第21話 猟人(3)
39)
今、どこまで来ているのか、どれほど山の懐に深く分けいっているのか、わたしにはもうわかりません。
確かな足どりで先を進む親方に、ただひたすら従っていくだけでした。
「疲れただろう、少し、休むか」
汗だくになり、息を切らしながら、よろよろとついていくわたしに、親方がいいました。
たしかに、山歩きに鍛えられていないわたしの身体は、もうへとへとでした。親方が気付いてくれなかったら、ばったり倒れてしまったかもしれません。
ちょうどいい感じの倒木に、並んで腰をかけ、休憩をとることになりました。
親方は、腰にいくつかぶら下げた革袋の一つをとると、わたしに渡してよこしました。
革袋は、たぷんと揺れて、中に液体が入っているようです。
「飲め、疲れが取れる」
そういわれて、革袋の口紐をゆるめ、中身を口に含むと、なにか甘く、芳香のある液体がわたしののどを潤し、身体の芯がかっと熱くなって、また汗がふきだします。しかし、その熱さで、疲労困ぱいした足腰に力が戻ってくるのがわかりました。
「薬効酒だ。全部飲んでいいぞ」
疲れ、乾いた身体に、しみとおります。
むさぼるように、ごくごくとその酒を飲み干すわたしを、親方は鋭い目でじっとみています。
「あっ……親方は飲まないのですか?」
袋を空にしてしまい、もうしわけなく聞くわたしに、親方は
「ああ、儂はいらない」
そして、聞いてきました。
「お前、わざわざこんなことをするのは、どんなわけがある」
酒のせいなのか、思いがけなく親切にされたせいなのか、わたしは、胸がつまり、涙ながらに、自分の境遇を語りました。
魔に当てられた娘のために、どうしても急いで大金を稼がなければならないことを。
「なるほどな……それで、お前は、頼る相手もいないんだな」
「はい……」
わたしは、うつむいて答えました。
「この町には、身寄りは、妻と娘だけで。店の主も冷たくて……」
「そうか。それは心細いことだな」
そして、親方はいいました。
「実はな、儂は、今日は、なんとかして魔涎香を手に入れようと考えているんだ」
「まぜんこう、ですか!」
<魔涎香>——それは、穢れの谷から産出するモノのなかで、最高に貴重で、高価な品物です。紫色をした泥のような物質で、よく見ると、赤く光る小さな粒が混じっています。魔涎香は、加工するとえもいわれぬ馥郁たる香りを放つ香料であり、食べ物の味を変えてしまうスパイスであり、またおよそどんな症状も治してしまう万能薬の原料でもあり、その値打ちははかりしれません。しかし、この魔涎香が何なのか、どうやって生み出されるのか、だれも知りません。ごくごくまれに、穢れの谷の木の幹や、岩肌にへばりついているのが見つかるだけで、猟人といえども、実際に魔涎香を手に入れた者は数える程しかないという、そんな希少なものなのです。
狙って手に入るものではない、それくらいはわたしにも分かります。
「でも、それは——」
おどろくわたしに、親方はいいます。
「思いついたことがあってな。これは儂しか知らない」
自信あり気に親方はいいますが、もし、それほど貴重な魔涎香を見つける方法があるというのなら、その場にこんなわたしなどを連れてきて、いいのでしょうか?
わたしがそんなことを心配していると、親方は、さっと立ち上がり
「よし、もう歩けるだろう、行くぞ」
「は、はい」
わたしもあわてて腰を上げました。
歩き出してみると、薬効酒の効き目はすごく、わたしの足取りは、休憩前とはくらべものにならないくらい軽くなっています。ただ、酒のために、汗がとまらなくなって、服がぐっしょりとなってしまうのには閉口しました。
そして、親方について歩きながら、もしもこれで、魔涎香の、ほんのひとかけらでも手に入れることができたのなら、それで娘をたすけることができるのではないか? そんな望みが、じわじわと胸に湧いてくるのでした。
やがて、わたしたちは、開けた場所に出ました。
そこは、なんといったらいいのでしょうか、地面が、なにか大きな匙で円く、深くくりぬかれたような、まるで壺の底のような地形となっていました。その壺の径は三十メイグ、深さは十メイグはありそうでした。
わたしは、その縁にたって、下をのぞきます。
ぐるりは鬱蒼とした樹や蔦に囲まれて、枝が上の方まで張り出しているのですが、その壺の中だけは、なぜか草木がまるで生えず、岩が剥き出しになっています。
そして、その岩のあちこちに、何本ものふかい溝がきざまれていました。
溝の中は、暗くてよく見えません。
「あれは!」
下のあちこちに、灰色のものが転がっています。
そのいくつかには、ぼろぼろになった布きれか、皮のようなものが張り付いていました。
あれは、明らかに人骨です。頭蓋骨も、あばらの骨も、そして手足の骨も。
ばらばらになった人骨、それも何体もの。
まるで噛み砕かれたかのように、折れて、砕けて。
それが、壺の底に散らばっているのです。
「いったい、これは?」
わたしは、親方を見ました。
「気にするな、ただの屍だ」
親方はこともなげに言うのですが、わたしは恐ろしさに震えるしかありません。
いったい、ここでなにがあったというのでしょうか。
「ここからは、お前にも、手伝ってもらわねばならん」
親方は、わたしに、籠を下ろすようにいいました。
そして、荷物からとりだした鎖を放り投げ、頭上の太い木の枝にくぐらせます。
いったい親方が何を始めるのか、わけもわからず見ていると、
「両手を出せ」
言われるがままに突き出した、わたしの手首が、強い力でひとまとめにされ、がちゃり、頑丈な鉄の手枷がはめられてしまいました。
