第一章(地球)、私と少年と夏の怪異。
第一話、夏の始まりと少年と私。
七月。
雨に纏わる数々の事件を乗り越えた
霊体が見えるようになった(私は除く)からか色々なモノに絡まれるようになり、この一か月でずいぶんと逞しくなったように見える。表情も些か精悍で……もないわね。まだまだ少年は少年よ。
太陽眩しい登校路を進む少年を横目に、私は梅雨の時期、六月の事件を振り返る。
一つ、
弱い雨が降り続いた日、謎の蛙が甚伍の肩にへばりついた。振り落とすと次の瞬間一回り大きくなり肩に戻ってくる。一日傘を差さず雨を浴び続けることで蛙はいなくなった。翌日、甚伍は肩が重くて筋肉痛になった。ついでに風邪気味にもなった。
二つ、雨粒凶暴魚事件。
降ってくる雨粒が魚になり、甚伍の身体に噛みついてきた。傷は内出血からちょっぴり血が滲む程度までと、なかなかに痛そうだった。問題はその数で、すぐさま学校内に退避し対策を練ることに。魚には網を、ということで大きな網を美術室から持ってきて放り投げ、魚を捕獲。焼いて食べることで怪異を退滅した。翌日、甚伍は学校の先生に怒られた。あとお腹も壊した。
三つ、大雨止まない事件。
雨が止まず豪雨となった日があった。学校内にも浸水し、ついには屋上へ避難するはめに。ありえない事態への解決策は、そもそも雨を信じないこと。雨など降っていないのだから普通に帰れる。傘を差し普通に水の中を通り家に辿り着いた時点で解決。その日、甚伍はびしょびしょのびちゃびちゃでお母様に心配され怒られていた。
主な事件はこれくらいね。
他にも変な幽霊とか変な妖怪とかはいっぱいいたけど、走って逃げたり謎文字の護符を張り付けた傘で突いたりしたら撃退できてた。
胡散臭い護符だと馬鹿にしちゃいけない。
護符自体は神社でもらってきたものを甚伍の血を使って真似て複製したもの。護符というか呪符っぽいけど、一応効果はあるようなので甚伍も重宝している。
私の方は海鉱石人族とのあれこれが大変で、一応片は付いたけど、観光ツアーは魔法術と物理的なものでより安全面に配慮しなさいとお達しがあった。それと冬の季節は特に注意して、大雪の日は沖合に出るのを控えることとも。
全部あの突発的な竜巻が悪い。自然災害で海流ができるなんて運が悪いにもほどがある。次はめちゃくちゃ頑丈な安全ロープでも巻いて海に潜ってもらうんだから。――忘れましょ。今はこっちの世海のお話なんだから、私の世海はどうでもいいの。
ふわふわ漂い、椅子に着席する甚伍の斜め後ろ上空に陣取る。
窓の外を見ると、太陽が燦々と校庭を照らしていた。窓ガラスは開放され、風が淡いクリーム色のカーテンを揺らしている。
七月、夏の季節。
日本には夏という季節がある。私の住んでいる地域に夏なんてものはない。世海全体を見ればあるにはあるけど、基本的に春と冬しかないので個人的にはとても興味があった。去年はそれで熱さを一切感じられないことを忘れていてがっくりしちゃった。だから今年はそういった意味での期待はもうしていない。
一度味わった夏に新鮮さはない。けど、今年は今年でまた違うことがいくつかある。
一つは言うまでもなく、甚伍の巻き込まれ体質。妖怪とか怪異とか神様とか。そういうのと縁が出来てしまうようになったこと。
もう一つは私の精神干渉能力が上がったこと。具体的には甚伍との意思疎通が可能になった。
『甚伍ー。今日の予習は?』
「予習か……今日って授業なんだっけ……」
『ねえ教科書開きましょ?国語でいいから』
「国語、は午後からだよね……まあ、まだいいか」
ぽつぽつ呟いて、結局何もせず読書を始めてしまった。
この子はどうでもいい読書だと微塵も心の声をこぼさないので、朝の読書は全然楽しくない。甚伍は楽しくても私は楽しくないから面白くない。不満だわ。
とりあえず意思疎通(一方的な)ができることには変わりないので、それを存分に活用してこの夏は楽しもうと思う。
二週間後。
先月(六月)の忙しさが嘘だったかのように甚伍は平穏な生活を謳歌していた。
七月に入り、たまに絡んでくる妖怪は鞄に入れた謎文字の護符で撃退するだけの日々。怪異に巻き込まれることのない平和な日々だった。
