第二話、塾と少年と私。
甚伍が塾に入ってから三週間が経った。
この三週間、事件もなければ異変もなかった。相変わらず空を飛んでいる四枚羽の烏は別として、その辺をうろついている霊体妖怪化生も別として。もちろん私も別として。
嵐の前の静けさというやつか。喜んでいいはずなのに素直に喜べない。何せずっと、甚伍の通っている塾の生徒から薄黒い靄が溢れているのだから。
「いってきます」
母親と挨拶を交わし、少年は今日も塾に行く。
歩く少年の頭上には雲一つない青空が広がっていた。夏の強烈な陽射しが降り注いでくる。
半袖に半ズボンという格好の少年は、それでも暑いとばかりに手で顔を扇ぎ歩いた。
塾へ行く途中の小さな橋では、涼しげな音と共に小川が流れている。先に飛んで橋下を見てみると、川で跳ねる魚がいた。水を蹴飛ばし、高く跳び上がる。衝撃で水面が揺れ、飛沫が光を反射してきらきらと輝いていた。ボールのように何度も水面を跳ね、徐々に高度を増していく。
『ねえ甚伍、川を見てみなさい』
「んー……」
怠そうに
(……なんだあれ?)
『魚?』
返事はない。少年はあまり興味がなかったご様子。というか興味を持ちたくないみたい。悪い感じはしないし見ていても害はないと思うんだけどね。
一歩二歩とゆっくり橋の欄干から離れ塾へ向かう甚伍を横目に、私は魚を見続ける。
跳ねて、跳ねて、跳ねて。
ついには私のいる高さまで跳ね上がってきた。
『甚伍―。ここまで来たわよ』
ちらと振り返り、自身の目と同じ高さまで跳び上がってきた魚に嫌そうな顔をする。可愛い。
そっと目を逸らした少年をふわふわと追いかけながら、視線だけは後ろに置いておく。
魚は跳び上がり続け、ついには空高く目に見えないところまで行ってしまった。そして戻ってこない。代わりとばかりに。
「いてっ」
甚伍の頭にこつりと何かがぶつかった。
彼が拾ったそれは、手で握り込めるようなサイズの薄い鱗だった。半透明で、太陽の光を反射してきらめき、陽炎のように揺らめいている。
『捨てない方がいいわよ』
私が伝えないとすぐさま捨てそうだったので、ちゃんとポケットにしまわせておいた。なんとなく、いつか役立ちそうな気がして。幽霊の直感ってやつ。
渋々ながらも鱗をしまった甚伍は再び歩き出す。塾に行く前から気落ちしているように見えるのは、きっと暑さのせい。私は太陽眩しいなってくらいにしか思わないけど、この子はたぶんすっごく暑いんだと思う。額から汗出てきてるし。
塾に着き、トイレで顔を洗って席に着く。
「石海君。先週も伝えましたが、今週末はお祭りがあるので塾そのものが休みです。自習室も使えないので注意してくださいね」
先生から何かの話があり、甚伍がこくりと頷く。それからすぐ授業が始まった。
先に座っていた生徒たちはそれぞれがそれぞれの勉強をしている。
三週間も見ていれば、この塾の指導形式がどういったものかはよくわかる。
私は最初、この塾個人指導っぽくないと思ったけれど、実はちゃんと個人指導だった。
甚伍の座った席、目の前の壁に板型のパソコンが取り付けられている。すぐ傍にはキーボードも置かれていて、生徒本人はヘッドホンをする。中にはイヤホンの子もいるので、その辺は自由なのかもしれない。甚伍は先生からもらったもの(新品のやつ)を使っているので詳しくはわからない。
ヘッドホンをして、パソコン越しにここにはいない別の先生と会話をする。声はみんな小さいので、それぞれが喋っていても意外と部屋は静かだったりする。
問題を解いている時は通話を切って、質問があれば再度通話して、もしくは連絡をしてと、予想以上に科学的な塾だった。
甚伍の生活を見ていても携帯が当たり前で、テレビが当たり前で、パソコンが当たり前なので、技術レベルとしてはこれくらいが普通なのかもしれない。私の知っているお勉強はお勉強でよかったけど、こういうのも新鮮で悪くない。甚伍本人も家とは違う環境で集中できているようだし、通っている価値は確かにある。
問題はと言えば。
『……』
じっと甚伍の斜め後ろにいる生徒を見る。
黒い髪に、紫の瞳の男の子。今は目が見えず、それでも後ろ姿でわかってしまう。なぜならその子からは黒い霧のようなものが漏れ出していたから。あまり広がらず、その子供自身に纏わりつくように漂う靄。
先ほどの面白い謎魚とは違って、この靄からはとっても嫌な感じがする。甚伍を近づかせちゃいけない予感がばちばち迸る。
とはいえ。
『……とはいえ、よねぇ』
溜め息を一つ。
三週間経っても、特に何かがあったわけではなかった。向こうからの接触はなく、甚伍から触れることもなかった。会話一つない、そんな相手。同じ部屋にいるだけで実害はない。だからこそ困っている。
こんな状況初めてで、今までだったら向こうから何か悪い行動をしてきて、こちら(甚伍)が対処すればそれでよかった。何もなく、待ちの姿勢で警戒だけし続けるのは疲れる。甚伍は勉強に集中するため半分くらいはこの生徒のこと忘れちゃってるし、私が警戒しなきゃいけないのはわかってるんだけど……。
