第30話 翼
53)
早馬が、街道を駆けている。
ゾトを出立して、東に。王都に向けて。
騎手の魔法により、馬の走力を可能な限り増強し、砂塵を巻き上げ、通行人を蹴散らして、駆ける。
もちろんそれは馬の生命に激しい負荷を強いる技であるが、今は一刻も早く知らせを届けなければならない。
騎手は必死だ。泡を吹く馬に、鞭を打つ。
伝えねばならない。ゾトの城に、魔導師ルビーチェが襲来し、モルーニア姫の身体を奪っていったとの重大な報告を、王都へ。簒奪王のもとへ。
54)
ルビーチェとグレン、そしてモルーニア姫の身体は、穢れの谷を、その内奥へと進む。
太陽は高度をさげ、山の中では急激に夜が近づく。
「このあたりで、いいか」
それは、谷間に転がった、家ほどもある巨岩であった。
山崩れでもあって、もっと高い場所から落ちてきたのだろうか。
岩の上部は広場のように平らになっていて、腰を落ち着けるのにちょうどよさそうだ。
ルビーチェは、風魔法によりふわりと身体を浮かせ、岩の上に降り立つ。
グレンは、魔法ではなく、単純に跳躍力によって、岩の上に飛び上がる。
姫の身体を抱えたまま、その高さまで浮き上がってしまうルビーチェの魔法も凄いが、身体能力だけで、巨体を屋根より高い岩の上まで跳躍させてしまうグレンも異常だ。
岩の上に火をしつらえる。グレンが手早く集めてきた木の枝に、ルビーチェの魔法によって簡単に火がつく。
焚き火の横に毛布を広げ、そこに、姫の身体をやさしく横たえる。
しがみついていた首の無い姫の身体は、大人しくルビーチェにしたがって、毛布の上に横になった。
そのまま、動かない。
「風と土の聖霊よ 不壊の護りをなし 邪な意図を断て」
ルビーチェが、岩全体に護りの結界を張る。
光の帯が、空間の一点より生じた。それはまるで幔幕のようにユラユラと揺れながら広がり、彼らのいる岩を取り巻いていった。
結界が岩を一周し閉じられたとき、姫の身体が一度、びくりと動いた。
遠くでかすかに魔物のものか、吠え声が聞こえた。
「さて……まことに畏れ多いことだが、姫の身体を」
やがて、ルビーチェが言った。
「おれは、こっちを向いてるからな」
と、グレンが背をむけた。
「……姫さま、失礼」
ルビーチェは口に出すと、横たわる姫の身体の横に、膝を突く。
ローブをはだけて、姫のからだをあらわにする。
薄衣をまとってはいるが、あちこちが裂けて、その下の白い肌がのぞいている。
ルビーチェの顔は赤くなるが、今からすることはどうしても避けられない。
姫の美しい身体に、異常がないかを確認しなければならないのだ。
「やはり、な……」
姫の身体を地下牢で奪還したときからわかっていたことだが、ウズドラ、アラハンで取り戻した腕や足と同じことが、ここでも起こっていた。腕には、やはり、鱗が生じていた。足首には、獣毛が生えていた。
ルビーチェは姫の上半身を起こし、薄衣を捲り上げ、背中を露出した。
しみ一つない、滑らかなその背中。柔らかな曲線を描く、身体の輪郭。
だが、美しいその背中の、肩甲骨の位置に。
「くっ、こんなことがどうして……」
ルビーチェはうめいた。
そこには黒い翼が——まるで蝙蝠のような、膜の張った翼が、生えていたのだ。
「グレン……」
ルビーチェが、呼びかける。
「なんだ」
グレンは背を向けたまま、返事をする。
「足や手と同じだ」
ルビーチェが説明する。
「姫の背中に、翼が生えている」
「なんだって?」
「蝙蝠のような、黒い翼だ。これではまるで、……まるで、なにかの魔物のようだ」
(だが、それでも姫は美しい)
と、ルビーチェは心の中で付け加えた。
「どうなって……」
グレンが言う。
「いや、おれは見ないからな」
グレンは、そういって、手を振った。
ルビーチェは、気を取り直して言った。
「……まずは、今、ここでできることをするしかないか。ばらばらのままでは気の毒だから」
ルビーチェは、布にくるんで運んでいた、姫の左腕と、右足を取りだした。
横たわる身体の左肩に、姫の左腕を並べる。
右鼠蹊部の切り口に、切断面が重なるように右足をつなげる。
その作業の途中で、姫の隠しどころの柔毛が、ちらりとのぞき、あわててルビーチェは目をそらした。
(いかん)
こころを落ち着けようと、深く息を吸おうとしたところ
「おい、ルビーチェ、なんだかお前の気が、さっきからひどく乱れてるぞ、だいじょうぶか?」
グレンのからかうような声が聞こえ、
「ぶふっ」
ルビーチェは、吸おうとした息を、思わず吹き出した。
「おいおい、どうしたルビーチェ?」
「うるさいぞグレン、大事なところなんだよ。おれに集中させろ」
くつくつ笑うグレンの声を無視して、ルビーチェは改めて意識を集中する。
深く、深く、魔力の根源に向かって。
やがて、ルビーチェの渾身の治癒魔法が発動し、光に包まれた姫の身体は、その輝きが薄れた時、切断された腕も足も、もとどおりに接合されていた。切れ目一つない、滑らかな肌として。
「うまくいった……」
ルビーチェは、ほっとした声をもらした。
もちろん、首はまだない。
そして、鱗や獣毛、黒い翼は、生えたままではあるが。
「あとは、捨てられたという姫の首をなんとかみつければ」
「ああ、そうだな」
グレンがようやく、ルビーチェの方を向く。
そんな二人と、首の無い一人を、ぐるっと囲むようにして、結界の外からじっと見つめている、たくさんの影があった。
穢れの谷に棲む、多くの魔獣たちだった。
不思議なことに、本来凶暴なはずの、その人ならざるものたちは、なんの敵意の色も見せず、静かに、たたずんでいた。
それが故に、ルビーチェは、自分たちをとりまくものたちの存在に気付かなかったのだった。
グレンは、気がついていたかも知れない。
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