第33話 邂逅

59)


 さて、ここで時間はだいぶ遡る。

 大街道を西へ西へと逃走し、ゾトの町にたどり着いたシャスカが、その不審な行動を警備の兵に見咎められ、あえなく捕縛された、その時点まで。

 そのころ、ルビーチェとグレンは、魔獣ハーブグーヴァを連れてアラハンに大混乱をもたらし、首尾良く姫の身体の一部を奪還して、ゾトへと向かっている途上であった。

 警備兵に連行されたシャスカは、城砦地下の牢獄ではげしい拷問を受けた。ついには、ゾトの広場で晒しものになり腐っていた姫の身体が、偽物であることを指摘したために、激高した騎士によって、剣で心臓を貫かれ、絶命したのだった。

 シャスカの死骸は、木の桶に無造作に詰め込まれた。

 兵士二人がその桶を担いで、狭い階段をのぼり、城壁の上の歩廊に出る。

 城壁の向こうは、そこから人の領域の外、穢れの谷につづく荒れ野であった。


「おーらよっ」


 シャスカの入った桶は、勢いよく、城外に放り出された。

 高い壁の上から投げすてられたので、粗末な木製の桶は、城の外の地面に激突するや、脆くもばらばらになった。

 そこから、無残なありさまのシャスカの骸が、転がり出る。腕や足の骨も、いまの衝撃で折れたのであろう、おかしな方向に曲がっていた。


「これでよし、あとは谷の魔物が片付けてくれるだろうよ」

「どうも、おかしなやつだったな、ははは」


 振り返りもせず、談笑しながら兵士たちは勤めに戻っていった。彼らにとっては、牢で責め殺した者の屍をこうやって始末するのは、いつものことだったのだ。


 しばらくすると、森の木々の合間から、二羽、三羽と、黒い羽の魔物が、飛び立ち、滑空してくる。

 ハルプ鳥だった。

 ハルプ鳥たちは、羽音を立て、シャスカの屍のそばに舞い降りた。

 嘴から涎を垂らしながら、その単眼の顔を、横たわるシャスカに近づける。

 ハルプ鳥は、生きているもののみならず、腐肉も大好物だ。血にまみれたシャスカは絶好の獲物である。

 一羽が、投げ出されたシャスカの腕に食らいつく。

 ぞぶりとその肉を齧りとった。

 だが、


 グゲッ!


 その瞬間、ハルプ鳥は、雷に打たれたように、羽を広げ、そのままびくびくと痙攣をはじめた。


 ゲグッ! ゲグッ! ゲグッ!


 ハルプ鳥の身体がのたうち、やがて、羽を伸ばしたまま裏返しになると、三本の足を宙に突き上げた姿で、動かなくなった。

 あっけなく、死んでいた。

 残りのハルプ鳥は、仲間のその様子をみて、おびえたように飛び立ち、森に逃げ帰ったのだった。


 次に現れたのは、蛇のような細長い生き物であった。

 これも明らかに魔物である。

 細長い体には、鼻先から全長の三分の一のあたりまでに、横に裂け目が入っている。裂け目の上下には小さな歯が並んでいるようだ。してみると、これは、異様に長い口なのだ。

 そして、足。

 蛇に足などない。しかしこの生き物には、まるでヒトのような、ぽこりと膝関節のある生白く細い足が、頭の先から尾の部分までに、何十対もずらっと並んでいた。

 その足をせわしなく動かし、体をくねらせながら、ずるずると森から這いだしてくるさまは、不気味というほかはない。

 鰐口虫と呼ばれる、その魔物は、シャスカに近づく。

 とがった鼻先を、シャスカの顔に近づけた。

 チロリとのびた、魔物の紫の舌先が顔を舐めても、白濁したシャスカの目は、なにも見ていない。

 しかし、魔物はそのシャスカに、なにを感じたのか。

 ぎくりと動きを止め、そして慌てたように、いっせいに足を動かして後ずさる。

 鰐口虫は、そばで息絶えているハルプ鳥の方に、向きを変えた。その長大な口で、死骸を一口にくわえ、そして早足でまた森の中に消えていくのだった。



60)


 夜が近づき、辺りが暗くなっていく。

 本来は、これは魔物たちの動きがもっとも激しくなっていく時刻である。

 だが、シャスカのまわりは静かだった。

 ちらりと姿を見せた魔物も、なにかを警戒するかのように、遠くから眺めるだけで、転がっているシャスカに近づこうとはしない。

 そんな中


 ピクリ


 倒れ伏したシャスカの、伸ばされた腕の先で、折れて、爪の剥がれた指が動いた。


 ビクリ

 ギクリ

 ビクリ


 動きは次第に大きくなる。


「……う……ふぁ……おお……お……」


 シャスカの半開きになった口から、呻きのような音が漏れた。


「ふおおおおおぅ」


 太い息が吐かれ、シャスカの身体が、ガバリと四つん這いとなった。

 シャスカの首を取りまいている金属の輪が、暗闇の中、深紅の光を放った。


 ゴトリ!


