第九話、幽霊として、また異世界人として得られたもの。

 他に何も音のない、海流の音がうるさいだけの世界で。まるでスローモーションのように僕の視界の隅でリィムさんが落ちていく。僕の上を、横を、通り過ぎるように落ちていく。

 彼女の顔には驚きが満ちていて、口元が中途半端に歪んでいた。


(何が――私は――――)


 思考が追い付いていないリィムさんに比べて、僕は嫌に冷静だった。幽霊の身体だからか、脳の処理がどうなっているのか考える時間は無限のようにある。ゆっくりゆっくりと、リィムさんが落ちていく姿だけが鮮明に目に映る。


 それは許せなかった。

 それだけは許しちゃいけないと思った。


 僕はこの世界において、ただの傍観者だろう。物一つ触れることができない幽霊で、誰とも会話すらできない、いるかいないかすらわからない存在だ。

 そんな僕だとしても、一人の女性のことは知っている。リィムさんのことは知っている。一方的でも、彼女のことはよく知っている。


 いつも本音を心の底に隠して、泣き言一つ漏らさず生きている人。

 僕がこの世界でずっと見続けてきた人。


 毎日仕事に忙殺されて、報われず、こんなところで死ぬ――かはわからないけど、ひどい目に遭うのは許せない。

 僕が突然の怪異に襲われて散々な目に遭っているのと同じくらい、許し難いことだ。


 この世界は、リィムさんは僕に残された癒しだと言うのに。


 許せるわけがない。


『――動け』


 幽霊ならできるだろ、僕。土壇場だろうが何だろうがやり切れよ。いっつも怪異やら化け物との争いはアドリブしかない辛いだけの状況なんだ。この程度切り抜けられなくてどうする。


 リィムさんを助けるくらい、やってみせろよ。


『――動けぇえええ!!』


 気合と、根性ぉぉおおおお!!!!


「え?……あ……」


 感覚があった。

 引っ張り、押し出す感覚。


 相変わらず海流の轟音しか聞こえない中で、リィムさんの身体を押し出す。理不尽な海流の範囲から外し、海溝に呑み込まれないようにと。


 物に触れているというよりも、ただ重さを感じているような。ものすごい重い物体を全身で支えている感覚。


『ぐ、ぐおおおおお……』


 重たい。リィムさん超重たい。直接触れてるわけじゃないから変だけど、僕だけ超重力を浴びているみたいだ。笑えない。リィムさんの体重がやばい。


「これは……?」


 重みに襲われながら当の激重リィムさんを見ると、何故かじりじり横に動きながら宙空(海中)に留まっていた。完全に僕のポルターガイストパワーの影響だ。この海流の中、横へのスライド移動は変としか言いようがない。


 困惑を顔いっぱいに広げて、それからすぐに移動を始めたのはやっぱりリィムさんだった。察しの良さがピカイチだ。


(よくわからないけど、とにかく早く海流の外に出ないと。でもこれは……海への感謝を忘れずにいたおかげかしら)

『僕のおかげですけどねぇぇぇっ!!!』


 確かに毎日お祈りしてるけどさ。これは僕のおかげなのですよ。気づいてくれなくてもいいけども!!


 めちゃくちゃな重みを支え、手を振ったり指を振ったりするリィムさんを動かし続ける。


 どうやら魔法が使えないようで、それを理解してすぐに泳ぎ始めた。忘れてはならない。ここは海の中なのだ。海流の影響は僕がカバーしているので、泳ごうと思えば普通に泳げる。

 もちろん上に向かおうとすればその分、僕の身体に重みが加わるのだけど。


『ぐぬぬぬううぅぅ』


 呻きつつも耐える。僕は幽霊僕は幽霊僕は幽霊。身体がなければ重みなんてあるはずないのさ。軽い軽い。ほら何も感じない。


「きゃっ!」

『うわあああ!リィムさんすみませんでも重いですぅぅぅ!!』


 ちょっと気を抜いたらポルターガイストが解けてしまった。危ない。がくりとリィムさんの身体が一瞬沈んでしまった。本当にごめんなさい。もう二度と止めませんから。


 その後は一切気を緩めず、ひたすらリィムさんを支えることだけに注力した。

 彼女が泳ぎ始めてくれたおかげで、思ったよりもすぐに海流を外れ海溝から脱出することができた。


 流れ続ける海流と、大口を開け獲物を待つ海溝から逃れるように合流した六人がその場を立ち去っていく。リィムさんを見て泣き出しそうな職員と、表情がわからないけどたぶん涙ぐんでいそうなゴーレムたち。