「ええっ?」
あっけにとられているうちに、親方が鎖をぐいぐいと引き、
「うあっ」
あっという間にわたしの身体は、張りだした木の枝を支点に、ぶらんと、宙につり下げられていたのです。
身体が揺れ、手枷が食い込んで痛み、肩もねじられて、抜けるようです。
「なっ、なにをするんです親方あ!」
叫ぶわたしに、親方はひどく静かな声で、
「だから、魔涎香を手に入れる、手伝いをしてもらうといっている」
「どういうことですかっ!」
親方は鎖を両手でつかんで、わたしを固定しながら
「儂はなあ、魔涎香というのは、土蝗がつくるものだとみておる」
土蝗というのは、土のなかにひそむ魔物です。
その姿をはっきりみたものはいないのですが、たいへん凶暴な、人を食らう化け物とされています。
「まさか……」
「魔涎香は、獲物をみつけた土蝗が垂らす、涎ではないかと思う、こんなふうにな!」
「うああああああっ!」
親方はわたしを蹴りつけると、その鎖をゆるめ、そしてわたしの身体は壺の中に墜落していきました。
「ぎゃっ」
わたしの身体は、壺の底に叩きつけられました。
「ぐううっ……親方……」
親方の顔が、縁からわたしを見ています。
その顔には表情はなく、冷酷にわたしのようすを観察しているのです。
「た、たすけて……親方……」
わたしが痛みにもがいていると、
ジュルジュル
ジュルジュル
ジュルジュル
不気味な音が、どこからか聞こえてきます。
いや、わかります。
あの溝です。
溝の中から、なにか、泥が流れるような音が聞こえてくるのです。
「ひいいいっ」
ジュルジュル
ジュルジュル
ジュルジュル
わたしがじたばたしているあいだに、いくつもある壺の底の溝から、黒い水のような、霧のようなものが湧き出してきました。湧き出したそれは、ジュルジュルと音を立てながら一つにまとまり、やがてそれは硬質の殻のように固まって、熊のように大きい、バッタの姿をした魔物となりました。
棍棒のように太く、ぎざぎざの刺を持つ、何本もの節のある足。
三つの複眼をもつ、無表情な昆虫の顔。
さらに恐ろしいのは、その口だけが、赤い唇をもった人間の口なのです。
「うえぇっ!」
これが、土蝗——。
複眼の焦点がわたしをとらえると、その唇がすうっとつりあがり、節足が力をためて、
バイン!
わたしめがけて飛びかかる——。
「おらよっ!」
まさにその瞬間、親方の掛け声とともに、わたしの身体はぐいっと引き上げられ、とびついてきた土蝗は、わたしの靴先を咬みちぎりながら、岩壁に激突しました。岩のかけらが飛び散ります。
「たっ、たすかった……」
間一髪。命拾いをしました。
いかに魔涎香のためとはいえ、さすがにこれはあんまりではないかと、親方に、文句を言おうとしました。
しかし。
わたしの考えはまだ甘かったのです。
親方は一向に、わたしを解放する気配はありません。
無表情に、わたしをぶら下げたまま、土蝗の様子をうかがっています。
そして、
「おっ、親方っ!」
わたしの身体は、すうっと下がっていきます。
「なにをするんですか!」
下では土蝗が待ちかまえています。
「やめてくださいっ!」
土蝗が身構え、飛びつく寸前に
「おらっ!」
また、わたしの身体は引き上げられる。
ギィイイイイッ!
獲物を目の前にして、手に入らない土蝗が怒り狂い、吠え哮ります。
その、鋭い歯のならんだ赤い口からは、黒い泡と涎が、だらだらと滴って、地面に垂れて、染みをつくっていきます。
「いい感じだ」
親方が満足げにつぶやきます。
「今回は、なかなかうまくいった。土蝗の好きな匂いが出るように飲ませた、薬効酒もよく効いている。土蝗は餌を食いたくてたまらないな」
そんな!
では、あのお酒を飲ませてくれたのは。
そういうことだったのですか。
わたしに気を使ってここまで来られるようにしてたのは、親切などではなく。
怒りと、絶望と。
「もっと、食欲を刺激してやるか」
「ぎゃあっ!」
親方は、片手で鎖を支え、もう一方の手で山刀を手にすると、わたしの足を切りつけました。
斬られてできたいくつもの傷から、血がぼたぼたと流れ、下にいる土蝗の顔に滴ります。
土蝗は、人間の口から長い舌をのばして、わたしの血を舐めとると、
ギィェエエエエエエ!
興奮して甲高く叫び、じたばたと足踏みを始めました。
「ううううう……」
親方は、なんどもわたしを上げ下げして、土蝗をじらし、涎を滴らせていきました。できるだけたくさんの涎を出すように、なんども、なんども、ぎりぎりのところで。わたしは悲鳴を上げ続けました。
やがて、わたしの声が枯れ果てる頃
「そろそろ、いいか」
親方が言いました。
(終わった……助かるのか?)
わたしの心に希望がさしたのですが、次の親方の言葉に、ふたたび絶望の底に突き落とされたのです。
「涎もだいぶ溜まったし、そろそろ、土蝗に食わせてやろう」
「そっ、そんな!」
叫ぶわたしに親方は、そんなこともわからないのか、という口調で
「満足しなけりゃ、土蝗は引っ込まないだろう。引っ込んでもらわないことには、さすがの儂にも、涎に手が出せないからな」
「たすけて、わたしは娘と妻のために、おねがいです、たすけてください!」
わたしは身をよじらせて懇願したのですが、
「ああ、あの話か」
親方はなんの表情もなく
「気の毒にな。一家全滅か……いや、帰ったら様子を見に行ってやろう、女房は売り飛ばせるかもしれんしな」
そういって、ぱっと、鎖をもつ手を離したのでした。
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