大切な光を胸に抱いて⑥



 会場内ではグラス類の回収が終わり、男性陣がテーブルや椅子を搬出する作業中だ。彼らはジャケットやベストを脱ぎ捨てて仕事に徹している。

 桜庭など、ジャケットだけでなく白のワイシャツまでも脱ぎ捨てて、下に着ているTシャツ一枚になっている。


 開け放たれたドアから、梅本はその様子を横目で眺めた。

 ひとつ息を吐いて、グラス磨きをしている漆間に近寄る。莉奈は近くにいなかった。


「漆間さん、ちょっといい?」

「あ、梅本さん。どうかしましたか」

「うん。すぐ終わるから、ちょっと顔貸してくれない?」


 わかりました、と頷いた漆間を先導して、梅本は歩き出した。料飲用のリネン倉庫に入る。ここなら、莉奈が来ることはまずない。


「桐ちゃんのことなんだけどさ」


 壁にもたれかかって、息を吐くのと同じように梅本は話し始めた。


「桐島さんですか」

「うん。なんか、ちょっと様子がおかしいんだよね」

「確かにそうですね。ずっと考え事をしてるような、ちょっと意識が上の空っていうか」

「やっぱりそう思う?」


 漆間は大きく頷いた。


「いつもの桐島さんじゃないみたいです」

「そうだよね」

「はい。桐島さんがあんなに悩んでるふうなの、見たことないです」

「漆間さんにとってさ、桐ちゃんってどんな人?」


 漆間はうーんと悩んでみせた。

 なんとも言えないというよりは、より的確な表現を探しているようだ。


「桐島さんって、無責任なことは言わないけど、地に足ついた言葉で背中を押してくれるような人じゃないですか。ふわっとした言葉でなんとかなるよ、っていうんじゃなくて、ちゃんと後輩のこと見てくれてるなっていうのがわかるので、安心できるんです。仕事を怖がらなくていいんだって思えて。わたしはどうしても自信が持てなくていつもネガティブになってしまうんですけど、桐島さんに何度も背中を押してもらっています」


 梅本は漆間の目を見た。もうすぐ三年目になり、相応の実力はあるものの、自信がともなっていない、と、莉奈は以前彼女を評価していた。

 もっと自分のことを信じられるようになってほしい、とも。


 今その言葉を、そっくりそのまま莉奈へ返してあげたい。何をそんなに悩んでいるのかわからないが、彼女には彼女にしかない良さが、強みがある。

 漆間だってそれを知っている。


「ずっと表情が浮かないの。仕事でミスしてへこんでるような感じじゃないんだけど。わたしと話した時から変だったけど、その後はちょっと輪をかけて悪化してるみたいで」

「何か話したんですか?」

「うん、ちょっとね。それがきっかけなんだろうなっていうのはわかるんだけど、わたしの発言が理由なんだとしたら迂闊に突っ込めないでしょ。でもちょっと危なっかしいから、気にかけていてほしいんだ」


 蔵王への異動については、まだ一部のスタッフへの打診の段階だ。

 公にはなっていないので、心苦しさを感じつつも具体的な内容はごまかした。


「よくわかりませんけど……梅本さんがそう言うなら、引き受けますよ」

「ありがと。ごめんね、時間とって」

「いえ。先に戻りますね」


 漆間はそう言って、早足で戻っていった。


 蔵王の新ホテルはまだ準備中で、オープンまではまだ時間がかかる。

 だが、スタッフの教育は並行して行わなくてはならないため、異動が決定すれば夏が始まる前には引っ越すことになる。予約業務に関しては、ホテルの建物そのもののオープンより前に動き出す業務なので、フロントや料飲のスタッフよりも早く募集をかけるのだという。


 話があったのは一ヶ月ほど前だ。彼氏からプロポーズを受けて結婚の準備を始めた矢先のことだった。


 ――新しいホテルに、予約係の教育スタッフとして行かないか。


 高桑から呼び出されて聞かされたときはさすがに驚いた。


「わたしがですか」

「そうだよ」

「わたしに務まるでしょうか。教えるのは特別得意ではないですが」

「梅本さんなら大丈夫でしょう。よく周りを見ていて、先輩後輩に関わらずものを言える人だから。それに、教えることそのものはマニュアルをきちんと作っておくから、そんなに気負わなくていいよ。どちらかというと、現地の新スタッフのフォローのほうが大変かもしれない」


 予約システムはホテル雪椿で使っているものと同じものを導入するそうだ。他にもグループホテルから異動するマネージャークラスのスタッフが入る予定らしいが、現場とマネージャーを繋ぐ中間ポジションとして自分が求められていることはわかった。


「……近いうちにお話ししようと思っていたんですが、わたし、結婚することになりまして」

「え、そうだったの? それはおめでとう。お相手はこのへんの方?」

「はい。八海山のスキー場で働いています」

「そっか、それじゃあ……」

「いえ。持ち帰らせていただけますか」


 話の流れで、断られると思っていたのだろう。

 虚を突かれた高桑の表情に向かって、梅本は頭を下げた。


「お話自体には興味があります。ただ、わたし一人で決断を下せる状況にはないので、少し時間をください」

「それは……もちろん。でも、無理だけはしないで。僕はあなたを推薦したい、という段階の話だからね。もちろん、受けてくれたら嬉しいけど」

「ありがとうございます」


 その夜、彼氏と話をした。地元が山形だということは知っていたが、思ったよりも蔵王に近い場所であると教えられた。


「里帰りして、地元で働くことにするのもありかな。少し時間もらってもいい? 今の上司に相談してみるよ。ツテもあるかもしれないし」

「いいの? そんな簡単に決めちゃって」

「うん。だって夏希はやりたいって思ってるんでしょ? だったらそれを尊重しない選択肢はないよ。俺はスキー場ならどこでも働けるしさ」


 スキーインストラクターである彼は、白い歯を見せて笑った。

 そうしてそれからしばらくして話がまとまり、梅本は正式に高桑に返事をしたのだった。


 高桑から、自分の素質を評価されたのが嬉しかった。だからその期待に応えたいという気持ちもある。

 このままホテル雪椿で働くことしか考えていなかった未来が、急に大きく開けたように思えた。

 そして、自分の見ている先にはいくつもの未来があるのだとわかった。


(……桐ちゃんは、まだそうじゃないのかもしれないな)


 桜庭と梅本が、ホテル雪椿から近いうちにいなくなってしまう。今ある安定した穏やかな現状が長く続くものではないと突きつけられたような感じなのだろう。


 そして、莉奈自身の将来をどう考えるのか、という岐路に、今立っている。


(後輩や中学生にはかっこいいことを言えるのに、自分となるとまるでだめなんだね)


 修学旅行の講演会の時に話していた内容は、椎名たちから巡りめぐって聞かされた。

 そのエールを少しは自分に向けてやったらいいのにと思うが、本人でないから言えることなのかもしれない。


 莉奈は本人が思うほど、置いていかれているわけではないのに。


 それを言える位置に今、自分がいないことはわかっている。


(漆間さんには伝えた。……あと一人、あの子に喝を入れてくれそうなのは――)


 目を瞑って、深く息を吸った。吸ったものをそのまままるごと吐き出して、梅本はリネン室を出た。ディナーショーの後片付けを少しくらい抜け出してさぼってもわからないだろう。


 ロビーへ向かう階段は、ひんやりとした空気に包まれている。


 彼になら、もう少し詳しく話しても大丈夫だろう。

 そうでなければきっと、相手にしてくれないだろうから。



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