第13話 グロッサー男爵夫人

グロッサー男爵夫人は焦っていた。


亡くなった夫が築き上げた資産がどんどん無くなっている。屋敷の使用人もグロッサー男爵家に見切りをつけて辞めてしまった。それでも、ルアンナの婚約者リカルドが婿入りすればなんとかしてくれると思っていた。夫のロイド・グロッサーは冴えない男性だったが、仕事だけはできた。だから、婿が働けば、またグロッサー貿易会社は持ち直すはずだ。使用人が減り荒れる屋敷の庭、粗末な食事、請求書の数々を見ないようにしてリカルドがルアンナと結婚する日を待っていた。


その日は珍しく、リカルドだけでなく両親のローバン侯爵夫人もグロッサー男爵家に訪れた。ローバン侯爵夫人は、複雑な刺繍の入ったハンカチを口元に当てて顔を顰めている。

リカルドは言った。


「婚約破棄してください。」



グロッサー男爵夫人の隣に座る娘のルアンナが声を上げる。



「どうして!リカルド様。私と結婚してくださるって言われたじゃないですか!」



ルアンナは、涙目でリカルドを縋りつくように見つめている。



グロッサー男爵夫人は最愛の娘が不憫でならなかった。グロッサー男爵夫人は、リカルドを睨みつけて言った。


「そうですわ。そんなに簡単に婚約破棄できると思っているのですか!ルアンナの気持ちはどうなるのです?」


リカルドは怯むように、体を後ろに倒した。




その時、ローバン侯爵が言った。


「簡単ではありませんよ。グロッサー男爵夫人。リカルドは平民となり働く意思を固めました。貴族籍を失ったとしてもグロッサー男爵家に入るのは嫌だそうです。私達も驚き、本人を説得してきましたが意志が固い。ですが、こちらに伺って我々も納得しましたよ。」


ローバン侯爵夫人も言った。

「まさか、グロッサー男爵家がこのような状態になっているなんて信じられませんわ。庭の手入れは出来ておらず、掃除も滞り、お茶からは酷い匂いがします。ロイド・グロッサー男爵はかなりの資産を残したはずです。まさか貴方達の装飾品に全て使ったのですか?」


グロッサー男爵夫人は、驚きローバン侯爵夫妻を見る。この縁談はローバン家から申し入れられた縁談だった。まさかローバン侯爵夫妻も婚約破棄に納得しているとは思っていなかった。


窓の外には、雑草と木々が生い茂り、日の光を遮り、室内は薄暗い。

最近は屋敷の中の掃除が滞り、部屋の隅には埃がつもり、蜘蛛の巣が張っている場所もある。

使用人がいなくなった為、グロッサー侯爵夫人自ら入れたお茶は、茶黒く濁り、きつい匂いを放っている。


(なんとか説得しないと、このままだと娘まで、私と同じようになってしまう。)



グロッサー男爵夫人は言った。

「もうすぐ、膨大な金額が手に入る予定ですわ。グロッサー貿易会社の株を売っているのです。国外から、沢山株取引の注文がありますの。お金さえ入れば、問題ありませんわ。」


ローバン侯爵は呆れたようにグロッサー男爵夫人を見て言った。

「まさか、家業の株にまで手をつけるなんて信じられないな。危険な事をする。貿易会社を手放すのですか?」


グロッサー男爵夫人は困惑して言った。

「手放すなんてとんでもありません。ただ、必要な金額を手に入れるだけですわ。」


ローバン侯爵は、残念な物を見るように、グロッサー男爵夫人とルアンナを見て被りを振った。

「婚約破棄いたしましょう。手続きは私が勧めておきます。リカルドは平民となる。貴方達も平民のリカルドと婚約は、されたくないでしょう。亡くなられたロイド・グロッサー男爵に敬意を表して忠告させていただきます。貿易会社の株は売ってはいけません。焼け石に水でしょうが、売るなら貴方達がたくさん身につけている宝飾品から売るべきです。」


