第23話 咆哮

42)


 わたしは、シャスカと名乗るその人のあとについていきました。

 シャスカさんは、おどろくほど無造作に、森の中を進んでいきます。

 目の前につきでた枝をはらいのけ、ざくざくと落ち葉をふみわけて。

 その様子は、一歩あるくごとに神経を張り詰めていた、猟人の親方とは大違いでした。


「あの……シャスカさん?」


 わたしは、心配になって、声をかけました。


「ん? どうした?」

「あの、この穢れの谷には、魔物の罠や、目に見えない危険な陥穽があって、すごく慎重に進まないと命に関わると、わたしは言われたのですが……」

「ああ」


 シャスカさんはうなずきます。


「その通りだ、ここはそういう場所だから。素人が、何も知らずにここをうろついたら、一発であの世行きだろうな」

「で、でも、あなたは――」

「ああ、そうか、あんた、それでびびってるわけだな」


 そのあっけらかんとした態度に、わたしは思わず、


「いや、当たり前ではないですか!」

「ははは、それは悪かった」


 シャスカさんは、笑いながら、


「だいじょうぶだ。おれと一緒にいれば、なにもおこらないから」


 そういうのです。

 わけがわかりません。


「だって、どうして、そんなことが。そもそも、あなたは一体」


 何者なのですか。

 そう聞こうとして、それは命の恩人に対して、あまりにぶしつけで、失礼だと気がつき、わたしは口を閉じました。

 しかし、


「おれはな……」


 シャスカさんは、そんなわたしの意を酌んで


「逃げてきたんだよ」

「逃げて? なにからですか?」


 やはり逃亡奴隷なのでしょうか。

 それとも、まさか、なにかひどい犯罪を犯した、お尋ね者。

 さぐる目でシャスカさんを見てしまいましたが、シャスカさんはわたしのそんな様子を気にしたそぶりもなく、


「うん、まあ、なんというか、……とてつもなく恐ろしいものからな」


 と、身体をぶるっとふるわせて、いいました。


「おそろしい、もの」


 シャスカさんの顔を見つめると


「なんといったらいいかな……それは、おれの宿命というか……」


 やっぱり、よくわかりません。


「とにかく捕まったら最後だから、関を越えて、帝国からここまで、ひたすら逃げてきたんだが」


 悲し気に首を振っていいました。


「どうも、にげきれそうにない……というより、逃げるわけにはいかなくなってしまったようだ」


 最後の言葉は、自分に言い聞かせるような口調だったのです。


「あれを、見つけちまったからなあ……」




「さてと」


 シャスカさんが立ちどまったのは、狭い谷の底でした。

 両側から岩壁が迫っています。

 しかし、上は開けていて、青い空が見えました。

 その空高く、灰色の腸詰めのような形をしたものが、何体も、ゆったりと輪を描いて漂っています。

 そして、たくさんの黒い鳥が、その腸詰めのようなものにまとわりつくようにして、飛び交っているのです。

 あれは――。

 わたしはその黒い鳥がなんであるかに気付いて、ぞっとしました。

 あれこそが、ゾトの町に侵入しようとして撃ち落とされた魔物でした。

 翼をひろげると人より大きく、その鉤爪で子供くらいなら攫っていくことができる、ハルプ鳥という人食いの魔物です。

 あの化け物のせいです。あれが来たために、わたしのエセは。

 でも、ちょっと待て。

 ここからケシ粒のように見えるあの黒い鳥がハルプ鳥であるというのなら、あの腸詰めのようなもの、あれもきっと魔物に違いないのですが、それはなんという巨大さなのか。すくなくとも百メイグ、二百メイグの大きさがある、とんでもない化け物です。

