第22話 救いの手
40)
「あああああーっ!」
親方が無情にも鎖を持つ手を離し、わたしの身体は、黒い涎を垂らして待ちかまえる土蝗の前に、落下していく——。
わたしはかたく目を閉じました。
脳裏に浮かぶのは、わたしを待つアスーリとエセの顔。
すまん、わたしがふがいないばかりに、お前たちを。
しかし。
親方の驚愕する声が。
「うおっ?! なんだお前?」
「ほらよ、あんたにもぶっかけてやるよ」
ザバリ!
「なにをするっ」
「あんたも下に、行ってこい」
ドガッ!
そして、ドサリと、ものが落ちる音。
ギィエエエエエエエエ!
土蝗の雄叫び。
「うわっ、うわっ? やめろっ、お前の餌は向こうだーっ」
親方が叫びます。うろたえた声色で。
なにが、いったい?
わたしがおそるおそるまぶたを開けると、まず目に入ったのは、向きを変えて、こちらに背を向けている土蝗の、てらてらと黒光りする甲殻。とがって伸びた尾の先からは、不気味な触手が出たり入ったりしています。
そして、土蝗の足の隙間からのぞいてみえるのは、顔をひきつらせ、向こう側の壁にぴったり張り付いている親方の姿でした。
いったいこれは、どうなっているでしょうか?
わけがわからないでいるうちに、鎖がぴんとはり、わたしの身体はするすると持ち上げられていったのです。
「やっ、やめろ! 来るなっ! おいっ、たすけろっ! たすけてくれっ!」
下では必死で叫ぶ親方。
山刀をふりまわし、迫る土蝗を近づけまいとしますが、そんなものが通用する化け物ではありません。
「あっ、あっ、あっ、ぎゃああああああああっ!」
絶叫する親方は土蝗の下敷きとなり、そして、あげ続ける悲鳴に、ばりばりと肉や骨を噛み砕く音が重なっていったのです。
41)
「なあ、あんた、なんでこんなことになってるんだよ」
手枷を解かれ、地面にへたりこんでいるわたしの足の傷に軟膏を塗り、手当てをしながら、わたしを救ってくれた男が、あきれたようにいいました。
この男は何者なのでしょうか。
こんな場所にいるなんて、この男もまた、猟人の一人なのでしょうか?
しかし、どう見てもそうは思えません。
猟人どころか、どんな職業もしっくりこない。
中背の、なにか特徴のない容貌の男でした。
その目はしかし、親方の、笑っていても酷薄そうだった目とは違い、優しげでした。
着ている服は、もともとはそれなりのものだったようですが、今、その服はずたぼろになって、あちこちに泥や血の痕もつき、まるで拷問でも受けたあとのようなありさまです。
破れた服のすきまから、男の首にのぞいて見える赤いものは首輪なのでしょうか。
とすると、この、得体のしれない男は、もしかしたら、逃亡奴隷なのかもしれません。
しかし、だからといってなんなのでしょうか。
親方の企みによって土蝗の餌となるところだった、わたしの命を、すんでのところで救ってくれたのですから。
感謝しかありません。
わたしは男にお礼を言い、名前を聞かせて欲しいとたのみました。
いまは無理だけれども、いつかこの恩を返さなければ。
「あ……おれの名か?」
男は、シャスカ、と名乗りました。
「で、あんたはここでなにをしてるんだ? あいつに——」
といって、あごで壺の底を示します。
わたしもそちらに視線を向けましたが、そこにはもう、親方といえるような
「自分から手をつきだして、あんなことするなんて。あんた、バカなのか?」
どうも、最初からわたしたちのことを見ていたようです。
「死にたかったのか? それにしては、たすけてくれって叫んでたしなあ……」
「いえっ、それは——だまされて」
そして、わたしは、シャスカというこの人に、わたしの事情を説明したのでした。
「ふうん……」
話をききおえた彼は、言いました。
「あいつもまあひどい奴ではあるが……あんた、やっぱりバカだな。人が良すぎる」
返す言葉もありません。
「で」
と、続けます。
「あんたの娘の、エセだったか、その子は、かわいいんだな」
「それはもう。自慢の娘です」
「なるほど……立てるか?」
わたしは、よろけながら立ち上がりました。
「うぐっ」
手当てはしてもらったものの、親方に斬られた足の傷はやはり、ずきずきと痛みます。
でも、まったく歩けないほどではありませんでした。
「なんとか……」
「ほう、あいつから分捕った軟膏、なかなか効くじゃないか。よかったな」
そういってシャスカはにやりと笑うのでした。
「じゃあ、行くか、ついて来な」
歩き出そうとするその人に、わたしはおずおずと声をかけました。
「あの……」
「ん? なんだい?」
「あの、土蝗の涎を、集めてもいいですか? 親方はあれが魔涎香だと」
「あ?」
シャスカは、呆気にとられた顔をして、ついでげらげら笑いだしました。
「はあ? あれが魔涎香だって?」
「親方は言ってましたよ、儂の見立てではまちがいないって。あれを少しでも持って帰れば、娘を——」
「ないない」
シャスカは、手をひらひらと振って言います。
「んなわけないだろ、あれはただの、化け物のよだれ。あんなものに効能があるわけないだろうよ」
「そ、そんなあ……」
力が抜け、がっくりとひざを突くわたしに
「心配するな、おれがなんとかしてやるから。さあ、ついて来なって」
そういって、手を差し出したのでした。
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