第47話 王の紋章
88)
草原を進む軍勢の前に、ブラーナの塔が見えてきた。
半壊した塔は静かにその姿を晒している。
動くものの気配はない。
だが、斥候が帰ってこなかった以上、迂闊に近寄ることはできない。
「塔を包囲し、封鎖する」
指揮官に従い、一万の軍勢は、塔を中心として一定の距離を取り、包囲態勢を取った。数にものを言わせ、水も漏らさぬような、厳重な囲みである。
もし塔にあの三人がいたとして、この包囲網を突破することは、密かにでも、強引にでも、どちらにせよ、不可能という他なかった。
「包囲完了しました」
部下から配置が終わったとの報告を受け、指揮官はアルベルトに上申した。
幾重にも塔を取り巻く布陣のさらに外に、アルベルトの本陣が設営されている。そこは、平らな草原がやや小高くなった場所で、その位置からは、塔と、塔をとりまく軍勢が一望できたのだ。もちろん、アルベルトのいる本陣の周りは、予期せぬ方角からの万一の急襲に備えて、精鋭の兵で厳重に守られている。
アルベルトは、安全な場所から、憎い叛逆者たちが血祭りにあげられるのを見物するつもりなのだった。
本陣に高々と掲げられているのは、王家の紋章が刺繍された、巨大な旗である。
風に翻る旗は、アルベルトが王であることを、その場にいる者たちに向けて主張していたのだ。
王家の旗の下で、わざわざ運ばせた輿の玉座に、だらしなくもたれかかったアルベルトは、その時、自らの勝利を確信していた。
側女が差し出す美酒の盃を片手に、攻撃の準備が整うのを待っている。
指揮官の報告を受け、塔を包囲する自分の軍隊をみおろして、アルベルトは思わず口にした。
「ふん、これは全軍でやるまでもなさそうだな」
なんの守りもない、半分崩れた塔である。
それをとりまく万の軍勢から見れば、いかにも脆く、みすぼらしい。
あんなところに籠って、なにができるというのか。
どうも、わしともあろう者が、少し、やつらを警戒しすぎたようだな……。
アルベルトは、ゴクリ、杯の酒で喉を潤し、そして部下たちに言った。
「余興だ、我こそと思う者はあるか?」
その言葉に、腕に覚えのある武勇の者がいきり立つ。
そして、騎士団の中でも特に豪の者三名が、進み出た。
「どうか、ここは我らに」
アルベルトは、頼もしい部下を見て、鷹揚にうなずく。
「よかろう、殺してもかまわんぞ」
そういった後、ニヤリと顔を歪めて、言い直した。
「待て、そうだ、あの女は捕らえよ。いいな」
「御意のままに!」
「ハイヤーっ!」
剛毅な鎧に身を固めた三人の武者は、馬を走らせる。兵たちは、左右に分かれて道を開ける。
あるものは剣をかざし、あるものは槍をかまえた、三人の武者を乗せた駻馬たちが、草を蹴散らして突進する。
「覚悟だッ!」
騎士たちは声を張り上げ、崩れて大きく開いた塔の入り口から、一団となって、突入していった。
「やったか!?」
皆が固唾を飲んで見守るなか、
ビカリ!
なにかが塔の中で閃光を発し、
ドウッ!
響く重低音とともに、幾つもの塊が、ぶちまけられたように入り口から噴出した。
ざざあっと真っ赤な液体が、あたりに降り注ぐ。
「うわーっ!」
それが何か気づいた前線の兵から、悲鳴が上がる。
無理もない。
飛び出してきた塊は、バラバラになった、馬の身体、砕かれた鎧、折れた槍、そして引きちぎられた騎士の身体であったのだ。人間と馬の、血と内臓が、雨のように降り注ぎ、草を赤く染めた。
いったいどのような力が、人を、馬を、このような状態にしてしまうというのか。
皆が静まり返る。
「あっ!」
誰かが、気づいて声を上げた。
塔に動きがあった。
塔の最上部。
崩れた壁の上に、滲み出るように黒い影が現れた。
影がその輪郭を確かにすると、そこには、ローブを纏い、魔導師の杖を手にした男が、皆の前に姿を見せていた。その顔に浮かぶのは、怒りに満ちた険しい表情だ。
「あれは、ルビーチェだぞ!」
続いて、ルビーチェから少し離れた位置に、飛び上がるように現れたのは、巨漢の男。その手には、赤黒い刀身の、不気味に湾曲した大剣を握っている。むろん、グレンである。グレンは、これからの大暴れを期待して、ルビーチェとは反対に、嬉しそうな顔だ。
そして、まるでその二人を従えるように、二人の間に、ふわりと浮かび上がってきたのは、長い金髪を靡かせた、榛色の瞳の美女。
「モ、モルーニア姫?!」
「本当に、生きていたのか? だが、あの——あの翼は?!」
モルーニア姫は、まるで蝙蝠のような黒い翼を大きく広げて、支えるものなく、宙に浮いていたのである。
「いったいこれは、どうなってるんだ?」
人々は驚愕し、動揺したが、同時に、否応なく思い出さずにはいられない。
本陣の、アルベルトの後ろに翻る王家の旗。
そこに描かれている、王の紋章は——。
それは、広げられた翼と、両脇に控える、杖と剣。
今、塔の上に立つ、姫と魔導師と剣士。
これこそが王家ではないのか。
姫が、怖れる様子もなく、塔を包囲した軍勢を見下ろし、よく通る威厳のある声でいった。
「——簒奪者はけして許されない」
カラン、と手にした盃を取り落とした簒奪王アルベルトが、我に帰って、絶叫した。
「見よ、者ども! 姫は魔に堕ちた! 全軍、進め! 魔を殲滅しろっ!」
「御意!」
アルベルトの言葉に、一万の軍勢が、鬨の声をあげて、塔の三人に殺到する。
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