 そんな化け物が、何頭も、あの凶暴なハルプ鳥をまるで歯牙にもかけず、ゆうゆうと空に浮かんでいる。

 あんなものが、もし、攻めてきたら。

 たとえどれほど防御をかためたとしても、人の住む町など、ひとたまりもないのではないでしょうか。

 足が震えました。

 そんなわたしに気がついたのでしょう、シャスカさんが


「あれは、鯨気ヴァゥガイストというものだ。人は襲わない、大人しい魔物だよ」


 そう教えてくれたのです。


「わるいけどな、あんた。ここで少し待っていてくれるか」


 シャスカさんが言いました。


「えっ?」

「これ以上近づくと、普通の人間はおかしくなっちまうからな」

「なんのことですか」

「うん、あんたの頭がへんになってはかわいそうだからなあ、ここでじっとしていてくれ」

「そんな」


 わたしは急に心細くなり、すがるような目でシャスカさんを見てしまいました。


「だいじょうぶだ、おれを信じろ」


 シャスカさんはいうのです。


「は、はい……」

「とにかく、ここで動くなよ」


 念を押して、シャスカさんはわたしから離れていきます。

 見ていると、谷をさらに奥に進んでいったのですが、そこには岩壁にまるで神殿の門のような張り出しがありました。そして、そこから奥に、洞窟なのでしょうか、暗い裂け目がみえました。

 その門の前で、シャスカさんは、わたしに、じっとしていろよ、と再度手まねをして、そして、中に入っていきます。

 わたしはそれを見ていましたが、シャスカさんの姿がみえなくなり、私一人がこの谷間にのこされて、そして空に浮かぶ鯨気とハルプ鳥を見ていると、どんどん不安になってきてしまい、そして申し訳ないことに、シャスカさんにたいする不信の気持ちもおこってきました。

 また、あの親方の時のようなことがおこるのではないか?

 無理もないですよね、あんな目にあったばかりなのですから。

 それで、我慢しきれず、わたしはそろそろと動き出し、少しずつ進んで、とうとう、シャスカさんの入っていった洞窟の入り口まで来てしまいました。

 そして、岩にはりつくようにして、中を覗き込んだのです。

 洞窟の奥の方から、明かりがさしているのでしょう、壁に光がちらちらと反射します。

 途中で洞窟が曲がっているのか、シャスカさんの姿は見えません。

 おそるおそる、洞窟に一歩ふみこました。


「……とまあ、そんなことが……」


 すると、洞窟の壁に反響して、シャスカさんの声が、かすかに聞こえてきました。


「……そういうわけなので……すみませんが、ひとつ……」


 どうも、だれかと話をしているようです。

 しかし、こんなところにいったいだれがいるというのか。


「……ああ、ありがとうございます、ほんと、たすかります……」


 シャスカさんが言い、そして、それに続いて、くすくすと笑い声が聞こえました。

 驚いたことに、それは、たおやかな女性の笑い声でした。

 なぜ、こんなところに。

 わたしがあっけにとられていると、次の瞬間


 ごおおおおおおおおおぅぅう!


 笑い声とはうってかわった、腹の底から響くような、野太い、魔物の雄叫びともいうべき咆哮が炸裂しました。


 おおおおぉうううぉおおおおううううぅぅぅおおおおおおんっ!


「ひいいいいいいっ!」


 洞窟の奥から響き渡る、その恐るべき獣の吠え声。その、圧倒的な殺気を含んだ、威嚇。

 わたしは魂が消し飛ぶような衝撃に、腰を抜かしました。


「あわわわわ」


 そして、必死ではいずって、洞窟から逃げだしたのです。


 転がるようにして、谷間にとびだすと、外でも異変が起きていました。

 鯨気です。

 あの、悠揚迫らぬ様子で空を漂っていた鯨気たちが、まるで気が狂ったように、でたらめな動きで身体をふりたくり、その急激な動作に巻き込まれたハルプ鳥たちが、ひとたまりもなくはじき飛ばされて、墜落していきます。

