三
ふわふわと花を踏んで歩いてゆく。幾らも行かないうちに、前方に物影が見えてきた。だんだん輪郭がはっきりしてくる。奥にこんもりと森を従えた、一軒の家だった。
絵本に出てきそうな、赤い切妻屋根と赤煉瓦の煙突、白い漆喰の壁。水色の鎧戸は
夢だと思う気持ちを五感の現実味で疑いつつも、きっとこれは夢だからと自分に言い聞かせて、扉をノックした。
「はーい!」
中から聞こえてきたのは、少年とも少女ともつかない幼い声だった。すぐに扉が
「え?」
扉の向こうには、誰もいなかった。
「もう、どこ見てるの!」
すぐ近くで、再び声がする。からだをこわばらせたわたしの目と鼻の先に、白くてまるいものが飛び出してきた。――否、跳び上がってきた。
宙に三秒ほども留まっていたそれと、まじまじと見つめあう。何も言えないでいるうちに、それは途中で重力を思い出しでもしたように、すとんと着地した。
まんまるい、羊のぬいぐるみだった。
「ぬいぐるみ……」
「ぬいぐるみじゃないよ!」
どう見てもぬいぐるみのそれは表情もわかりづらいが、機嫌を損ねたらしかった。
「ぼくは『 』だよ」
その名前を聞いた瞬間、あれ、と思う。けれど、池に小石を投げこんだような違和感は、すぐに沈んで見えなくなる。
「そう、えっと、『 』、こんにちは」
「うん、こんにちは」
『 』は笑ったようだった。
「さあ、入って入って。外は寒いでしょ」
「え」
目が覚めたときから半袖のドレスに裸足という恰好で、そのまま苦もなく歩いてきた。花はほんのり湿っていたが、暑さも寒さも感じない。だが『 』はぴょんぴょん跳んで家の中に入っていってしまって、わたしは慌ててその背中を追いかけた。
ひと間しかない家なのか、台所らしき一角も、テーブルもソファも揺り椅子もベッドも戸棚も、肩を寄せあうようにひと部屋に詰めこまれている。家自体の外観もそうだが、室内も、調度品がどれも小ぢんまりとしていて、何だかドールハウスのようだ。人間の家よりもふた回りは小さいだろうか。もっとも、わたしの頭くらいの大きさしかない『 』にとっては、それでも大きすぎるような気もする。
「このソファに座って」
促されるまま、おそるおそる腰を下ろす。壊してしまったらどうしようとはらはらしたが、きちんと受け止めてくれた。もてあまし気味の足を、なるべくじゃまにならないようにからだに寄せる。
『 』は短い手足でどうしたものか、たんすから大きな毛布をひっぱり出してきた。畳んだまま頭にのせてそばに来ると、わたしの頭上まで勢いよく跳び上がって、ふわりと毛布を広げる。肩の上からわたしのからだに毛布を巻きつけて、ちいさな手で端と端をぎゅっと握ったまま、膝に降り立った。
「寒かったね」
まんまるの黒い瞳には、はっきりといたわりが見てとれた。
「そんなこと……」
ないよ、と言おうとしたのに、わたしのからだを包みこむ毛布はやわらかに温かくて、なぜだかずっと凍えていたような気がした。
数秒間、『 』はそうしてわたしのおなかのあたりに頭を寄せていた。それから、体重を感じさせない動きで床に降り、またぴょんぴょん跳んで台所のほうへ向かう。
「今、温かい飲みものと食べものを出すから、ちょっと待ってて」
上下に弾んで仕度してくれる『 』をうしろから見守っていたが、どんな動作をしているのか、どうにもわからなかった。それでもほどなくして、『 』は頭にお盆をのせて戻ってきた。上には、ほかほかと
「はい、どうぞ」
ソファのわきのテーブルに、お盆を置いてくれる。わたしは、いただきます、と手を合わせて、白い陶器のマグカップを手に取った。
赤味がかった澄んだ褐色の液体から、ぴりっとした甘い香りが漂ってくる。不思議な風味のお茶だった。飲みこむと、おなかの底からぽっと温かくなった。
「もうずっと冬のままだからね、寒くてしかたないんだ」
『 』はわたしの斜め前に置かれた揺り椅子で、ゆらゆら遊ぶように揺れながら言った。
「ずっと冬?」
首をかしげる。この家の前に広がっている薄紅色の花々は、冬の花だというのだろうか。
「うん、春がおばけに食べられちゃったんだって。だからずっと雪が降っているでしょう」
「え?」
ぎょっとして窓の外を見る。レースのカーテンは、下のほうがぼんやりと薄紅色に染まっている。
「雪なんて降ってない……花が咲いているよ」
「ええっ」
『 』はすっとんきょうな叫び声をあげ、そのままころんと揺り椅子から転げ落ちた。絨毯の上で一回転してわたしを見上げる。
「本当に? 本当に花が咲いているのが見える?」
「うん……」
マグカップを両手で握りしめながら、おそるおそるうなずく。『 』の顔が、ぱあっと輝いた、ように見えた。
「きみは……」
『 』の声はちょっと震えているようだった。椅子に戻ろうともせず、その場でちょこんと居ずまいを正す。やっぱり表情は変化に乏しいけれど、とてもまじめな顔をしているとわかった。
「ぼく、きみにお願いがあるんだ」
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