第4話 熊倉と天川


 天川はゆっくりとしたペースで歩いていた。

 少し酔っているな、心地の良い浮遊感と共に天川はそう感じた。

 新星と共に先ほどまで居酒屋で飲んでいた、本来であれば報告した後に数杯飲んで帰るつもりである、それがいつの間にかあれよあれよという間に新星の話に乗せられて酒を何杯も飲まされてしまった。

 少し足元にふらつきを覚える、こんなことは久しぶりの事であった。

 時間は夜の10時であった。

夜風に吹かれ髪を靡かせながら月夜を見上げていた。

月が頂点まで登っていた。

それ程強い風ではないが、風に吹かれた草木がザワザワと音を立てて存在を主張している、それが天川の耳を楽しませる。

ここから天川の泊っているホテルまでは20分程度かかる。

 程よく歩くことのできる良い距離である、酒を飲んですぐに寝るよりもある程度歩く方が天川は好きであった。

 大きな公園の桜並木を眺めながら歩く、この先の分かれ道を右側に行くとそれなりに有名な神社がある、以前行った時には祭りをやっていて人で溢れていたのを覚えている。

 観光バスで来た老人の観光団体、参拝に来た学生、カメラを首から下げた外国人観光客の姿が見えた。

 決して冷たくもなく午後の陽光が優しく肌を温めてくれていた。

 風が爽やかであった。

 風が届いてくるまでに集まってきた匂いが鼻腔をくすぐった。

 出店で食べ物販売している、たこ焼き、ベビーカステラ、唐揚げ、大判焼き、それだけではないがこの場にいるだけで腹が減りそうであった。

 当然だが今はそんな匂いも人だかりもない。

 今は天川以外の人間は見当たらない、これが昼や朝ならば散歩をしている人がいるのだろうが今は夜である、夜の暗闇が静けさと寂しさでこの空間を包み隠しているのだろう、しかし天川は薄っすらと笑みを浮かべていた。

 「はぁそろそろ始めましょうか」

 ボトンッと持っていたカバンを落とし、黒いジャケットを放りパチパチとYシャツのボタンを幾つか外す。

 胸元が大きく開き鍛えられた胸が見える、腹も引き締まっている、袖をまくり見える腕も逞しい。

 天川が振り返る。

 ふいに桜の木の後ろから何者かが現れた。

 偶々そこにいたのではない、明らかに天川が来るのを分かっていたうえで待ち伏せしていたのである。

 男は顔を伏せたままゆっくりと天川の前に立った。

 男はフードを被っている。

 人相や表情は影となっていて分からない。

 「―お前が天川加月だな」

 男はそういった。

 その男は黒いコートに身を包んでいた。

 脚にはスニーカーを履いている。

 実に鍛えられた肉体を持つ男であった。

 しかもただの肉体ではない、激しい鍛錬の果てに実戦経験をしっかりと積んだ者の肉体である、天川にはコートの上からでもそれが分かる、内に野生を飼う者のみが放つ圧というものが男の内から放たれていた。

 男の黒い服装は暗闇の中で身を隠すための一種の偽装であるのだろう。

 「だとすれば何だというのですか」

 天川はゾッとするような低い声でそう言った。

 その声の本質は嬉々として男との戦いを肯定するものである。

既に天川は身を軽くしてすぐに動けるようになっていた。

「俺と立ち会ってもらおうか」



男は腰を軽く落とし、足を肩幅開き、膝を少し曲げた。

蹴りか。

拳でくるか。

いやもう止めよう、考えは始めればキリがないのだから、いずれにしろどんな攻撃が来るならばそれに対応するまででしかない。

 ジャリッと互いにすり足で一歩進む。

 互いに二歩程度歩けば拳が届く距離である。

 「こないのですか」

 「そう迂闊に突っ込める相手ではないのは分かっているんでな」

男はそう言った。

スッと男は頭部を守る様に腕を上げる。

必然的に腹部や足はがら空きになっている、これでは蹴りも拳も打ち放題だ、それを承知でガードを上げているのだろう、つまり頭部さえやられなければ倒れる事は無いという自信の表れなのである、確かに服の上から見ても男の肉体は見惚れる程美しく仕上がっているのは見てとれる。

……投げか。

天川は静かに戦略を考えた。

「こないのであれば私から参りましょうか」

 駆けだした。

 言葉を吐いた瞬間には既に歩みだしていた。

 天川の内に秘めていた『何か』が爆発するように弾けだした。

 グオンッ‼

 男の拳が天川に向かって伸びてきた。

しかし拳は当たることなく空を切った。

天川の体が、地に沈んでいた。

拳を潜り抜け、跳ね上がる様に男の顎に、拳を叩きこむ。

確かな手応えはある。

当たったのか。

否、当たってはない。

男は残った腕で天川の拳をブロックした。

「ぐっ⁉」

 ガシッと万力の如き力が天川の体を拘束した。

 男は拳を腕で受け、そのまま前に出てきたのである、拳を受け切る肉体と天川の領域に踏み込み切れるその精神力が男にはあった。

 ミシリッと骨の軋むような音が体から聞こえてくる。

 後ろに下がろうとしてもピクリとも動かない、脚を動かそうとしても掴まれて動かない。

 不味い、このまま倒れればやられる。

ゴリュ‼

 鈍い音が聞こえる。

「ぐっお⁉」

男の口から嗚咽声が漏れる、それと同時に困惑の表情が覗いた。

寸勁か⁉

いや寸勁を使うには天川の体制は崩れすぎている、寸勁とは本来の意味では技ではなく技術である、距離による発勁の一種であり、どの門派であっても共通していることは至近距離から相手に勁を作用させる技術であると言う事だ、身体動作を小さくし、わずかな動作で高い威力を出す技法全般を指す、今回は恐らく蟷螂拳などに使われる分頸と呼ばれる技術であると男は予測した。