 ぐるぐると無目的に身体をくねらせていた鯨気の一頭が、仲間に衝突し、気を失ったように身体を垂直に立て、そして、らせんにその長い身体をねじりながら、まっさかさまに高度をさげてきました。

そう、わたしのいる、この谷底めがけて。


「うわわわわわーっ!」


 わたしの足はうごきませんでした。

 山が落ちてくるようなものです。

 逃げようもなく、どんどん近づいてくる巨大な鯨気をみつめるばかり。

 すぐそこまできた鯨気の頭部には、まるで人間のもののような、まぶたのある小さな目がいくつもあるのが見えました。

 小さな目は充血し、まばたきをばちばちと繰り返し、そのようすは、そう、なにかにおびえて我を忘れているかのようです。


「ひいいいいっ」


 わたしは頭をかかえて、その場にしゃがみ込みました。

 もうだめだ。

 生暖かい空気がどっとをわたしを押しつつみ、生臭いにおいがあたりに満ち、雨のように、なにかがぽたぽたとわたしの周りに降り注ぎ、そして突風の風圧でわたしは吹き飛ばされようになり――。

 そして、ふっと静かになりました。

 おそるおそる目を開け、様子を窺うと、落下して来た鯨気は、どこにもいません。見上げると、上空にまた、ゆったり漂う鯨気たちがいます。先ほどの鯨気も、体勢をたてなおして、あの中にもどったのでしょうか。浮かぶ鯨気たちは、今は同じ方向に頭を向けて、さらに奥地の、山脈の峰にむけて移動していくようでした。

 もう、先ほどの狂乱はうそのように収まっています。


「すまんすまん、驚かせちまったか」


と、シャスカさんの呑気な声が聞こえました。


「でもまあ、うまくいったぞ、ほら」


 みろ、とシャスカさんがいいます。

 そして気が付きました。

 あたり一面に、まるで煮凝りのような、ぷるぷるとした透明なものが散らばっていたのです。よく見ると、その煮凝りの中には、小さな光る粒がいくつも混じっています。


「さ、これを急いでかき集めるんだ」


 そういって、シャスカさんは、わたしの籠と熊手を差し出します。


「……はい」


 わけがわからないまま、わたしは言われたとおりに、熊手で、その煮凝りをかきとっては、籠に入れてきます。

 そうしているうちに、煮凝りはどんどん変質していきます。水分が抜けるのか、ぷるぷるした状態から、ねっとりとした泥のようなものに変わっていきました。色も、当初の透き通ったものから、次第に濁り、黒化していきます。

 黒い泥状で、そして光る粒がいくつも含まれ、独特の芳香を放ち――。

 鈍いわたしも、ここに至ってようやく気が付いたのです。


「まさか、これは?!」


 シャスカさんはにこりと笑って


「そうだ、これが本物の魔涎香だよ」


 というのです。


「魔涎香というのは、あの鯨気がつくるのさ。威嚇されて、恐慌状態になった鯨気が、身を守ろうと体表から分泌する体液が、外気に触れて固まったもの――それが魔涎香なんだ」

「ああ、そうだったのですか!」


 魔涎香がめったに見つからない理由がわかりました。

 あの上空を遊泳する、巨大な鯨気。あれを威嚇できるような存在が、たとえ穢れの谷であろうと、この世にそうそういるわけがない。

 基本的に脅かされることのない鯨気が、ごくごくまれに、彼を上回るような存在に遭遇し、恐怖におそわれて体液を分泌する、その体液が地上に落ちて乾いたもの――そんな稀な機会にのみ、生み出される魔涎香が、ありふれた物質であるわけがないのです。

