第26話 檻
47)
それは、まるで、獰猛な野獣が常人の世界に暴れ込んだかのようであった。
いや、これはもはや魔獣の領域というべきだろう。
最涯の城塞都市ゾトを護る兵士たちは、任務の中で、穢れの谷から湧き出し、町に侵入しようとする、恐ろしい魔物を迎え撃ち闘うことは少なくはない。魔との戦いに鍛えられた彼らが、今、傍若無人に暴れまわる戦士グレンに対峙して感じるのは、「このものは、本当に人なのか?」ということであった。
それほど、グレンの強さは異常であった。
精強な兵士が束になってかかっても敵わず、みるみる戦闘不能にされていく。
そして、グレンはといえば、ほとんど傷も負わず、どれほど暴れても疲れた様子もなかった。
むしろ楽しげな笑みさえ浮かべ、群がる兵士たちを、殴り、蹴り、投げ飛ばし。
いったい、我々は何を相手にしているのか。
これは、ひょっとして人が手を出してはならない存在ではないのか。
そんな怯えが、兵士たちの中にじわじわと広がっていくのだった。
48)
ルビーチェは、静かに城内を移動していた。
その姿を誰かが目にしたとしても、なにか視野がちらちらするくらいにしか、分からないはずだ。認識阻害の魔法、
目指すのは、動揺した副官が思わず目線を向けてしまった、城内のあの一角である。
そこには、城壁から張り出した、角形の
だれにも気付かれることなくたどり着き、閉ざされた扉に手を触れる。
魔法が光った。
音もなく扉が開く。
中に入ると、塔の上部に続く階段もあったが、ルビーチェはそちらには目もくれず、突き当たりの別の扉を開けた。
そこからは、地下への階段が続いていた。
明かりもほとんどない、その階段の奥から、鼻をつく異臭が吹きつけてくる。
それは、血と汗と糞尿の臭い、肉の焼けるような臭い、そして腐敗した傷口の臭いである。
「ああ、ここだな」
ルビーチェは躊躇いなく、階段を降りていく。
階段を降りた先には、細い通路があった。
通路を進み、最初に目にした、鍵の掛けられていない、やや広い部屋の中では、金属の壺の中で、火が燃えていた。部屋の壁には、禍々しい目的のための道具がいくつも吊るされ、そして壁には血の痕がべっとりとついている。
「ふむ……つい最近、誰かがここでひどい目にあったようだな……」
実は、これは、シャスカが拷問を受けた尋問部屋であった。
通路はさらに続き、鉄格子のはまった部屋が、通路の両側に並んでいる。これは、これから吟味を受ける容疑者、あるいはすでに判決を下された罪人を収容する地下牢である。
本来ここを警備する看守たちも、いきなり殴り込んできて、広場で暴れているグレンを制圧するために、おおかた駆り出されてしまっているようだ。
通路を進むルビーチェを邪魔するものはない。
「頼むぞグレン、時間を稼いでくれよ」
ルビーチェは、そうつぶやき、更に先に進んでいった。
……ダダン
ズダン
ドガッ……
音が聞こえていた。
進むにつれて、それはだんだん大きくなり、やがて耳をろうせんばかりに響き渡る。
何かが力まかせに壁を殴りつけ、あるいは体当たりしているような、そんな音である。
ありえないことだが、頑丈な石組みのこの地下構造自体が、その衝撃に合わせて、揺れているかのようにも感じられる。
ズガガン!
ドゴン!
ズゥン!
音は途切れない。
やがて、ルビーチェは最奥部にたどりつく。
通路の終点。
そこにあるのは、分厚い一枚の鉄板でできた厳重な扉である。岩壁に嵌め込まれた扉には、更に、何本もの太い鉄棒が
そして、
ダダン!
ズガン!
その、魔獣も閉じ込められそうな扉が、扉の向こう側からの打撃に震え、撓んでいる。流石に、打ち破ることはできないようだが。
扉の前には、二人の兵士が見張りに立っていた。
二人は明らかに怯えていた。
それはそうだろう、もし、この中にいる
それほどの暴威が、扉の向こうで荒れ狂っている。
ドガガガン!
「うわっ」
ひときわ大きな音が響き、兵士が思わず悲鳴を漏らした。
「おい、ま、まだ交代の時間にならないのか?」
一人が情けない声を出す。
「だめだ……」
もう一人の兵士が、壁の窪みに立ててある蝋燭に目をやって、その減り具合を確かめ、これも怯えた声で答えた。
「あと、半刻は残っている……」
「そうか……くそっ」
「なあ」
「ああ?」
「この中に、何がいるんだ? 人間じゃないよな」
「分からん……守護さまから緘口令も敷かれていて、えらい人しか知らないようだ」
ドゴン!
「魔獣でも捕まえてあるんだろうか」
「とにかく、お目にかかりたくはないな」
「ああ、そうだな……」
「おい、あと何刻だ?」
「まだだよ……まだ残っている」
「もう勘弁してくれ……」
ズガン!
「ひいっ?」
音と同時に、壁の蝋燭の火が、ふっと消えた。
蝋燭だけでなく、松明の灯りも消えた。
「なんだ? どうしたっ?」
灯りを失って闇に包まれ、狼狽える兵士二人を、
ジバッ!
水平に走った、紫の稲妻が直撃する。
「ぎゃっ!」
「ぐっ!」
ルビーチェの雷魔法だ。
兵士は電撃に意識を失い、くずおれた。
大気が電離するオゾンの匂いが漂う。
「精霊の灯よ月なき夜の道しるべをなせ 月光の燭台!」
ルビーチェの光魔法が、煌々と通路を照らした。
倒れた兵士たちは、ぴくりとも動かない。
ルビーチェはゆっくりと扉に近づいていく。
扉の向こうは、先ほどまでの騒乱が嘘のように、静まりかえっている。
ルビーチェは、扉の前で悲痛な表情を浮かべた。
ルビーチェが、その杖で縦に空間を払うと、
ゴトリ
ゴトリ
ゴトリ
閂の鉄棒が、真ん中で切断され、落下していく。
閂がすべて外れたところで、杖の先で扉に触れる。
縛めを解く魔法が光った。
扉が、ゆっくりと開いた。
そして、扉の向こうから、ぐらり、倒れかかってきたそのものを、ルビーチェは、手にした杖を放りだし、両腕で優しく抱きとめたのだ。
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