大切な光を胸に抱いて⑦


 帰宅してすぐにシャワーを浴び、気がついたらそのまま深く眠っていたらしい。

 莉奈が瞼を開けると、カーテンの隙間から日差しが差し込んでいた。その角度からもう昼近いと予測して時計を見ると、既に十時半だった。


 脱ぎ散らかした服が部屋に散らばっている。それをつま先で蹴りながら、莉奈は洗面台に向かった。

 顔を洗って化粧水をつけ、まだぼんやりとした頭のままでテレビのリモコンを手にした。この時間にはたいした番組はやっていない。


 気が済むまで寝たからか、昨日うまれた黒いもやもやは小さくなっていた。

 それでもまだ、胸の奥で燻っている。


 テレビの音をBGMにして部屋を片付けているうちに、一時間ほど経っていた。

 洗濯をしてハンガーにかけっぱなしだった服を適当に着る。部屋にいると、気が滅入りそうになってしまう。

 どこか出掛けてしまおうと、財布とスマホを手近なバッグに放り込んでショートブーツを履いた。


 外は思ったよりも暖かかった。日差しが降り注いでいるので、頭のてっぺんからじんわりとあったまってくる。


 少し歩いて越後湯沢駅に到着した。駅前の足湯には、四人家族らしい利用客がいる。

 その光景を横目に駅の中に入り、改札と反対側の奥まで進んで行くと、見覚えのある人影があった。

 気づかれないように通りすぎようとしていたのに、その人物は最悪のタイミングで莉奈のほうを振り向いた。


「桐島さん」

「……ほんと、タイミングがいいね。栗原くんは」


 意味を図りかねている栗原に片手を上げて、そのまま進もうとした。

 だが、追い越す寸前で手首をぎゅっと掴まれる。


「……何?」

「いや……一人で何しに来たのかなと思って」

「栗原くんだって一人じゃない」

「俺のことはいいんですよ」


 夜勤明けで昼飯食いにきただけなんで、と、栗原は言う。


「ラーメンにするか蕎麦にするか決めかねてました」

「そんなことを真顔で言われても……わたし、ご飯の気分じゃないし」

「酒でも飲むんですか」


 栗原の言葉に、それもいいな、と思った。

 外に出てしまうことが目的だったので、何をするかなどまったく考えていなかったのだ。


 奥まで進めば日本酒の試飲コーナーがある。ワンコインでいろいろなお酒を味見できるので、観光客にも人気なスポットのひとつだが、今日はまださほど混んでいないだろう。


「そうしようかな」

「ええ……本当ですか」

「何よ、悪い?」

「そういうわけじゃないですけど、なんかちょっと元気がないみたいなんで、アルコールを入れて大丈夫かなと」


 やはり自分の顔色は良くないのだと悟った。大丈夫だよ、と言って笑ってみせる。


「昨日は疲れたけど睡眠はちゃんととったし。ねえ、せっかくだから一緒に行かない?」

「知らないところでぶっ倒れられたら寝覚めが悪いので、付き合いますよ」


 微妙に言い訳がましい栗原の返事を聞いて、莉奈は足を踏み出した。

 案の定、数人の先客はあるものの空いている。


 受付でコインを五枚ずつ受け取って中に入った。百種類以上の日本酒がセットされたサーバーが壁一面に並んでいる。ラインナップはたびたび変わるので、いまだにコンプリートできていない。


 天神囃子という酒を選んで、お猪口に注ぐ。酒米の香りがはっきりわかる風味があるが、軽やかな味わいだ。隣では、栗原が伝右衛門を飲んでいる。


「どんな味?」

「けっこう飲みやすいですね。うっかり飲みすぎてしまいそうな感じの」

「わあ、危ないやつ」


 そのあともいくつかの酒を飲みながら味の情報交換をする。

 最後の一杯をそれぞれ注いだ頃には、頭の奥がほんわりとアルコールに冒されたようにゆらゆら揺れる。

 同時に、涙腺が緩んで、何のきっかけもないのに涙がこぼれ落ちた。


「……なんで泣いてるんですか」

「あ、あれ、なんでかな」


 笑おうとするが、うまく笑えない。笑っているつもりなのに、その意思に反して涙が落ち続けている。


「もー……」


 栗原がハンカチを取り出して、頬を拭ってくれた。ぐい、と力任せなその仕草に、かえって優しさを見出してしまう。


「……情けないな」

「何がですか」

「なんか、みんなちゃんと前に上に進んでるなって」


 抽象的な言葉でごまかしたつもりだった。自分の中で感情も思考も整理できていないのに、話せないと思った。

 だが、栗原はその逃げを許さなかった。


「それで、桐島さんはどうするんですか」

「え……どうする、って」

「みんな進んでるってわかってて、桐島さんは何もしないんですか」


 栗原は景気付けのように、お猪口を一気に呷った。


「ただそれを、後ろから眺めるつもりですか」

「なに……なんでそんなこと言うの」


 指先が震える。手に持ったままのお猪口を落としてしまいそうで、なんとかカウンターの上に置いた。


「梅本さんから聞きましたよ。昨日話してから様子がおかしいけど、それは自分の言ったことのせいで悩ませているだけだと思う、でも自分は今話しかけられないから、助けてあげてほしい、って」