そのような何事もない時間を経て、甚伍の学校生活はまた一つ変わろうとしていた。というか今日からお休みだった。
日本の学校には、夏休みという制度がある。
春休みも冬休みもあるけど、とにかくそんな不思議な制度があるのよ。夏休みは七月の中旬過ぎから始まって、八月の終わりまで続く。まあだいたい一か月ね。
その夏休みを、甚伍は去年怠惰に使い潰していた。お勉強は片手間、部活も片手間。寝て食べて読書して遊んで。私の人生じゃありえない時間の使い方は呆れを通り越して羨ましくさえあった。
私が彼と同年代の頃なんて、ひたすら勉強勉強勉強と。魔法術はもちろん他種族との円滑な交流の築き方まで、覚えることだらけで本当に大変だった。それが今活きているかと言われるとまた何とも言えなくて。もちろん役立つことも多いけれど、すべてがすべてそうじゃない。……だからこそ、私は少年の怠惰な生き方が羨ましく、彼の隣でのんびりぽやぽやしていられるのが楽しくもあった。
変わって今年。石海甚伍は十五歳。中学三年生。
日本の教育制度は小学校、中学校、高校、大学と分かれているので、甚伍は中学校から高校へ上がるため受験をしなければならない。私は最初から最後まで専門の学び舎でお勉強していたので、そういったことはなかった。
具体的に言うと、五歳から十歳――この世海風に言い換えると十歳から二十歳――までの間。実際には途中で実地研修みたいな形で今の職場に来たから、八歳くらいから働いてお勉強時間はもっと短いけど。
でもそう考えると、もうすぐ十歳になる私って働き始めて二年(甚伍の世海で言う四年)は経つのよね……。長い二年間だったわ。
数字だけにすると私より年上の十五歳な甚伍少年は今年が受験の年。だからなのか、夏期講習とやらに参加するとぼやいていた。意味は伝わったからわかるんだけど、別にそんなことしなくても学校のお勉強で頭に詰め込めるでしょ、と思わないこともない。
まあ、甚伍のお父様とお母様が勧めたことだしこの世海では一般的なのでしょう。たぶん。
夏休みに入って翌日の今日、甚伍は初めて夏期講習を受けに行く。
夏期講習は日本において塾と呼ばれる場所で行われる自主学習で、お勉強しに行く本人はあんまり楽しくなさそうだった。顔に笑顔がない。
『甚伍ー。お勉強しないと行きたい高校行けなくなるわよ?』
「行きたいところか。僕もそれ考えないとなぁ」
『ね?勉強は大事でしょ?』
「……勉強したくないなぁ」
『うんうん。応援してあげるから頑張って』
「……頑張りたくないなぁ」
顔はしょんぼりしてるけど、わかってくれたような気がしないこともない。
でもこの子って、行きたい高校とかあるのかしら。全然そんな話聞いたことないし、そこそこお勉強できる割に目的も何もないんじゃないかって思う。
困った。できれば幽霊とか神秘にかかわる学校に行ってほしいけど、そんな学校はないわよね。もしあったとして行ってほしくない気持ちもあるし。矛盾してるけど、自分から積極的に怖い目に遭ってはほしくないのよ。危険はだめよ。危ないもの。
夏の陽射しを浴びながらとぼとぼと歩いて、甚伍は塾に辿り着く。
家から十五分と少しの場所に立つ塾は小さな商店街の通りに面していて、表札に謎の文字が書かれていた。
「ステアーズ……ねぇ」
何やら呟き、建物に入っていく。
甚伍の家からそう遠くないだけあって、私たちは迷わず辿り着けた。初めてじゃないというのもあるとは思う。塾に入るからとか何とかで、ちょっと前に一度来たのよ。何にせよ、さすがにこの距離で迷うことはない。怪異が起きていた場合は……うん。そういう時もある。
塾の中は入ってすぐに靴を脱ぐところがあり、受付、廊下、階段があった。外見は意外と古めなのに、中身は新しく床や壁もピカピカで、古臭さなど一切感じさせない綺麗な内装をしていた。
「あの、すみません。今日から通う石海ですけど」
受付に人は居らず、奥に通じる部屋へ向けて甚伍が声をかける。たぶん誰かいませんか?とかそんな感じ。名前だけは聞き取れたので自己紹介もついでにしているのだと思う。私だったらどうするかな。"失礼いたします。本日十時にお伺いする予定でしたリィム・シィステラですがどなたかいらっしゃいませんか"、とか。