 「あんた柔道家だろ?中国拳法なんて使っていいのかよ」

「今時、一つの技に拘るものはいませんよ、上を目指すのであればね」

分頸を打ち込んだ後に直ぐに離れた天川は再び構えを取り直した。

 男も天川も息が乱れていた。

 男は再び拳を頭部に持って行き構えを取る、表情から笑みが消える、それはフードの下からでも分かった。

 深呼吸を一つ、二つ、三つ吸ったその時に男は天川に向かい駆けだした。

 男の蹴りが天川の頭部を襲う。

 腰の入った高速の蹴りであった。

 ドスンと骨の髄にまで響くような衝撃が腕に走る、一瞬でも気を抜けばガードとして受けた腕ごと吹き飛ばされてしまいそうになる、持っていかれないためにその場で踏ん張る天川、しかしそれを見逃してもらえるほど男は甘くはなかった。

 左拳を天川の顔面に叩き込みに行く。

 いやこれは顔面というよりも、もっとピンポイントな所を狙っているのだろう。

 そうか人中か‼

 男の握りこぶしはあまり見ないものである、恐らく空手の技で『中高一本拳』と呼ばれる技であろう、いわゆる一本拳と呼ばれるものは、人差し指の中節骨を高く突き立てるようにし親指を添えて握り込み、急所を殴打する技だが中高一本拳というのは人差し指ではなく中指で行う技である。

 人間の急所である人中とは鼻から上唇まで垂直に伸びている溝のような場所である、そこを突かれると人は悶絶する、しかし闘いの中で狙われることは少ない、ほぼないと言っても過言ではないだろう、なぜなら人中とは眼潰しと同様狙える的が極端に小さいのである、少し頭部を逸らしてしまえば途端に的が消え去り打撃としての効果が激減してしまうのだ、それ故に実戦で使うものは少ない。

 そんな技を男が使ってきたのである。

 何の意図があるのだろうか。

 天川の心の中に少しの靄が陰りだす。

 当たるわけにもいかず天川が頭部を少し逸らし突きを回避する、薄皮一枚分の距離で躱した為かゾリッと指が肌を裂き血が噴き出す。

 その瞬間、天川の手元が瞬いた。

 天川と男が交差する。

 男が前方に吹っ飛び目の前の桜の樹にぶつかった。

 滴る血を拭い、スーツの汚れを手で払った。


 3


 「奇妙、ですね」

 男の攻撃が単純であったから助かった。

 タイミングは良い、スピードも、それを支える体格も実に素晴らしいものである、しかしそれを使う男自体が余りにも戦術として稚拙であった。

 男と天川が離れた時、男はハイキックを使ってきた。

本来ハイキックというのは初手に使うことはあまりない、なぜならハイキックは強力であるものの片脚になり攻撃も掴みやすい隙の多い技である以上初手に打つことは技量が大きく離れていなければ打つことは無いだろう、普通ならばジャブやキックなどのフェイントを織り交ぜて使うのである。

急所とはいえ人中を打つなどいくら空手家と言っても中々やれることではない。

結論を言えば男は実践経験の無い素人問う表現が正しいだろう、類い稀なる才能を持ち技を使う訓練だけを積んだ素人である、スパーリングなどはやっているのだろうがそれも試合というだけで野試合などのリアルを突き詰めた闘いは経験がないと見える。

「恐らくレスラーか総合といった所ですかね」

天川が男の素性を推察している時、ガリっという何かを引っ搔く音がした。

先程気絶したと思っていた男がムクリと動き出したのである。

起き上がろうとしている。

「成程、私は今少し感動しています」

天川は口角を上げて賞賛を送った。

特に他意はない、素直に思った感情を口に出していた。

「顎っすか……カウンターで気持ちの良い位に綺麗に入ってきましたね」

「そうですね」

先程の闘いで殴られた顎を摩りながら男は起き上がってきた。

足元自体はフラついているものの、男は真っ直ぐに天川に向かって歩いている。

「まだやりますか」

 「いえ、今回は私が完敗です」

 男は深々と頭を下げて自らの敗北を認めた。

 「天川加月という男を思う存分堪能させていただきました。

 若輩者の自分には随分勉強になります、やっぱりリアルは厄介っすね、自分の技術が通用しないんすもん」

 戦いを挑んできた時とは打って変わり、天川には気持ちの良い好青年の様に見えた。

 顎を殴ったというのに既に男は回復し始めているようである、驚異の回復力であった。

 「申し訳ありません、自分はUWFの熊倉(くまくら)亮(りょう)三(ぞう)と申します」

 「UWFですか、なるほどそれで私に勝負を挑んできたと言う事ですか」

 「はい社長が潰してこいと……」

 「なるほど……」

 正直すぎて思わず笑みがこぼれてしまう、臆することもなく天川を真っ直ぐ見る瞳、体の中心に一本の芯を宿した肉体、実に天川の好みの男であった。

 「それと天川さんと新星さんに社長から事伝を預かっております」

 「私だけではなく神星さんに?」

 天川と熊倉の出会い。

 これが格闘技界における一大戦争における切っ掛けの一つとなることはまだ彼らは知らなかった。

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