私、夢の世海ではリラックスして癒されて楽しみたいのよ。甚伍本人が危険に曝されたら助けはするけど、そうじゃないなら別にどうもしたくない。朝から晩まで気を張って警戒し続けるなんて無理。そんな暇あるならずっと甚伍の瞳を見ていたい。海色に浸っていたい。
……。
…………。
………………。
キーンコーンカーンコーンと、チャイムが聞こえた。
いつの間にか時間が経っていたらしい。塾の授業時間は学校と違って六十分刻みなので思ったより早かった。嘘、普通に時間飛んじゃった。やっぱり甚伍の瞳って綺麗過ぎるわよ。私、惹き込まれて浸っちゃってたもの。
「ふぅ……」
甚伍が小さく息を吐いた。最初の授業が終わってちょっぴりの休憩。頑張ってる姿に頬が緩む。偉いわ、少年。お勉強頑張れ。
ひっそり応援しつつ、授業終わりに少しだけざわつく部屋を眺める。
知り合い同士っぽく話す子供たちと、一人静かに座っている子供と、トイレへと席を立つ子供と、お菓子か何かを食べる子供と。いろんな子がいる中で、例の靄の子は机に向かってまだ何かしていた。
どうせ私には靄が当たっても意味がないので、普通に近づいて覗き見る。
計算式がぱらぱらと。顔は難しそうに考え込んでいてお勉強中だった。ごめんね。嫌な感じの靄があるだけで普通の子なのよね。お勉強頑張ってちょうだい。
甚伍の下に戻り、少年との対話を始める。
『ねえトイレ行かなくていいの?』
「……どうしようかな」
(トイレは……まだいっか。それより夏祭りだ。夏祭り……どうしようかなぁ)
衝撃の言葉が甚伍の心から飛び出してきた。
『え、なに?ねえ夏祭りなんてあるの?』
「守護霊さん。今週末だよ、夏祭り」
今甚伍何か言ったわよね。ねえ!口に出しても私わからないんだってば!ちゃんと心で話して?ね?
『心で話してもらえる?ね?』
無視。
甚伍が意地悪だった。
この不完全極まる精神干渉能力、早く完全対話式まで進化してほしいものだわ。私の言葉が正確に伝わってるわけじゃないみたいだから中途半端な会話になっちゃう。甚伍の日本語は私にはわからないし、本当に困る。
命令なら結構効くのに、質問とか曖昧な話だと効いたり効かなかったりするの何なのかしらね。
でも……夏祭りか。
夏祭り。
去年もあったにはあった、はず。甚伍がそんな話をぽろっとこぼしていたから知ってはいる。知っているだけで行ったことはない。だってこの子、"暑いの嫌だから行きたくない"とか言って家から一歩も出なかったんだもの。その頃はまだオカルト的なことにもかかわってなかったし、お家でだらだらしてた。この世海での私と同じね。
夏祭りという存在そのものも甚伍の読む本から知ってはいた。真面目に本を読むときは国語の授業と同じでしっかり心で読み上げてくれるので、その辺から細かい知識は得られる。
私の住んでいる地域に夏なんてものはなかったので、聞いているだけでも結構楽しかった。それがまさか今になって出てくるだなんて。
お勉強のことと靄のことにばかり気を取られて完全に忘れちゃってた。
さっき甚伍、どうしようかな、とか何とか言ってたわよね。
『つまり、あれかしら。夏祭り行くのかしら』
独り言。
甚伍への精神干渉ではないので、私の気分の上がりようで口からついこぼれてしまった。
夏祭り。いいじゃない。楽しみだわ。
『甚伍……っと、なんでもない』
「……?」
私の呼びかけに反応して首を傾げる。何もないかと思ったのか肩を竦めて次の授業の準備を始めた。今の反応、微妙に腹立つわね。
でも、うん。危なかった。
夏祭り行きなさい、って精神干渉使っちゃうところだった。今じゃなくてもいいのよね。夏祭り前日とかで――。
『甚伍、夏祭りには行きなさい』
「……まあ、今年くらいはいいか」
(根の詰めすぎもよくないって言うもんね。週末だし、ちょうどいいか)
よしっ!さすがは私の甚伍!頷いてくれてありがとうね。やっぱり精神干渉能力って役に立つわよ。迷っている時に背中を押すのには最高に役立つ。
夏祭り前日に言えばいいって思ったけど、私って夏祭りがいつ行われるか知らなかったのよ。今甚伍が漏らしてくれたおかげで今週末だって知れたけど、全然知らなかったから。先に言っておいてよかった。今年もまた夏祭りのこと一切見ずに終わっちゃうところだった。危ない危ない。
夏祭り、楽しみね。どんなお祭りなのかな。私、日本のお祭りなんて初めてだから思ってた以上に楽しみかも。
わくわくドキドキしながらも甚伍の勉強風景を眺め、暑い夏の一日が流れて過ぎて終わっていく。
勉強して、勉強して、勉強して。
毎日変わらない景色を見ること数日。
気づけばもう、夏祭り当日が訪れていた。
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