ふわふわと花を踏んで歩いてゆく。幾らも行かないうちに、前方に物影が見えてきた。だんだん輪郭がはっきりしてくる。奥にこんもりと森を従えた、一軒の家だった。

 絵本に出てきそうな、赤い切妻屋根と赤煉瓦の煙突、白い漆喰の壁。水色の鎧戸はひらいているが、窓の中はレースのカーテンに遮られて見えない。腰の高さまで生い茂った生垣が、深緑色に塗られた玄関扉へと続いている。

 夢だと思う気持ちを五感の現実味で疑いつつも、きっとこれは夢だからと自分に言い聞かせて、扉をノックした。

「はーい!」

 中から聞こえてきたのは、少年とも少女ともつかない幼い声だった。すぐに扉がひらく。

「え?」

 扉の向こうには、誰もいなかった。

「もう、どこ見てるの!」

 すぐ近くで、再び声がする。からだをこわばらせたわたしの目と鼻の先に、白くてまるいものが飛び出してきた。――否、跳び上がってきた。

 宙に三秒ほども留まっていたと、まじまじと見つめあう。何も言えないでいるうちに、は途中で重力を思い出しでもしたように、すとんと着地した。

 まんまるい、羊のぬいぐるみだった。

「ぬいぐるみ……」

「ぬいぐるみじゃないよ!」

 どう見てもぬいぐるみのは表情もわかりづらいが、機嫌を損ねたらしかった。

「ぼくは『   』だよ」

 その名前を聞いた瞬間、あれ、と思う。けれど、池に小石を投げこんだような違和感は、すぐに沈んで見えなくなる。

「そう、えっと、『   』、こんにちは」

「うん、こんにちは」

 『   』は笑ったようだった。

「さあ、入って入って。外は寒いでしょ」

「え」

 目が覚めたときから半袖のドレスに裸足という恰好で、そのまま苦もなく歩いてきた。花はほんのり湿っていたが、暑さも寒さも感じない。だが『   』はぴょんぴょん跳んで家の中に入っていってしまって、わたしは慌ててその背中を追いかけた。

 ひと間しかない家なのか、台所らしき一角も、テーブルもソファも揺り椅子もベッドも戸棚も、肩を寄せあうようにひと部屋に詰めこまれている。家自体の外観もそうだが、室内も、調度品がどれも小ぢんまりとしていて、何だかドールハウスのようだ。人間の家よりもふた回りは小さいだろうか。もっとも、わたしの頭くらいの大きさしかない『   』にとっては、それでも大きすぎるような気もする。

「このソファに座って」

 促されるまま、おそるおそる腰を下ろす。壊してしまったらどうしようとはらはらしたが、きちんと受け止めてくれた。もてあまし気味の足を、なるべくじゃまにならないようにからだに寄せる。

 『   』は短い手足でどうしたものか、たんすから大きな毛布をひっぱり出してきた。畳んだまま頭にのせてそばに来ると、わたしの頭上まで勢いよく跳び上がって、ふわりと毛布を広げる。肩の上からわたしのからだに毛布を巻きつけて、ちいさな手で端と端をぎゅっと握ったまま、膝に降り立った。

「寒かったね」

 まんまるの黒い瞳には、はっきりといたわりが見てとれた。

「そんなこと……」

 ないよ、と言おうとしたのに、わたしのからだを包みこむ毛布はやわらかに温かくて、なぜだかずっと凍えていたような気がした。

 数秒間、『   』はそうしてわたしのおなかのあたりに頭を寄せていた。それから、体重を感じさせない動きで床に降り、またぴょんぴょん跳んで台所のほうへ向かう。

「今、温かい飲みものと食べものを出すから、ちょっと待ってて」

 上下に弾んで仕度してくれる『   』をうしろから見守っていたが、どんな動作をしているのか、どうにもわからなかった。それでもほどなくして、『   』は頭にお盆をのせて戻ってきた。上には、ほかほかと湯気ゆげを立てるマグカップと、バターと蜜が金色にとろけているパンケーキののった皿が並んでいた。

「はい、どうぞ」

 ソファのわきのテーブルに、お盆を置いてくれる。わたしは、いただきます、と手を合わせて、白い陶器のマグカップを手に取った。

 赤味がかった澄んだ褐色の液体から、ぴりっとした甘い香りが漂ってくる。不思議な風味のお茶だった。飲みこむと、おなかの底からぽっと温かくなった。

「もうずっと冬のままだからね、寒くてしかたないんだ」

 『   』はわたしの斜め前に置かれた揺り椅子で、ゆらゆら遊ぶように揺れながら言った。

「ずっと冬?」

 首をかしげる。この家の前に広がっている薄紅色の花々は、冬の花だというのだろうか。

「うん、春がおばけに食べられちゃったんだって。だからずっと雪が降っているでしょう」

「え?」

 ぎょっとして窓の外を見る。レースのカーテンは、下のほうがぼんやりと薄紅色に染まっている。

「雪なんて降ってない……花が咲いているよ」

「ええっ」

 『   』はすっとんきょうな叫び声をあげ、そのままころんと揺り椅子から転げ落ちた。絨毯の上で一回転してわたしを見上げる。

「本当に? 本当に花が咲いているのが見える?」

「うん……」

 マグカップを両手で握りしめながら、おそるおそるうなずく。『   』の顔が、ぱあっと輝いた、ように見えた。

「きみは……」

 『   』の声はちょっと震えているようだった。椅子に戻ろうともせず、その場でちょこんと居ずまいを正す。やっぱり表情は変化に乏しいけれど、とてもまじめな顔をしているとわかった。

「ぼく、きみにお願いがあるんだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る