 ですが――そもそも、鯨気を恐れさせるようなモノとはいったい何だというのでしょうか。

 どれほど恐ろしい怪物なのでしょうか。

 あの、魂を消し飛ばすような咆哮。

 鯨気は、まちがいなく、あれにおびえたのです。気が狂うほどにおびえたのです。

 そのとんでもない存在が、あの洞窟の中にいて。


「普通の人間はおかしくなる」


 シャスカさんはそう言いました。あれは、掛け値なしに本当の事だったのでしょう。

 あの洞窟に入ろうとするなんで、わたしはなんて無謀なことを。

 よく生きていられた。

 でも、シャスカさんは、そのものと、おびえるでもなく普通に話をして。

 いったいシャスカさんは何者なのか。

 そしてあの女性の笑い声は。

 なにがなんだかわかりません。

 わからないことばかりです。

 でも、ひとつ確かなことは、シャスカさんのおかげで魔涎香が手に入ったということ。

 これがあれば、大金を手に入れて、それで薬を買って、エセを、我が娘の命を救えるということです。

 一刻も早く帰らなければ、そしてお金を手に入れる算段を巡らしているわたしに、シャスカさんが言いました。


「なあ、あんたの家に、アマジャ茶あるか?」


 アマジャ茶は、野草であるアマジャの葉を干して作るお茶で、とても安価な、庶民の飲み物です。

 お金のない我が家では、お茶と言えばもっぱらアマジャ茶でした。

 それがなにか?

 いぶかるわたしに、シャスカさんが


「魔涎香をひとつまみ削って、アマジャの葉と一緒に煎じろ。茶の色が、紫にかわったらそれでいい。そいつを飲ませれば、魔気当たりはすぐ治るから」


 そう教えてくれたのです。

 

 

 それからシャスカさんは、わたしを、城壁のちかくまで送って行ってくれました。

 森から、荒れ地にでる手前で、わたしの身なりを整え、いや整えるというより、逆ですね、よりぼろぼろに見えるように、破いたり、汚したり。


「ふうむ、もう少し、悲惨にみえるようにしておくか? 気持ち悪いかもしれんが、がまんしてくれよ」

「あっ!」


 シャスカさんは、小刀で自分の腕を切りつけると、あふれてきた血を、わたしの顔や、服に擦り付けていきました。


「しゃ、シャスカさん!」

「ん? おれは大丈夫だから、気にするな」

「そんなことをいっても」


 わたしが慌てるのも構わずに、


「よし、これで、十分だろう」


 にやりと笑います。

 熊手をわざわざ、ばきりと折り曲げてよこし、


「うん、どこからみても、命からがら、逃げ出してきた駆け出しの猟人だ」


 そしていうのです。


「うまくやれよ、よろよろ歩いて、息も絶え絶えに見せてやれ。あんたは、親方といっしょに谷に入ったが、見つけた魔涎香を集めるのに夢中になっていて、魔物におそわれ、必死で逃げてきたということにするんだ。親方がどうなったかはわからない」

「でも、シャスカさん」

「いいか、おれのことは誰にもいうな。あんたは、おれには会っていない。森の奥にも行っていないんだ、あの叫びも聞いてない。いいな」

「は、はい」


 わたしの命の恩人の、そして娘の命も助けてくれるシャスカさんが言うのなら、わたしは何があってもその言葉に従います。


「さあ、行け。うまくやれ」


 わたしは、シャスカさんの手を握りしめて、深く頭を下げました。


「ありがとうございました、シャスカさん。本当にお世話になって」

「いや、いいから。それよりあんた、もう少し警戒心をもって生きていこうな」


 照れたようにシャスカさんは言うのです。


「はい……」


 そして、わたしは、森から荒れ地に、そびえたつゾトの長城の、城壁にむかって、歩き出しました。

 言われたように、よろよろと。

 城壁の、物見の兵士が、わたしを見つけ、なにか叫んでいます。


「うわっ」


 慌てたような、シャスカさんの声が聞こえました。


「あいつ、来やがった……もう、すぐそこまで……ああ……」


 それは、恐れと、あきらめが混じった、ひどく切ない声で。

 わたしが振り返った時、シャスカさんの姿は、もう、どこにもありませんでした。

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