ここまで畏まらないかな。今日十時に約束していたリィムです。くらいかも。うん、これくらい。
甚伍は少年だし、きっとこれくらいで話してた。
『これくらいよね?』
「……?」
全然意味が伝わってなかった。ごめんね。確かに文脈ないと意思疎通も何もなかったわよね。
私の話を華麗に聞き流して、塾の人と話しながら甚伍は案内を受ける。
廊下を抜け、入ったのは横に長い部屋。長机が壁に沿って置かれていて、等間隔に少し突き出た仕切りが作られている。椅子の数は手前の壁に五つと向かいの壁に五つで計十個。
椅子に座ると完全に隣の人が見えないような作りなので、集中はしやすいと思う。
部屋の左側が少し空いていて、そこに先生用の机や椅子、パソコンが置かれていた。
個々の机に照明も置かれているし、一人分の範囲も広いから十分勉強ができる、はず。
これが個別指導か、と何とも言えない気持ちになる。
私の知る個別指導は、大人が数人横になっても余裕がある程度の部屋で行われる、一対一の完全な対面形式の授業だった。
深海の知識は当然にしても、他種族についての基礎知識は人によって学ぶ必要なかったから。広く浅く学ぶ人も、深く狭く学ぶ人もいて、得るべき知識に応じて教師が変わる形だった。まあそもそもの生徒数が少なかったっていうのも大きいとは思うけど。
子供に英才教育を施すのって、責任ある立場に親が就いているからなのよね。
最初から選択肢がないことは悲しむべきなのか、それとも決められた道に進めば良いだけと安心すればいいのか。
仕事をするようになって……大変なことばかりだけど、それでも悪い人生じゃなかったとは思う。お父様もお母様も、世海の橋渡しをするお仕事がどれだけ大変か、今ならよくわかるから。
「事前に行った実力テストの結果から、石海君には科目ごとの細かい部分や応用問題に触れてもらおうと思います。基礎に問題はないようなので、順番にやっていきましょう」
「はい」
「それじゃあまず、先日渡した塾の説明案内テキストを開いてくれますか?」
「はい」
私が物思いに耽っている間に、甚伍は早速お勉強を始めた様子。ちょっぴり緊張した顔をしていて可愛い。まだまだお子様ね。
部屋には今のところ甚伍しかいなくて、これから徐々に増えていくのかと思うと期待半分興味半分。どんな授業形式になるのか気になる。
宙を漂い、甚伍の上に陣取って彼の勉強風景を眺める。
教科書を開き、説明を受けながら答えていく。なんとなく、自分が学生だった頃のことを思い出して少し笑みがこぼれた。
今甚伍に勉強を教えてくれている先生は若い男の人。丁寧に理屈で説明してくれそうな雰囲気を感じる。
場所然り、人然り。
これなら勉強にも身が入りそうでよかった。
そうして、塾で授業を受けること一日。
途中で他の生徒が入ってきたり、お昼ご飯を食べたりとあったけど特に問題もなく終わった。
少年は実直に授業を受けて、嫌がる素振り一つ見せず真面目にお勉強していた。
甚伍は根が素直なので、なんだかんだ言ってもちゃんとやることはやる。
一人でいる時の文句くらいいくらでも聞いてあげましょう。頑張っている子を応援してあげるのが年上の役目だもの。
とはいえ、やっぱり授業中はやることがなくて暇なので、私はずっと少年の瞳を見つめ続けていた。海よりも空よりも綺麗で深い、宝石なんて言葉じゃ到底足りないような眩い一対の瞳。夢の世海における私の趣味の一つとも言えるかもしれない。……余人から見れば頭のおかしい趣味かもしれないけれど、高尚な趣味は高尚な人間にしかわからないものなのよ。つまり私は頭がおかしい人じゃない。そういうこと。
塾を出て、夕方。
時刻は早いもので十七時を回っていた。季節が季節だからか太陽は未だ高く、空には茜色に薄く色付いた雲が流れ漂っている。
「……
『なに?』
珍しく甚伍の方から声をかけてきた。
"守り人"。
最近甚伍が私のことを呼ぶ時に使う言葉。私の国にもあるし心でもこぼしたから意味はわかったけれど、やっぱり日本語は面白い。発音がいいわね、発音が。
