大切な光を胸に抱いて⑤



 夜の部のディナーサービスも無事に終わり、あとは榎木のショーを残すのみとなった。

 二回のディナーを無事に乗り越えたらしい漆間は、心底安堵した様子で脱力している。


 榎木が現れた。身につけているのは昼の部とは違う、ゴールドのドレスだ。シンプルなラインだが、桔梗色の大きなコサージュが胸元を華やかに演出していて、背の高い榎木によく似合っている。


「では、こちらからどうぞ」

「ありがとう」


 昼よりもいくぶん穏やかな表情で、それでもぎこちなく、榎木は笑顔を見せた。

 付き添っていた遠藤は、それ以上何も言わずに一礼して彼女を見送った。


 声援が上がる。その声を背にして、支配人が口を開いた。


「ヘルプの皆さん、ありがとうございます。それぞれ出勤時間や各部署のシフトなどあると思いますが、どんでんもあるので可能な限りお手伝いいただけると助かります」


 会場を作り替えることをどんでんという。明日はこの会場で地元企業の宴会が行われる。今日中に準備が終わることはないだろうが、せめて使わない椅子やテーブルを運び出して、明日のセットに必要なものを運び込むくらいはしておかなければ間に合わないだろう。


 莉奈の今日のシフトは、終日ディナーショーヘルプだ。

 フロントの頭数にはカウントされていないので、最後までいるつもりだ。


 ショーが終わるまで、まだ一時間以上ある。順番に洗い上がってくるシルバーやグラスを黙々と拭き続けながら、莉奈は桜庭と梅本の言葉を思い出していた。


 着実に前進を続ける周りに、自分だけが取り残されているようだ。椎名は次の会議に出ろと言ってくれたが、今月は年度末にあたるため、会議はマネージャー以上の役職者のみで行われた。議題の提出は来月までお預けだ。


 その不完全燃焼な気持ちも合わさって、莉奈の心は置きどころをなくしてしまっている。

同期の梅本に動きがあったことがショックだった。――そう、ショックだったのだ。


 ずっと自分たちが若手であるつもりでいた自分に気付かされた。

 いつかは上に、前に、先導する側に行かなくてはならない未来図から目を背けていた。


 梅本がそうではなかったことをまざまざと突きつけられて、嫌でもそれを意識することになった。


 わからない。自分にそんな器があるのだろうか。


 年数が経って、後輩への指導を担う場面は多くなっている。先輩としての振る舞いはさまざまな場面で求められている。

 だが、そのときに本当に正しく振る舞えているのか。このまま、エスカレーターに乗せられるように自動的にそのポジションに当てはめられればいいのだろうか。


 違う。


 もっと、ふさわしくならなければいけない。


 でも、どうやって?


 ――かしゃん、と金属が叩きつけられる音がした。手に持っていたミートナイフが滑り落ちて、床に転がっていた。


「桐島さん?」

「あー……ごめん、手が滑っちゃった。洗ってくるね」


 怪訝そうな顔をする漆間から視線を逸らして、莉奈は洗い場へ向かった。

 既に洗い物は皿類のみになっており、ナイフを一本だけ頼むのも申し訳ないので、手洗いすることにした。


 手洗い用の流しには梅本がいた。コーヒーポットを洗っている彼女の隣に立つが、顔を上げられない。

 俯いたままお疲れ、と声をかけてスポンジを手に取った。


「桐ちゃん、疲れてる?」

「まあ、それなりに……」


 梅本の目を見られないのは、ただ単に自分の問題だ。

 その自覚がさらに自分を追い詰める。頭の奥がすうっと冷えたまま、温度が戻らない。


「何か考えてる?」

「え?」

「眉間。固いよ」


 じゃばじゃばと景気のいい音を立ててポットを洗いながら、梅本は濡れた左手を自身の眉間に当てた。


「さっき話した時からずっと元気ないよ」

「……そりゃあ、まあ」


 彼女に非があるわけではないのに、こうしてもやもやしたままうまく振る舞えない自分が嫌になる。口ごもる莉奈を見て、梅本は水道の水を止めた。


「何でそんなに思い詰めてるの?」

「……思い詰めてなんか、」

「あんたのそんな顔、見たことないよ」


 梅本の瞳がまっすぐにこちらを見つめてくる。その鋭さから逃げることは許されないような気がした。


「何か考えてるなら言ってよ。今じゃ話しにくいなら、時間作るよ」

「ううん。本当に大したことじゃないから」

「……そう。話してくれないんだね」


 梅本は止めた水を再び出し始めた。残りわずかだったコーヒーポットを一気に洗い上げて、莉奈が手に持ったままでいたミートナイフを取り上げた。

 洗剤の泡を流して、それを莉奈の手に戻す。


「同期でしょ。たった三人になっても一緒に頑張ろうって言ったじゃない」

「……うん」


 同期でも――同期だからこそ、言えない。こんな醜い気持ちは。


 嫉妬と劣等感と惨めさと無力感と、羨ましさ。きっと他にも、自分が見つけられていない黒い感情がいくつも混ざっている。


 みっともない。


「わたしに言えないのはわかった。でも一人で考えすぎたらだめだよ。ちゃんと誰かに話してみたほうがいい。顔に出てるから」

「――ごめん」

「謝らなくていいよ」


 やっぱり、梅本のほうが何倍も大人だ。

 悔しくて情けなくて、莉奈はそれ以上何も言わないまま踵を返した。



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