第29話 追いかけている

52)


 グレンとルビーチェの二人は、モルーニア姫の身体を奪還し、ゾトの城壁を越えて、穢れの谷に入りこもうとしている。


「うまくいったようだな」

「ああ、グレンのおかげだ。あんたがあいつらを目いっぱい引きつけてくれてたから——むっ?」


 ルビーチェは、横を歩くグレンの左手に目をやり、


「おい、グレン、手をかせ」

「あ?」


 グレンが左手を差し出す。

 その大きな掌には、さきほどの戦いで守護のレイピアが貫いた傷口があった。

 もう血は止まっているようだったが、掌は刃に突き抜かれ、ぽっかり穴が開いていた。


「すまん……グレン、おれのために」


 申し訳なさそうに言うと、ルビーチェは、グレンの傷に自分の手をかざし、治癒の魔法を詠唱した。光が漏れ、そして、傷口が消える。


「ありがとよ。まあ、放っておいても、そのうちにふさがるんだが、それまではうっとうしいからな。穴が開いていて、向こうが見えてしまうってのはな」


 と、こともなげに、グレンが言う。


「それにしても、ルビーチェ、お前の魔法は凄いな、一瞬で傷がふさがったぞ」

「いや……」


 ルビーチェが、言う。


「どうも、おれの魔法だけの力ではない」

「ん?」


 訝るグレンに、


「ここのところ、魔法の効きが良すぎる……本来のおれの能力より、魔法が強く働くんだ」


 納得のいかない顔で、ルビーチェが言う。


「このかん、同じ力で魔法を使っても、どんどん威力が強まっている感じがする」

「ほう。それはすごいじゃないか」

「いや、なにが作用して、そうなっているのかがわからないからな」

「それは」


 グレンが、腕を広げて、あたりの風景を指して、言った。


「ここのせいじゃないのか。この穢れの谷が」

「それはあるな」


 ルビーチェがうなずく。


「たしかに、このあたりの魔気の強さは尋常じゃない。それが影響している可能性はある。しかし——」


 ルビーチェは続けた。


「それも、また、妙なんだよ。おれは、これまでに何度も、この穢れの谷に入ったことがある。あるときは、王から受けた任務のために、あるいは希少な産出物を手に入れるために、あるいは単純に、自分の魔法の力試しに、とな。数えきれないほどだ。だが、今の魔気の強さは異常だ」


 腑に落ちない表情だ。


「今、この場には、これまでにおれが、ここで感じてきた魔気よりも、何倍も強い魔気があたりに満ちている。おそろしいほどだ。しかも、谷の入り口でこれほどということは、この先、奥に入り込んだらどんなことになっているか、見当もつかないな」

「ふうん」

「魔気をつよめている原因があるはずだ」


 ルビーチェが言う。


「それが、なんなのか……おれたちの邪魔をしなければいいのだが」


 心配を声にだすと、


「実は、心当たりがないわけでもない」


 とグレンが言いだしたので、ルビーチェは驚いた。


「なんだって? どうしてお前に……?」


 聞き返すルビーチェに、グレンは、いつもと変わらぬ顔で


「おれが、ずっと追いかけているものが、この先にいるらしいのさ。そのせいかも知れん」

「追いかけている、もの……?」


 ルビーチェは、初めて会ったときの、焚き火の前でのグレンの言葉を思い出した。


「お前が、あの時言っていた、やぼ用というのは」


 グレンがうなずく。


「そうだ。おれから逃げ続けているやつがいてな。おれはそいつを、つかまえないといけない」

「つかまえるって。いったい、何者なんだ、それは」

「あいつか?……あいつは……まあ、おれの運命というか、片割れというか……」

「よくわからんな。どういうことなんだ」


 なおも訊くルビーチェに、


「うん、そうだな、まあ、それは言ってみれば——」


 グレンは、笑いながら、ルビーチェが思わずうろたえるような言葉を口にした。


「お前にとっての、姫さまみたいなものだろうな」

「なっ! いや、だから、おれはそういうわけでは、なにを言ってるんだグレン」


 ルビーチェが、慌てたように言うが、


「ふふん、ちがうというのか? おい、ルビーチェ、その姿をみたら、説得力はないぞ」


 グレンの指摘に顔を赤くするルビーチェは、ルビーチェが着せた黒いローブにくるまれた、モルーニア姫の首の無い身体にしがみつかれている。

 グレンは、そんなルビーチェに、ますます笑いを大きくしたのだった。

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