娘のルアンナは、唇を噛みしめ、目の前の公爵夫妻とリカルドを睨みつけ言った。

「平民だなんて、、、、信じられないわ。」


リカルドは、言う。

「イリーナから全てを奪ったのはルアンナだったらしいね。俺はもう君たちに振り回されるのも騙されるのも嫌だ。苦労しても自分の手で働いて得た金で暮らす事にするよ。ルアンナも早く気が付いた方がいい。」


ローバン侯爵夫妻とリカルド公爵令息は、婚約破棄賠償金と引き換えに、サインされた婚約破棄の書類を持って屋敷から出て行った。


娘のルアンナは落ち込んでいる。あの時の私のように、、、、













ルチア・グロッサー男爵夫人は、帝国の伯爵家の庶子として生を受けた。庶子だが、父はルチアの事を可愛がり、伯爵令嬢として社交界デビューをした。そこで出会ったあの方にルチアは一目惚れをした。あの方には既に妻がいた。でも、いつもあの方を見ていると、あの方と妻はあまり仲が良くない事に気が付く。ルチアにもチャンスがあるはずだ。妻になれなくてもいい。愛人でもいいからルチアを受け入れて欲しい。


愛している。こころの底から、あの方だけを愛している。


だから、、、、



ルチアは、愛する人の寝所に忍び込んだ。薬を使い、朦朧とするあの人と愛し合った。

幸せだった。


ルチアを受け入れてくれたはず。


何度も目が合った。時々私に笑いかけてくれた。そう、当然のように隣に座る彼の妻より、私が相応しい。



誰にも気付かれず、寝所を後にしたルチアは、名乗りを上げる事が出来なかった。あの日以来彼の周辺の警護は厳重になってしまった。彼は何を勘違いしているのか刺客を捕えろと命令しているらしい。


捕まるわけにはいかない。でも、彼に会いたい。


そんな時、お腹の中に宿った命に気が付いた。


ああ、これで、私はあの方の側に行ける。


愛する人の側に、、、、、


ルチアは、皇城へ尋ねて行った。











子どもの事告げると彼は、激高した。ルチアの事を、酷くののしり否定する。「お前みたいな女は虫唾が走る。」「二度と顔を見たくない」ルチアは驚いた。お腹の中には彼の子供がいるのに、ルチアこそが、彼の隣に相応しいのに、、、どうして、、、、、

彼は、腰の剣を抜きルチアに近づいてきた。ルチアは尻もちをつき後退り、逃げようとする。彼が、ルチアに剣を振り下ろした瞬間、ルチアは恐怖で意識を失った。









ルチアが目を覚ますと、馬車の中にいた。目の前には、茶髪で茶眼の凡庸な男性が座っている。遠い親戚だと父から紹介された商人だったと思う。目の前の男性は言った。


「目が覚めたらしいね。僕の事は覚えているかい?ロイド・グロッサー男爵だよ。君は僕の妻となる。もう2度と帝国へ入る事は許されない。そのお腹の子は僕の子供だ。君のした事は大罪だよ。命が助かった事を感謝する事だね。」


ルチアは、殺されそうになった恐怖を思い出し吐き気がこみ上げてきた。

「う、う、う。」


ロイドはルチアへ言った。

「できれば我慢してくれ。伯爵家は君の事を追放したよ。服一枚さえ渡してくれなかった。さっき君の服が汚れていたから、侍女に着替えさせたよ。もうその服しか残っていない」


ルチアは言う。

「どうして、私が貴方の妻に?」


ロイドは言った。

「僕は君に興味がない。ただ、そのお腹の子の父親に頼まれたから引き受ける事にしただけだよ。あの方は自分の子供を殺せなかったらしい。僕に育ててくれと言われた。僕はあの方に恩がある。だから協力する事にしたのさ。子供には母親が必要だ。君はあの方の子供を育てる為だけに生かされている。その事を忘れないでくれ。」