 脳天がどこかに転がり落ちたような感覚を覚えかけた。

 だが栗原は、俺はそんなに優しくないので、と続けた。


「助けてなんかあげません。そんなことで悩むくらいなら、ちゃんと自分で這い上がってください」

「そんな、言い方……後輩のくせに」

「社会人の一年なんて誤差です。何に呻いてるのか知りませんが、さっさとそんなもん、解決してください」

「好き勝手言わないで。この感情にどう折り合いをつけたらいいのかわからなくて、惨めで嫌なの。這い上がるとか、それ以前に手をかけるところが見つからないの」


 少ないが周りには他にも客がいる。声を張り上げて駄々をこねない程度の理性はまだ残っているが、口の動きは止められなかった。


「梅本がそうやって気を回すのも嫌なの。わたしはまだ未熟で足りてないんだって思い知らされるようで、そんなつもりじゃないってわかっているのに僻む自分が嫌い。追いつけない自分が悪いのに、先を行く人を見て、焦って羨んでばっかりいて、でも何をしたらいいのかわからなくて、このままずっと足踏みしかできないのかな」


 何を言っているのか、自分でももうわからなくなっていた。

 言葉だけが勝手に口から溢れ出して、自分の耳にはまるで脈絡のない単語の羅列にしか聞こえない。


 それでも栗原は何かを汲み取ったらしい。

 何も言葉が返ってこない沈黙に思わず顔を上げると、さっきまでの仏頂面が消えていた。


「そんなこと、言う必要ないです」

「え……」

「梅本さんは梅本さんだし、桐島さんは桐島さんでしょう。何がだめなんですか。同期だからって焦るのはわかりますけど、同じである必要、あります?」


 山形に行きたいんですか。

 栗原ははっきりとそう言った。


「……知ってるの」

「聞きました。どうせあんたは一から十まで話さないとまともに取り合わないでしょ、って、ため息混じりでしたけどね」

「別に……行きたいわけじゃないよ。わたしは新潟が好きだし湯沢の町が好き。ここで働いていたいと思ってる」

「じゃあなんで、そんなに思い悩んでいるんですか」

「なんで、か」


 胸の奥で渦巻いていた感情をめちゃくちゃに吐き出したおかげか、心は少し凪いでいた。ゆっくりと自分の思いに向き合う。


「……そのことが、力を認めてもらえた証に思えて」

「証、ですか。」

「うん。ほら、ホテルマンの仕事って目に見えないものばかりでしょ。ものを売るとかじゃなくて、体験が価値になる仕事じゃない。それにお客様は、この人の接客が良かったとか、あの時のサービスが嬉しかったとか、そうやって言葉にしてくれる方ばかりじゃない。多くはチェックアウトしたらそれきりになってしまうでしょ」

「そうですね」

「今回のことでね、わたし、誰かに明確に評価されたことってあんまりなかったなって気づいたんだよね。だから、梅本や桜庭さんがその実力を認められて、蔵王の研修要員として異動になるってすごいなって思うのと同時に、自分にはまだその力はないんだって思ったんだ」


 納得はしている。広い視野で現場を見渡せる桜庭と、部署内の仕事だけでなく他の部署との連携も細やかな梅本は、新しく採用されるスタッフのいい手本になるだろうし、安心して働ける環境になることは想像できる。だからその人選に異論などない。


 それに、自分にその声がかかっていないからといって、未熟だと言われているわけではないことも、脳の冷静な部分で理解はしている。


 それでも、足元がぐらつくような感覚は消えない。

 わかっているのに、自分で勝手に弾き出した架空の結論に囚われて抜け出せなくなっているのだと、ようやく少しだけ客観的になれた。


「……俺は、行ってほしくないので、いいんですけどね」

「え?」

「桐島さんにはずっとホテル雪椿にいてほしいです。少なくともフロントの後輩たちはそう思ってますよ」

「そうかな」


 まだ自信が持てないまま、曖昧に視線を逸らすと、栗原は語気を強めた。


「フロントでゲストと話す桐島さんはすごく生き生きとしていて、ゲストのことを大事にしているのが後ろからでも、遠くからでもわかります。だからこそ、みんな桐島さんにいろんなことを話したくなるんだと思います」


 この冬に出会ったゲストの数はあまりに膨大で、全てを覚えているわけではない。

 ただ、チェックインや滞在中、あるいはチェックアウトのわずかな時間に、彼らの心の奥底の柔らかい部分に少しだけ、触れさせてもらった。


 絶望、希望、迷い、後悔、夢。


 それを共有してもらえるようなホテルマンとして、胸を張ってもいいのだろうか。


「そういう姿をもっと見せてほしいです。俺たちにも、これから入ってくる新しい子たちにも。それが桐島さんの持つ、最大の強みだと思うんです」

「ぴんとこないよ」

「自覚していないだけです。でもだからこそ、肩の力が抜けた、自然体なところがいちばんの魅力になっているんだと思いますけどね」

「なんか、まるで口説き文句みたい」


 思わず吹き出すと、栗原はその頬をわずかに赤らめた。


「そう思ってもらってもいいですけど……」

「なに? どういう意味?」

「解釈はご自由にどうぞ。それより、そろそろ昼飯行きません? つけ麺でどうですか」


 栗原は照れ隠しのように、先に歩き出した。莉奈が慌ててお猪口を飲み干して追いかけても、栗原は頑としてその言葉の意味を教えてはくれなかった。




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