考えつつ返事はしたものの、なかなか言葉が返ってこない。返ってきたとしても私にはほとんどわからないんだけど、なんとなくで伝わることもあるので話さない意味はない。何より、私が楽しいから話す。
「塾の生徒にさ、いたよね」
『?』
「守り人さんには見えなかった?僕すごい見えてたんだけど」
『ごめんね、全然わかんない』
私に話しかけてるのはわかるんだけど、真面目な相談はされても困る。少しでも情報流してくれなきゃ。
(あの生徒、絶対なんか憑いてたよね。しかも悪霊っぽいやつ)
あぁ、そういうお話か。それならわかる。だからこの子、こんな疲れて妙に強張った顔してたんだ。
『あまり近づかないようにしなさい』
「……うん」
こくりと頷く少年。あんまり元気がない。
お勉強で疲れたのと、初めての塾で疲れたのと、同じ部屋に悪霊のような靄が憑いた生徒がいて疲れたのと。私でも元気がなくなりそうな出来事に、甚伍は疲労困憊な様子だった。
陽が沈み、街灯が道を照らす。
とぼとぼと歩く少年の姿は頼りなく、それでも周囲に気を配り注意を怠らないのはどこか様になっているものがあった。
帰り道で何かが起こることはなく、今日は平和だった。
家に帰り家族と挨拶を交わす。手洗いうがいを済ませ、夕食となり母親、父親、甚伍の三人で食事を始めた。
「甚伍、塾はどうだった?」
「うーん……まあ、勉強は大丈夫そうだった。学校のより受験に出てくるようなテキストだったからちょっと難しいけど」
「そうか……。父さんはあまり勉強好きじゃなかったからなぁ。家でもちゃんと勉強を続けた甚伍は偉いぞ」
「ありがとう。でも僕も別に勉強は好きじゃないよ。ただやらないとって思うだけで」
「それでも十分だ。そう思えることが大事なんだよ」
今日の夕飯はお米と焼き魚と野菜の煮物と味噌汁だった。……味噌汁かしら。なんか色透明なんだけど。これ、あれね。お吸い物ね。私はあんまり食べないけど、私の世海にもそういう名前の料理あるのよ。食べるなら野菜の煮物かな。一番美味しそう。
「塾の先生はどうだった?」
「えー。普通かな。みんな頭は良さそうだった」
「そうか。……塾は続けられそうか?」
「――うん、平気平気。大丈夫だよ」
何故か言葉に詰まった甚伍は、微妙な作り笑顔を父親に向けていた。
会話の内容は……ご飯美味しいか美味しくないか?いえ、さすがにこの雰囲気でそれはないわね。
甚伍って友達いないし、最近は特に怪物とか霊体とかに絡まれるせいで学校でも腫れ物みたいな扱いになってたから、お父様も心配してるんだと思う。塾でやっていけるかの心配とか、そういうのかもしれないわ。
(……あんまり父さんと母さんに心配はかけたくないな)
わーお、大正解。
やっぱりそういう話だった。それはそうよねー。やっぱ心配よね。大丈夫よ、甚伍のお父様、お母様。私がちゃんと見守っててあげるから安心してちょうだい。
少年の両親の傍を漂い、任せてと手を振った。特に反応はない。
ちょっぴりしんみりした雰囲気のまま食事は終わり、寝る支度も整い、少年は自分の部屋でベッドに入る。
電気が消された静かな部屋。
甚伍が寝た瞬間にこの世海における私の意識もぷつりと途切れるので、今日はあと少しで終わる。明日の仕事は……そこまで憂鬱じゃないわね。今は余裕あるし、甚伍の方もたぶん塾通いで今日とそんな変わらない生活でしょう?なら、これからは少しの間変わらない日常って感じかな。……うん、それはそれで悪くないかも。
「守り人さん」
『んー、なに?』
感触のないベッドの上に寝転がりながら返事をする。守り人。悪くない響き。
「早く……大人になりたいな……」
うつらうつらとしながら放った言葉は何なのか。
私にはわからない。わからないけど。
『そうね……。でも今は、ゆっくり眠りなさい』
きっと私に同意してもらいたくて言ってきたことだったはずだから。寝る前のこの時間くらいは言葉がわからなくても頷いてあげて、ゆっくり眠らせてあげたい。
弱く心に干渉して眠りを促す。
甚伍は小さく頷き、静かに目を閉じた。
一日が終わる。明日がまた、やってくる。
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