第34話 対話
63)
「そこにいらっしゃるお方は……どなた様でしょうか?」
姫の首に呼びかけられて、シャスカは、姿勢を正した。
その場で深くお辞儀をすると、シャスカにしては珍しい口調で、答えた。
「私はシャスカという、流れものでございます。以後、お見知り置きを」
「シャスカさんと仰るのね。変わったお名前」
姫の首はにこりと微笑んだ。
シャスカもつられて、微笑んだ。
姫は続けた。
「わたくしは、モルーニアと……あの、訳あって、こんな姿で失礼しますわ」
「よく、存じ上げておりますよ」
「あら」
意外そうな姫に、シャスカは答えた。
「姫さまの御身に、どのような非道な仕打ちがなされたのか、それを知らないものは、この国にはいません」
「ああ……。そうですか……」
姫の表情が翳った。
ここまでのことが頭をよぎったのであろう。
シャスカは姫の境遇に同情した顔をしながら、
「ですが、まさか、こんな場所に、このようにしていらっしゃるとは思いもしませんでしたが」
「わたくしにも、わけがわかりませんの」
と姫は言った。
「
と言葉を切って。
「小さなものたちがわたくしに食事を与えてくれるのですが、あれを食べると、なんだか……頭がぼうっとなって」
不安げな表情になる。
「わたくしが、わたくしでなくなるような気がして、それが恐ろしいのです」
シャスカが、尋ねる。
「姫さま、その食事というのは、ひょっとして、あの——」
「はい、あの小さなものたちが、自分の体を裂いて、わたくしの口に」
「それをお食べになられましたか、ふうむ」
「シャスカさま、変なことを言うと思われるかもしれませんが、それはとてもとても美味しいのですよ。香りが良く、滋味にあふれ、柔らかく、まるで焼きたての極上のパンのようですの。目の前にあると、どうしても口に入れてしまいますわ」
「それはまた、ずいぶんお口にあうようですねえ」
シャスカは、楽しそうに語る姫の言葉に、少し呆気にとられて言った。
「先ほどは、杯から赤い葡萄酒のようなものもお飲みになっておられた」
「はい、あれもまた極上の美酒ですの」
そう言ってから、モルーニア姫はちょっと恥ずかしそうな顔をした。
「ああ、わたくし、やっぱりおかしな事を申しておりますわね」
——取りて喰らえ、これは我が体なり。
皆これを飲め、これは我が契約の血。
ふと、そんな文句がシャスカの頭に浮かんだが、それはこの世界の言葉ではなかったのだ。ここではない、どこか別の世界での言葉の断片であった。その文言は、シャスカの脳裏にふっと浮かび、そして消えていった。
「姫さま」
と、シャスカが尋ねた。
「不躾な事を申しますが、おそらく王家のやんごとなき方々だけ知る、古い古い言い伝えがありはしませんか?」
「言い伝え、ですか」
その時の姫の顔は、体があればまさに、小首をかしげる、という仕草になったはずものであった。実際には、今の姫には首を傾げようがないのだが。
可愛らしい人だな、シャスカはそう思いながら
「そうです、この地の王家の始まり、その起源についての伝承です」
姫は、ちょっと考えこんで、そして答えた。
「申し訳ありませんが、わたくしはそれについて知りません。ただ、王位を継承したものだけが見ることの許される古文書があるとは聞いています。それが——何か?」
「いえ……この状況について、何かの手掛かりになるかと思っただけです」
「そうですか……王城に行けば……。しかし、我が王家はこのような事態となり、もはや」
そこで、姫は、険しい顔になった。
不安げな色も浮かんだ。そして少しためらったあと、意を決したようにシャスカに尋ねた。
「シャスカさま、ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「はい、何なりと」
「あの……王国の大魔導師ルビーチェ様は……ルビーチェ様はご無事なのでしょうか? 何か彼についてご存知ではないでしょうか」
その声には、ルビーチェの身を案じる深い気持ちが、込められていた。
シャスカは、優しく笑っていった。