ルチアは、震えた。

(私は、、、、私は、、、、、)





帝国を出て、隣国へ行きルチア・グロッサー男爵夫人となった。

あの時の子供は無事に産まれた。父親そっくりの銀髪に、紺色の瞳。私を殺そうとしたあの男にそっくりな娘。ロイド・グロッサーは、娘のイリーナにばかり高価な品々を買ってくる。(イリーナを育てる為だけに、生かされている。)私の愛を拒絶し、私を手酷く捨てたあの男は、会った事のない娘だけは大事だと、ロイドを通して伝えてきているようだ。娘が憎くて仕方がない。好きでもない男に無理やり結婚させられ、娘の為だけに生きろと命じられる。あの男にそっくりなこの娘さえいなければ、こんな事にならなかったはずだ。


ロイドがいない時は、イリーナを冷遇するようにした。イリーナを父親と重ね合わせ、仕返しをしているような気持になる。私を拒絶し排除しようとしたあの人が悪い。愛していたのに、今は憎悪しか残っていない。

ロイドは優秀で、グロッサー男爵家にはかなりの資産がある。中にはあの男からの援助金もあるかもしれないが、そんな事は関係ない。二人目の子供のルアンナは私にそっくりだった。グロッサー男爵領には付き合っている男性が数人いて誰が父親か分からなかった。


イリーナはいらない。私の子供はルアンナだけだ。私にそっくりなルアンナには、好きな人と一緒になって欲しい。そうルアンナが選んだ人と一緒に。それが、イリーナの婚約者だとしても、、、、









ルアンナはリカルドと婚約破棄して窶れてしまった。

買い物にも行かず部屋に引き籠って過ごしている。リカルドは平民となり、町の役所で働いていると聞く。ルアンナは一度リカルドに会いに行ったらしい。だが、相手にされなかったみたいだ。


この子には幸せになって貰いたかったのに、好きな相手と結ばれて欲しかったのに、うまく行かない。




今日は、国外の投資家がグロッサー男爵家を訪れる日だった。その投資家は、かなりの株を購入し、筆頭株主として会社経営について相談があると面談の申し入れがあった。


グロッサー貿易会社の株が購入されるたびに、現金が手に入った。だが、収益が激減しているグロッサー貿易会社の株はかなり低価で取引されている。現金は、屋敷の管理費、貿易会社の経費、生活費にどんどん消えていった。


投資家なら、うまく行かない会社経営をなんとかしてくれるかもしれない。貿易会社さえ、うまく行けば、またもとの優雅な暮らしに戻れる。そう思っていた。


屋敷の外から、大型馬車が近づいてくる音がする。


グロッサー男爵夫人は、立ち上がり、娘のルアンナを呼び出した。投資家が、美しい娘を見初めるかもしれない。そうすれば、グロッサー貿易会社もその利益も、また私たちの物に、、、、


屋敷の中央の螺旋階段を降り、重厚感のある玄関のドアを開けた。


まぶしい光が、屋敷の中に差し込んでくる。


おもわず、グロッサー男爵夫人は瞳を細めた。


光は太陽の光だけではない。目の前にいる人物の長い銀髪が輝きを放ち、紺色の瞳は罪を暴くようにグロッサー男爵夫人の心の奥深くを見ている。


「ど、どうして、イリーナ。」


久しぶりに再会した娘に声をかけた。





「お久しぶりです。お母様。ルアンナ。私はリム商会会長イリーナと申します。


グロッサー男爵家から貴方達が追放したイリーナですわ。


今日は商談があり、参りました。


もう、グロッサー貿易会社の株式の過半数以上をリム商会が取得しています。


ねえ、お母様、ルアンナ。


私に、御父様が残してくれた物を


私が引き継ぐ予定だった会社を


返してください。」





少し見ない間に、見違えるほど美しくなったイリーナは、憎いあの男そっくりの銀髪を風に靡かせながら、妖艶に微笑んでいた。

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