大切な光を胸に抱いて④


 カトラリーを拭いているうちに、榎木のディナーショーは大歓声に包まれて終演した。


 アナウンスに従ってゲストが退場していくのを見送って、最後の一人が出た瞬間に、支配人はバック通路との境目のドアを全て解放した。


「よーし、超特急でバッシングだ! クロスも総とっかえだからな!」


 ワゴンに載せたバッシング用のバケツや番重と、次のセッティングに必要なクロスやカトラリーが一気に運び込まれる。

 男性陣がテーブル周りの椅子を避けて、女性陣でグラス類を番重にまとめて回収していく。皿はほとんど片付いているが、ドリンクの飲み残しが多いのでどうしても手間がかかる。


 グラスが片付いたテーブルからクロスが剥ぎ取られていく。

 汚れたクロスと新品が混ざらないように気をつけながらセッテイングが進められる横で、料飲部のベテランスタッフが二人体制で掃除機をかけている。

 広い会場を効率よく綺麗にするのにも、コツがいるものだ。


 桜庭は黒服のジャケットを脱いで、白いシャツの袖を思い切り捲り上げていた。

 蝶ネクタイをつけていた胸元もラフに着崩している。宴会の片付けをするときの、彼の定番スタイルだ。


「もたもたしてると、あっという間に時間になるぞ! これから全部セットしなきゃだからな! 大変だけど、よろしく頼む!」

「はい!」


 場内のあちこちから、桜庭の檄に対する返事が勢いよく上がった。

 数年前にいた料飲マネージャーとは比較にならないほど、ヘルプスタッフの扱いがうまい。フロントや予約係などと比べると料飲部は突発のヘルプを入れざるを得ない場面が多いため、各部署との関係構築は大事なんだ、というのは、桜庭の持論だ。


 サービススタッフも各々、制服の袖を捲り上げて作業に勤しんでいた。

 力仕事を率先して担いながら、桜庭は支配人といっしょにその進み具合をちらちらと確認している。その目線の配り方に力は入っていないし、焦りもない。

 あくまでごく自然に、それが自分の当たり前の仕事なのだという風情だ。


 自分はそんなふうに、フロントで仕事をできているだろうか。


 漆間も笹川も自分を慕ってくれていると思う。話しかけやすい先輩であるという自覚はある。


 それだけ、なのかもしれない、と、莉奈は胸をよぎった気づきに指先を握りしめた。


 頼りになるというのとは違う。自分は後輩たちにとってそこまで力強い存在にはなれない。

 そもそも、自分自身にそんな余裕がないのだ。


 背伸びをする必要はないとわかっている。だが、このまま働き続ければいつかは上の立場にならざるを得ない。それなのに、そうなった自分の姿がまったく想像できない。


 ――もうすぐ主任とかの肩書きがつくようになるし、今まで以上に大変になるだろうけど、頑張れよ。


 さっき桜庭に言われた言葉が、現実味を帯びない。

 いつか本当に、そんな日が来るのか。


「桐ちゃん?」


 梅本の声にはっとした。彼女は両手にサービスプレートを抱えている。


「どうしたの、ぼーっとして」

「いや……ちょっと、考え事。大丈夫だよ」

「そう? じゃあこれ、一緒にやろ」


 梅本はそう言って、山ほど抱えていたプレートの半分を莉奈に受け取らせた。よほど重かったらしく、ふう、と息をついている。


「そういえばさ、桐ちゃん」

「何?」

「蔵王行きメンバーの話、聞いた?」

「め……メンバー?」


 桜庭だけでなく、他にも引き抜かれるスタッフがいるのだろうか。

 そんな莉奈の不安を肯定するように、梅本は頷いた。


「各部署から一人ずつ抜かれるんじゃって噂もあるよ。さすがに大袈裟だけど」

「桜庭さんが打診されてるってのは聞いたけど……」

「実はね、わたしもなんだ」


 ――全身の血流が逆転したような感覚に襲われた。


 何も言えずに固まった莉奈から視線を外しながら、梅本は微笑んだ。まもなく入籍するのではないのか。


「彼氏の地元がそっちなの。結婚の話になったのと同じ頃に、蔵王に予約主任として異動しないかって話を聞かされてね。少し保留にしていたんだけど、結婚してそっちに移り住むのもありかなと思って、この間それでもいいですよって回答したんだ。もちろん、だからってまだ決まったわけじゃないけど」

「そう……なんだ」


 着実に、動いている。動き始めている。


 自分だけが置いていかれているような焦燥感が芽生えた。


「そんな顔しないでよ。離れたって同期なんだし、わたしもホテルを辞めるつもりはないからさ。あんただってそうでしょう。それに、そもそもまだ確定した話じゃないんだよ。このまま湯沢に残る可能性だってあるよ」

「そうだけど……そっか……」


 梅本はもう、いろんな気持ちを固めている。そうなるだけの実力を会社から認められて、そう決断できるだけの自身を、彼女は手にしている。


 自分にはあるだろうか。


「桐ちゃん」


 梅本の声が、一段優しくなった。


「一緒に頑張ろうよ。どこにいても」


 寂しがっていると思われているのだろう。

 梅本は手に持っていたサービスプレートの山を置いて、莉奈の手を握った。


 その温度が痛い。


「うん」


 やっとの思いで込み上げるものを飲み下して、莉奈は小さく頷いた。




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