼吸が出来ずに嘔吐く。

 ジロッと取り巻きの出来が悪い顔が熊倉をのぞき込んでいた。

 ここで初めて足を引っかけられて転がされたのだと理解した。

追い付いた犬井が熊倉の胸ぐらを掴み無理やり引き起こした。


「ひっ⁉」


短い悲鳴である、腹の底から絞り出したかのような悲鳴であった。

その瞬間、衝撃と共に熊倉の頬に何か熱いものが湧き上がってきた。

―殴られた。


「舐めたマネしやがってよ‼」

 

犬井は完全に逆上していた。

倒れた熊倉の腹に向かって立て続けに蹴りが打ち込まれた。思わず苦痛に顔が歪んだ。

しかし蹴りを躱すことも出来ず、ただ苦しそうに腹を抱えてもだえる事しかできなかった。犬井の強い怒りの感情が熊倉に強くぶつけられ僅かに残っていた反抗心を萎えさせたのである。

ごしゃっと鼻に蹴りが打ち込まれると奥底から生臭い臭いとぬるりとした生温かい感触が滑り落ちて聞いた。鼻血だ。

何か罵倒のようなことを言っているのは聞こえた。しかしそれを理解するだけの余裕は熊倉には残っていなかった。

ぜぇぜぇと息切れの様な声が聞こえた。きっと殴り疲れたのだろう。

熊倉が暴力の嵐から解放されたのはこれから10分後の事である。

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