「ご安心ください、ルビーチェさまはご健在です」
その言葉に、姫の顔がパッと明るくなる。
「ああ、そうですか! ……よかった、本当によかった」
そして言った。
「ことここに至っては、もはや、彼は、この王国では安全には過ごせません。落ち延びて、他国で安楽に生きてくだされば……」
「ルビーチェ様だったら、そのうち、ここに来ますよ」
シャスカは、あっさりと言った。
「今も、こちらに向かって進んでいるところです」
「えっ!」
驚く姫。
なぜシャスカにそんなことがわかるかという、当然の疑問も浮かばず、心配の言葉を継いだ。
「でも、そんな、むざむざと死地に赴くような……シャスカさま、なんとか、今からでも彼に引き返すように伝えていただくわけには……?」
「ははは」
シャスカは笑って
「姫さま、心配はいりません。ルビーチェ様は、一人ではないので」
「ひとりではない……?」
「はい、今、ルビーチェ様は、グレンと言うやつと一緒に行動しています。グレンが、ルビーチェさまに助太刀しているんです」
「グレン、さま……ですか? そうは言っても……たった二人では」
シャスカは、苦笑いのような表情を浮かべながら
「いや、このグレンてやつ、私とちょっと因縁がある男なんですがね、実にとんでもないやつで、まあ、なんというか、ヒトの範疇に入らないというか、天変地異と言ったほうがいいような、もう、とにかくでたらめなやつなんですよ」
「はあ……」
そう言われても、モルーニア姫には、よくわからない。
「大丈夫ですよ。信じられないかもしれませんが、グレンという男は、たった一人で一国を滅ぼせるほどの力の持ち主なんです。やつが一緒にいる以上、必ず、ルビーチェさまは無事に、ここまでやってきます。姫さまの身体も取り戻してくれますから。それまで安心して、待っていてください」
「まだ、わたくしには信じられないのですが……でも、どうして、そんな方がわざわざ、孤立無援のルビーチェ様の助太刀に」
「ああ、そりゃあ」
と、シャスカがニヤリと笑った。
「決まっているじゃありませんか。ルビーチェさまの、姫さまへの熱いお気持ちに、
「まあ!」
姫の顔が、可愛らしく赤くなった。
64)
(これはもうどうしようもないな)
とシャスカは思っていた。
ひたすら逃げていた。グレンに捕まらないように。
最初は、自分がなにをそんなに怖れているのかもよくわからないまま、闇雲に逃走した——はずだった。
だが、
(これが、俺に背負わされた定めというものか)
西へ西へと逃れ、そうして穢れの谷にまでたどりついた。
谷に横溢する魔気と、シャスカの中にある何かが相互作用を引き起こし、谷を奥に進むに連れて、次第にシャスカの中から浮かび上がり、顕在化する知識と思考があった。
(そうか、俺がおそれていたものは……)
シャスカの心に浮かび、次第にはっきりとしてきたそれらのことから、シャスカは、諦めとともに、自分の置かれた境遇を悟ったのだ。
(それにしても、これは理不尽なのではないか)
なにも考えずに逃げていたはずが、まるで導かれるように事態が進んでいたことを感じた。
大きな力が、自分を動かしていた。
もはや、逃げ続けることはできない。
自分は、ここで姫のそばにひかえ、ルビーチェがたどりつくまで、姫を護らねばならぬ。
(しかし、そもそも何から護ると言うのだろう? 魔物にさえ
そして、そう遠くないうちに。
ついに、ルビーチェとグレンがこの穢れの谷の奥にまでたどりついたそのとき、シャスカはシャスカでなくなるだろう。
そのことを考えると、シャスカの心の中には重く、苦いものがわきおこる。
(やむをえない、あの姫のためだ。それはいい。……だが、釈然としないのは、俺に、いや、俺とお前にこの定めを押しつけているのは、いったいどこの誰かということなんだ。なあ、グレン……)
心の中に、飄々としたグレンの顔を思い浮かべながら、シャスカはぼやく。
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