第36話 谷の奥に向かって

67)


 姫の体を奪還し、穢れの谷に入りこんだ、ルビーチェとグレンであるが、


「さて、今から俺たちが向かうべきは」


 と、ルビーチェが言う。

 ルビーチェは、首のないモルーニア姫を背負っている。

 モルーニア姫は、ルビーチェの黒い魔導士のローブを身に纏っていた。

 ゆったりとしたそのローブの、背の部分が不自然に盛り上がっているのは、モルーニア姫の美しい背中に、蝙蝠のような翼が生え出しているからであった。

 モルーニア姫の身体に起きているこの異変がなんなのかは、ルビーチェにも未だわからなかったのだが。

 ルビーチェは、谷の奥に目を向けて、確信を持った声でグレンに言った。


「——こっちだな」

「ああ、そうだ」


 グレンもうなずく。

 間違いようもなかった。

 ルビーチェにとっては、自らの魔法を帯びたモルーニアの首が、この先のどこにあるのかは、その魔法感覚によって明らかだった。

 一方、グレンにとっては、自分の分かちがたい相棒であるシャスカの居所は、自ずと認識できた。

 そして、二人ともに、谷に満ちる魔気の濃度勾配を、その常人のものではない鋭敏な感覚ではっきりと感じ取っており、ただでさえ濃厚なその魔気が、異常なほどの高密度を示す場所が、この先にあることが分かっていた。


 山懐深く、穢れの谷の最奥部。

 ——そこに、姫の首があり、そしてシャスカがいるのだった。

もっともルビーチェは、シャスカという人物を認識しておらず、ただ、姫の首がそこにあるというそのことだけを理解していた。

 グレンの方は、姫の首と、そして彼が追いかけてきたシャスカが同じ場所にいることをわかっていた。

 面識も、なんの関係もないはずの姫とシャスカが、なぜいっしょにいるのか、その事情までは、さすがのグレンにも分からなかった。

 だが、


(それは、天の定めた配置なのだろう)


 そうグレンは達観していた。


(いずれにせよ、おれは、おれの心の赴くままに力を振るえばいいのだ。その結果がどうなろうと、それはおれの気にするような問題ではない)


 それがグレンの生き方であったのだ。

 そう、グレンとシャスカは、そうやって——天、あるいはこの世界の運命を司る神の導くままに、旅を続けてきたのだった。

 彼らにとって、この地上で出会うすべての出来事は、偶然ではなかった。

 それはある意味、運命の奴隷となっていると言えるのかもしれぬが、グレンはさほど気にする様子もなく、己の定めを従容とうけいれ、むしろそのことを楽しんでいるような気配すらあった。そしてシャスカは、反対に、定めに逆らおうと死に物狂いで抵抗し、すきあらば逃走するのが常であったのだ。

 ともあれ、この二人、グレンとシャスカが再び顔をあわせるときが近づいていた。


68)


「なあ、ルビーチェよ」

「うん、なんだ?」


 穢れの谷の夜である。

 二人は、野営をするのにちょうど良い場所をみつけ、火を起こした。

 崖から岩が屋根のように張り出していた。

 背後からの危険はなく、雨風や、上からの襲撃も防ぐことができる。

 夜を過ごすにはおあつらえ向きの場所であった。

 焚き火の前に、向かい合って、ルビーチェとグレンが座る。

 ルビーチェの横には、首のないモルーニア姫が、よりそうように座っている。

 それはまるで、仲の良い恋人のようにみえるかもしれない。

 ほほえましい光景なのだ。

 もっとも、そこに首があれば、だが。


 ルビーチェとグレンは、鍋で煮た豆と肉、そしてパンの夕食をとっているところだった。椀からは、いい匂いの湯気が上がっている。


「おれたちは、こうやって飯を食っているが、姫様は食べなくて大丈夫なのか?」

「うむ」


 ルビーチェが答える。


「問題ない、と思う」

「そうか? おれたちだけたらふく食っては、なんだか申し訳なくてなあ」

「グレン」

「ああ?」

「お前、優しいやつだな」

「ばか、なにをいうんだ。おれは食い意地が張っているだけさ」


 ふふっ、と笑い、それから真面目な顔で、ルビーチェが答える。


「姫の生命は、俺がかけた魔法によって、完全な形で維持されているんだ。だから、魔法が切れない限り、姫は食べることも飲むことも必要ないんだよ。息だってしなくても、問題ないぞ」

「ほう」


 グレンは感心した声を上げた。


「たいしたもんだな、やはりルビーチェ、お前はすごいよ」


 そして、


「では、安心して」


 大きなパンの塊にかぶりついた。

 が、あることに気づき、口のなかのパンを、いそいで飲み込んで言った


「おい、ルビーチェ」

「なんだ、まだなにかあるのか」

「ちょっと、姫を見てみろ」

「なにっ?」


 グレンに言われ、あわててルビーチェは、傍らの姫に目をやる。

 そして、ルビーチェも気がついた。

 無惨に頭部を切り落とされ、わずかに途中から残っている、姫の白い首。

 その白い首の、のどが、こくりと動いたのだ。

 こくり、こくりと、喉が動く。

 まるで、何かを飲み込んでいるかのように。


「……」


 二人は黙ってその様子をみていたが、やがて、グレンが言った。


「どうも、ここにない姫様の首は、なにかを食べているようだぞ」


 ルビーチェも、頷いた。


「ああ、そのようだな。……だが、なにを? そして、だれが姫にそれを?」


 まったく、見当がつかないという顔で言った。


(もしや、シャスカの仕業だろうか?)


 グレンはチラとそう考えたのだが、現実はそんなグレンの想像を超えていたのだった。

 


69)


 朝が来て、再び、二人は歩き出す。

 グレンが先導する。

 邪魔な枝や蔦があれば、小刀を振るって、ぐいぐい道を切り開く。

 あとに続くルビーチェは姫を背負っている。

 姫は大人しく、ルビーチェに背負われていた。


「なあ、ルビーチェ」


 と、グレンが、前をみたまま、後ろのルビーチェに話しかける。


「どうした、グレン」

「お前、どうするつもりだ?」

「どうするとは?」

「もうすぐ、姫の首にたどりつけるだろう。そこで、うまく姫を元通りに治すことができたら、そのあと、どうする?」

「……」


 沈黙があった。


「……そのあと、か」

「そうだ」


 グレンが小刀をふるい、ばさりと目の前にはりだした太い枝を切り払う。


「姫をしたてて、あの下劣なやつを撃ち倒すか? そして、姫を王座につけるまで戦うか?」

「……」

「それとも、姫を連れて、安全な土地に逃げのびるか?」

「……」

「お前の力なら、たぶんどちらも不可能ではないだろう」


 やがて、ルビーチェは答えた。


「わからん……」


 つぶやくような声だ。


「どうするのがいいのか……ただ」


 と、強い声で続けた。


「俺は——なんであれ、俺は、姫様の望みに従う。姫が戦うと言えば、俺のすべての力をふりしぼって、ともに戦う。姫が、どこかに落ちのびたいといえば、俺は姫をどこまでも護っていくよ」

「ふふん」


 グレンがいった。


「そうか、そうだろうな……」


 楽しそうに言った。


「とにかく、なにがあっても、おれは、お前の味方をするから安心しろ。ま、できれば、なるべく大軍勢相手に大暴れできるような方向が嬉しいけどな」

「お前ねえ……ありがたいけどな」


 ルビーチェも、あきれるように笑ったのだ。

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