第20話 猟人(2)

38)


 城壁を抜けると、なだらかな荒れ地に出ます。

 その荒れ地の先に、急峻な西の山脈の峰みねから下る山すそが広がります。

 目の前にある山塊はその中央で縦に深くえぐれて、山の奥へと続いています。

 その裂け目を分け入った先に、あの穢れの谷があるのでした。

 親方とわたしは、熊手をかついで、進んでいきました。

 緊張するわたしに、親方が言います。


「おいおい、まだ、緊張する必要はないぞ。ここまで魔物がでてくるのは、日が沈んでからだからな」

「はあ……」


 しかし、そういわれても、わたしの返事は、硬いままでした。



 少し歩いて、山すそにたどりつくと、親方は立ち止まり、


「いいか、ここから先は、なにがあっても儂の言うことに従え」


 険しい顔で言いました。


「これはお前のためだ。儂の言う通りに行動できなければ、即座に命取りになることを忘れるな」

「はっ、はいっ」


 そしてわたしたちは、うっそうと茂った魔の山の中に足を踏み入れたのです。

 一見、そこは、わたしの知っている、人の領域の森と、そうはちがわないように見えました。


(これだったら、わたしひとりで来てもなんとかなったのかも。そうしたら、上前なんかはねられずに)


 などという考えが、ちらりとわたしの頭に浮かびましたが、それは、なにもこの穢れの谷のことを知らない者の、愚かな思い上がりであることをすぐに思い知らされました。


 ある場所では、親方はこう指示しました。


「ここから、あそこに見える木の根元にたどり着くまでは、儂の足跡を、正確に踏んで、ついてこい」


 いぶかしむわたしに、


「安全なのは、そこだけだ。お前の足が、儂の足跡から1セロメイグでも外れた場所に触れたら、その瞬間に、黄蛮虫がお前を地の底に引きずり込むからな」


 わたしは震え上がりました。

 そして、必死になって、力の抜けそうになる足を奮い立たせ、親方が靴を踏み下ろした場所をはずさぬように、そればかりを考えて歩いたのです。


 ある場所では、親方はこう指示しました。


「いいか、あそこにある赤い岩が見えるか」

「はい」

「今から、おれがいいというまで、あの赤い岩から目をそらすな」

「は?」

「あの岩から視線を外さずに、おれについてくるんだ」


 それはできそうにない、と言おうとしたら、親方が自分の熊手をわたしにのばし、ここを掴め、というのです。

 親方がその熊手を引くから、わたしは、その熊手に率かれて歩けばいいと。


「とにかく、赤い岩から一瞬でも目を離すな。もしお前の視線が、岩から外れたら、お前は死ぬ」


 緊張のあまり目がかすむほど、わたしはその岩をにらみつけ、そして親方に誘導されていったのです。


 経験豊富な猟人たちのあいだには、この魔の領域で難を避けるための、先人の命の犠牲の上に得られた知識が蓄えられているのでした。

 わたしは、いかにこの地が危険な土地であるか、そしてそんなところに、やみくもに入っていこうとした自分の無謀さを、あらためて思い知らされたのです。

 そして、この親方に見捨てられたら、間違いなくわたしはここで命を落とすだろうということも、はっきりと分かりました。機嫌を損ねてはならない、親方にたいする恐れが強まります。

 ところが、親方は、その口調や目つきとはうらはらに、意外にも親切でした。

 こんな足手まといなわたしを、きちんと誘導し、見守り、あるところでは手助けをいとわず、案内してくれるのです。

 わたしは、無事に帰ったら、できるかぎりのお礼をしようと心に誓ったのでした。


「おぅ、あそこに」


 親方がそういって、熊手を高く伸ばしました。

 目の前の巨木の幹、熊手がとどくぎりぎりのあたり。

 そこになにか白いものがあり、親方はそれを熊手の先の鉤爪でひっかけました。

 その白いものは、幹からはがれて、わたしたちの目の前にぽとりと落ちます。

 親方は、分厚い革の手袋をした手で、落ちてきた白いものを拾い、手のひらの上で、吟味しました。

 それは、まるでランプの火屋ほやのようなかたちをしたもので、木の実なのか、樹脂なのか、それとも生き物なのか。


「親方、それは?」


 わたしが聞くと


「ああ、これか? これはギボシというものだ。女が顔にぬる白粉の材料の一つになる」

「これが……」


 ギボシという名は知っていました。

 妻も持っている化粧粉に使われているものです。もっとも化粧品はなかなか高価で、わが家では気安くは買えないのですが。なるほど、ギボシの素はこれだったのか。わたしは驚くとともに、家で待っている妻の顔を、心配にやつれた青い顔を思い出し、胸が苦しくなりました。


(待ってろ、アスーリ、わたしがエセを助けるからな)


 気合いを入れ直す、そんなわたしの顔を見ていた親方は、手にしていたギボシを、わたしの籠に、ぽいと放り込みました。


「えっ?」

「これは、お前にやろう」

「ええっ? いいのですか」


 わたしはびっくりして、聞き返しました。


「そんな貴重なものを——」


 親方はにやりと笑い、言いました。


「ギボシなんかは、ちっとも珍しいもんじゃないんだ。いくらでも手に入る。こんなもの、くれてやるよ」

「あ、ありがとうございます!」


 わたしは感激して頭を下げました。

 親方は、たいしたものではないといいますが、それでも穢れの谷の産物であるからには、いくばくかのお金にかわることは間違いないのです。


「ありがとうございます」


 何度も礼を言うわたしに、親方は


「ふん。気にするな。儂はな、今回は、もっと大物を狙っているんだ」


 と答えます。


「そうなんですか」


 いったい、親方が狙っている大物とは、何なのでしょうか。わたしには想像もつきません。


「いい手を考えてあるんだ」


 そういって、笑うのです。


 その後も親方は、森を進みながら見つけたいくつかの収穫を、わたしにも分けてくれました。

 わたしひとりでは到底みつけられそうにない、あれこれのものを、気前よく分配してくれる親方には、感謝しかありませんでした。

 わたしは、はじめて親方に会ったときからの、酷薄そうな印象が間違っていたと思い、親方にたいして申し訳ない気持ちになりながら、親方の後をついていったのです。


 しかし。

 わたしはしょせん、危険の少ない町の中で暮らす、ふつうの人間にすぎませんでした。

 わたしの考えは、この魔の領域を渉猟するものたちに比べれば、どうしようもなく甘かった。

 親方とわたしが、穢れの谷の深みにまで、たどりついたそのとき。

 猟人としての親方の本性が、むき出しとなったのでした。

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