九
私の知るかぎり先生と奥さんとは、仲のいい夫婦の
先生は時々奥さんをつれて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行をしたことも、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は
当時の私の目に映った先生と奥さんの
妙に不安な心持ちが私を襲ってきた。私は書物を読んでものみこむ能力を失ってしまった。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓をあけた。先生は散歩しようと言って、下から私を誘った。さっき帯の間へくるんだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。私は帰ったなりまだ
その晩私は先生といっしょにビールを飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
「きょうはだめです」と言って先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。
私の腹の中にはしじゅうさっきの事がひっかかっていた。
「君、今夜はどうかしていますね」と先生のほうから言いだした。「じつは私も少し変なのですよ。君にわかりますか」
私はなんの答えもしなかった。
「じつはさっき
「どうして………」
私には喧嘩という言葉が口へ出てこなかった。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だと言ってきかせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
先生は私のこの問に答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。
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