 僕はそんな彼ら彼女らの姿を見ながら、海溝に沈んでいく。


『……役目を果たしたものは、ただ消えゆくのみよ』


 軽口を叩ける余裕はあるも、身体は一切動かない。たぶん、ポルターガイストの反動だろう。幽霊パワー的な何かを使い果たしたのだ。これで気絶し、僕は元の世界に戻る。もしかしたら本当に死ぬ……それもいいか。現実感ないし、死も怖くない。地球にいる時はあれだけ怖かったものが、今はまったく怖くなかった。


『……』


 沈み続けること何分経っただろうか。

 世界が真っ暗だ。目の前も何も本当に一切合切すべてが暗黒。これが死後の世界か……と嘯(うそぶ)いてみても反応がない。まあ反応がないのはいつものことだけど。


 僕は、永遠にこうして暗黒世界を落ち続けるのだろうか。


 霊体の身体は壁を貫通する。有機物無機物問わず通り抜ける。つまり、身体に力が入らない――ちょっと待ちな。どうして僕は下に落ちてるんだよ。おかしいじゃん。そもそもこの世界のあらゆる力から外れているんだ。なら海流の影響もあるはずがない。重力も引力もなく、僕が海溝に落ちる理由はない。


 考察の時間だ。


 たぶん、さっきのポルターガイストで支えていた分の反動で下に落ちているんだろう。


 考察終了。

 早すぎるだろ。いやでも、真面目な話そうとしか思えないんだよね。無重力状態で一方向に進むとブレーキをかけようにもかけられなくて、何かにぶつかるまで永遠に進むと言うじゃないか。摩擦もなければ空気抵抗もなく、他からのエネルギーもなくて結果としてひたすら同じ速度で同じ方向へ進み続ける。


 僕の身体はポルターガイストの反動で下に沈み、僕自身が身体に力を入れられないから止まらず沈み続けてしまうと。そういうことなんだろう。たぶん。


『……そのうち回復するか』


 リィムさんはもう地上まで戻ったかな。無事に戻れたならいいんだけど……。と、思っていたら身体が下から横に動き始めた。


 真っ暗で何も見えないけど、感覚的になんとなく自分の動きはわかる。なんで動くのか……って、あぁ、そういえば僕、リィムさんから一定距離以上離れられないんだった。アンカーはポルターガイスト使った時に外れたのか。じゃなきゃここまで離れられるはずがない。


 じりじり動いている感じあるけど、これまだ海底を進んでいるってことだよね。

 僕、今どこにいるんだろう。

 いつの間にか海流の音はなくなったし、無音ってことはあれか。石の中にいるって状態か。


 こんな時、携帯でもあればな。いつものように宇宙戦艦を育てると言うのに。海中海底で宇宙戦艦とはなかなか。どうせなら海中戦艦とかもいいんじゃなかろうか。見た目戦艦だけど潜水艦並みに深海で行動できますよって。


 冴えた頭でどうでもいいことを考えていたら、ふと身体に力が入ることに気づいた。


『僕、復活』


 呟き、引っ張られる方向ではなく上を目指す。まずはこの岩の中から逃げよう。光が、光が欲しい。


 幽霊に光なんて、と自分に苦笑しながら飛び、すぐさま地中を脱出。勢いに乗ってぐんぐんと上を目指す。地面から出た段階で視界は開け、弱い太陽光が海中を照らし出していた。


 ある程度明るくなり見通しもよくなったところで、ひたすら僕の身体を引っ張ってくる方向へと向かう。何分だろうか。五分も飛べば見知った姿形の集団が僕の目に映り込む。


 のろのろとした足取りで歩く六人組。そのうちの一人は、海底にいるというのに色褪せず輝かんばかりの白金色の髪を揺らしていた。


『リィムさぁーーーーーーん!!!』


 歓喜の声で名前を呼び、僕の取り憑き相手であるリィムさんに近づく。


「ところでリィムさん。どうして私たちにかかっている魔法術は解けなかったんでしょう?」

「それは海中行動の魔法術のことでしょうか」

「そうですそうです」

「私が知るわけないでしょう、と言いたいところなのですが推測はできます。私も先ほどからずっと考えていました」


 何やら岩場を巡りながら歩いている六人組で、ゴーレムたちは全然普通に鉱石の吟味をしている様子だった。あれだけの危険に出くわしておいてと、この僕でもちょっぴり引いてしまう。豪胆か過ぎるでしょうよ。