 シャスカの胸から、押し出されて地面に落ち、重い音を立てたのは、シャスカの心臓を貫き、折れた、騎士の剣の半身であった。

 ゆらりとシャスカは立ち上がる。

 立ち上がったその身体には、もはや、拷問の痕はどこにも残っていない。

 傷ひとつなかった。

 その双眸も、澄んだ輝きを取りもどしていた。


「ふう……」


 シャスカは首を振って、ぼやいた。


「まったく……乱暴なことをしやがって……なんだと思ってるんだよ」


 ふりかえれば、そこには、そびえ立つゾトの城塞。

 その長城の壁に目をやり、いや正確にはその壁の向こう、ゾトの町と、そしてさらにその先を見透かすように、しばらく眺めていたが、


「うん、こうしちゃいられないな……こうしている間にも、あいつが近づいてきてる。急ごう」


 そして、歩き出した。

 城壁を背に、森の奥へ、すなわち、穢れの谷のその深奥へと。



61)


 シャスカは、穢れの谷に、深く分け入っていった。

 日が昇り、また沈み、そしてまた昇った。

 谷は、魔物に満ちていた。

 樹々の茂み、岩陰、空、ところ構わず跳梁する異形のものたち。

 しかし、それらのものたちは、なぜか武器一つ持たぬシャスカを襲おうとはせず、距離をとっていた。たまたま何かの拍子に鉢合わせすると、怯えたように慌てて離れていくのは、常に魔物たちの側だったのだ。

 やがて、谷の奥、両側からせまる岩壁が、急激にせばまる場所までやってきた。

 そこでは、突き当たりの岩壁がまるで神殿のようにせりだし、神殿の奥へと暗い洞窟が口をあけていた。


「ほう、これはすごいな……」


 シャスカは、その場の雰囲気に、思わず声を出した。


「いったい、どうなってるんだ、ここは?」


 異常な魔気である。

 滴るばかりの濃密な魔気が、そこには充ちていたのだ。

 そして、その源は、あきらかに、洞窟の奥である。

 洞窟の奥から、魔気が奔流となって噴き出していた。


「これは、ひきかえすべきか?」


 シャスカが、思案しながら洞窟の前で様子をうかがっていると


 ごおおおおおおおおおぅぅう!


 突然、洞窟から、獣のような強烈な咆吼が響きわたり、シャスカの顔をうった。


「うおっ」


 思わず後ずさる。


 おおおおぉうううぉおおおおううううぅぅぅおおおおおおんっ!


 もう一度、雄叫びのような吠え声が聞こえた。


「むうぅ?」


 シャスカの目が次第に赤く光った。全てを見透かすように、煌々と輝く。


「……そうか」


 やがて、シャスカがつぶやく。


「ああ……しかたないな、もう、これは」


 悲しげな顔をした。あきらめたように首を振る。

 そして、シャスカはためらわず、洞窟の暗闇に歩み入っていった。



62)


 洞窟を、奥に進むにつれ、魔気はその密度をさらに増していく。

 凝集した魔気が光を放っているのか、洞窟の奥には明るさがあった。

 とうとうシャスカは洞窟の最奥部にたどりつく。

 そこは大広間のような空間になっており、広間の中央には、黒曜石の直方体が鎮座する。

 直方体の上には、青みがかった金属の台座がある。台座には精巧な浮き彫りが彫られている。それは高貴なものの輿のようだ。

 そしてその上に——。

 美しい姫の、首があった。

 輝く髪が、波打って流れるように広がっていた。

 首は、おおぜいの、盃のような形の小さな魔物たちに傅かれていた。

 大きく見開いた姫の目は、焦点があっておらず、どこか遠くを見ているようだった。

 魔物の一体が、姫の口元に跪いて、身体を低くした。

 魔物の頭部の窪みには、血のような赤い液体が湛えられている。

 魔物はまさに美酒の盃である。いや、むしろそれは恐ろしい魔の酒であろうか。

 魔物は、さらに身体を低くし、その頭部を姫の口に近づける。

 姫のみずみずしい唇がかすかに開き、魔物が頭を傾け、その赤い液体が姫の口に注がれた。

 

 こくん


 姫はその液体を呑みこんだ。

 姫の口から、チラリと舌がのぞいて、唇に残った赤い残滓を舐め取る。

 妖しい光景だった。

 


 ごおおおおおおおおおおうううう!


 いきなり姫の首が吠えた。

 とても、ろうたけた麗しい姫の喉から出るとは思えないような、底知れぬ深さの咆吼であった。

 吠える姫の目は、狂気をたたえていた。


「あれが、モルーニア……姫、なのか?」


 シャスカのつぶやきが聞こえたのか、姫の視線が、ゆっくりシャスカに向けられる。

 その目から、ふっと狂気の色が消えた。

 パチリ、パチリと何度か愛らしい瞬きをした。

 そして、先ほどの叫びとはうってかわった、透き通り、優しく穏やかな声が発せられた。


「あの……そこにいらっしゃるお方は、どなたさまでしょうか?」


 と。

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