 まあゴーレムたちはどうでもよくて。


『リィムさんリィムさん!僕ですよ!甚伍です!!やりましたねー!いやほんと、僕ポルターガイスト使えるようになったんですよ。ほら、えい』


 砂を巻き上げるつもりでリィムさんたちが歩くすぐ前の海底を動かした。


「おそらく、魔法術の強度が影響しているのでしょう」

「強度?」

「はい。マリテュールの召喚や術糸の形成には深海石しんかいせきの力をそう必要としませんよね?ですが、海中行動の基本魔法術を使うにはこのブレスレット程度の深海石が必須です」

「そう、ですね。これがないと術が不安定になってしまいます」

「使った力の量――つまり魔法の強度ですね。魔法の強度の差が、あの海流による影響を受けるか受けないかにかかわっていたのです。きっと」

「なるほど……とすると、あの海流は深海石がかかわっているのでしょうか……」

「……そうでしょうね。困ったことに」


 ん?あれ。全然砂巻き上がらないんだけど。なにこれ。


「ルルミさんやホロンさんはあのような海流は初めてで?」

「もちろんです」

「初めてですね。リィムさんも?」

「ええ、当然ですね。あのような海流が発生するとなると、海鉱石人族の観光ツアー計画だけでなく他にも色々と影響が出るのは確実でしょう。ひとまず地上に戻ったら上に報告をしないといけませんね」


 なんだろう。もう一度試してはみたんだけど、じっと見てたら砂粒が動いてはいたんだよね。こう、もそっと。もう一ミリとか一センチとかそういうレベルで、しかも砂粒三つとか四つとか、そういうお話よ。なに?これ。ポルターガイストってこんなしょぼいの?


 さっきの僕の大活躍はどうしたよ。意味不明なんだけど。

 リィムさん!意味わかんないんだけど!!


(はぁ……報告書……報告書かぁ……)


 ふわふわぶんぶんとリィムさんの周りを飛び回っていたら、ものすごく重たい溜め息が聞こえてきた。めちゃくちゃ嫌そうなんだけど……。上司に報告書書くのって、そんなに辛いのかな。


『……大人って、大変なんだな』


 ひゅんひゅんと動くのを止め、リィムさんの近くを漂って一緒に海中を進む。

 なんだか大人の世知辛さを知ってしまった気分だった。


 海の中は平和で、先の海流などなかったかのように静かで穏やかだった。魚が泳ぎ、藻類が揺れ、岩には貝が引っ付いている。ゴーレムが鉱石を手に取り品評をしている。職員三人は真剣な顔をしており、これからのことを考えて憂鬱そうだ。


 リィムさん含め職員の人のブレスレットが光り、声が聞こえてきた。

 相変わらず、僕には会話の内容は一切わからない。


 弱い太陽光に照らされた海底では水人形が行き交い、青く淡い燐光を散らしていた。

 僕はそっと、水人形の一体に手を伸ばし指を触れさせる。ポルターガイストの力を込めてみれば、水人形は反応してくれて、僕の指を掴むようにその小さな両手で挟んでくれた。


 温度はなく、感触もなく。

 それでも不思議な質感の柔らかさと軽さは感じられた。


『あぁ……』


 なんだか不思議と、目頭が熱くて。

 押し寄せてきた強い安堵感に身を任せ、触れていた水人形が再び海中をふわふわ飛び回りに行くのを見送る。頬を伝う涙が熱いのは気のせいだろうか。幽霊でも涙は流す。自分からあふれたものはきっと、地球と同じように熱さを感じるのだろう。

 ポルターガイストは笑っちゃうくらい弱いけど、水人形と触れ合うことはできた。


 ずっとずっと、一年以上何も変わらずただ見て聞くことしかできなかった僕は。傍観者に過ぎなかった僕は。

 ようやくこの世界に、海に満ちた異世界に認められた気がした。

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