大切な光を胸に抱いて③

 魚料理と口直しのソルベまで出し終わったところで、時間は五分ほど押していた。

 サービススタッフの動きがぎこちないこともあるが、原因はそれだけでなく、調理場でも準備に手間取る場面があったのだ。


 魚料理は真鯛のポワレだった。

 それ自体はホテル雪椿のコース料理で珍しいものではない。


 ただ、今日は付け合わせが多かった。地元の野菜をたくさん取り入れようと総料理長がこだわった結果、当日の盛り付けがうまく回転しなくなってしまったのだ。


「こんな落とし穴があるなんて」

「シェフもゲストに新潟の味覚を楽しんでほしいって思ってやったことだから仕方ないけどね。これ以上遅れが出ないように気をつけないと」


 桜庭は仕方ないというふうに笑ってみせた。

 実際、どうしようもないほどのロスではない。


 ソルベの器を下げに近寄ると、数名のゲストのドリンクが空になっていた。皿を下げがてら注文を取る。

 次がメインの肉料理のためか、三人が赤ワインを指定した。


 ドリンクをサーブしていると、隣のテーブルを担当している梅本が肉料理の皿を持って入場してきた。

 周りを見ると、既に他のテーブルでも提供が始まっている。


「お待たせいたしました、赤ワインでございます」

「ありがとう。次のメインが楽しみだな」

「これよりお持ちいたしますね。少々お待ちくださいませ」


 焦る気持ちを宥めながらバックへ向かう。

 焦ってもいいことはないとわかっているのに、慣れないことをしているせいで頭の中がだんだんと渦を巻くような感覚に支配される。


「お、桐島も来たな。大丈夫か」

「はい」


 サービススタッフを整理する桜庭の声に、平然を装って返事をする。

 既にテーブルの半分ほど料理が出ているところもあるのに、莉奈のところはまだゼロだ。


 無意識のうちに、足早になっていた。桜庭はそれを見逃さなかった。


「桐島」

「はい」


 やっつけのような返事に、彼は眉を八の字にした。


「落ち着け。どうせドリンクかなんかで遅れて焦ってるんだろ」

「でも、早くしないと」

「気持ちはわかるけど、顔に出てる」


 両手に皿を持った状態で、莉奈は眉間をつつかれた。


「大丈夫だ。あわてなくていい」

「でも」

「大丈夫だって言ってるだろ」


 桜庭はそう言うと、残っている皿が並ぶ様とバック通路をちらりと眺めてから、置いてある皿をひょいと持ち上げた。


「リカバリーは俺の仕事だ」


 気圧されるようにして、莉奈はそのまま会場内へ入った。

 気のせいか肩の力が抜けたように思える。ゲストと相対するとき、自然と口角が上がった。


 当たり前のように皿を三枚持って莉奈の後をついてきていた桜庭は、しれっとそれを莉奈のテーブルに続けて提供し、何気ないままに立ち去った。


「あ、ありがとうございます」

「おう。あとはいけるだろ」

「はい。いけます」


 通路に出ると、漆間がうまく皿を持てずに四苦八苦していた。その隣には客室係から派遣されてきたらしい、新入社員の男子もいる。

 同じように、奇数の席数であることでうまくサーブできずにいるらしい。


「おまえら、大丈夫か。俺が一枚ずつ持ってやるから、確実な分だけ自分で構えろ」

「は、はい」


 桜庭はもう莉奈には目もくれずに、二人から皿を一枚ずつ取り上げて、彼らについて会場へ入っていく。あれこれと言わせない彼の言葉は心強い。


 それだけ、桜庭は周りをよく見ているのだ。

 もちろん、今日のこの場で彼に対して要求されている立場がそうであるということもあるが、きっと彼はそのポジションを与えられてから相当な準備をしている。莉奈とそう歳は変わらないが、あと二、三年で同じように広い視野を持って余裕でいられる自信はない。


「桐島?」


 メイン料理の提供が終わってあとはデザートとコーヒーだけだ。気が抜けてぼんやりとしていると、桜庭に肩を叩かれた。


「具合悪いのか」

「いや、大丈夫です」

「それならいいけど。しんどかったら言うようにな。ま、元気なら頼みたい仕事があるんだけど」

「なんでしょうか」


 桜庭は傍らにあった台車から、番重を一段下ろしてきた。

 中には濡れたカトラリーが雑多に入っている。


「サービスが全部終わったら、これを拭いていってほしいんだ。回収したのからどんどん洗い場に回してるんだけど、夜の部までに拭き上げて再セットしなくちゃいけないからさ」

「わかりました」

「その前に、もう少ししたらデザートを出すから、それが終わってからな」


 なぜわざわざ自分に頼んだのだろう、という疑問を胸の片隅に抱きつつも、莉奈は頷いた。ペストリーからデザートの皿が運び込まれてくる。

 飾られているいちごも、新潟県産のものだそうだ。


 コーヒーまで出し終わったら、料理提供は終了だ。最後にデザート皿の回収に行かなければならないが、やっとひと段落という気持ちだ。


「何事もなく終われてよかったです……」


 漆間が安堵の表情で莉奈にしがみついてきた。よかったね、といなして、莉奈はカトラリーを拭くための布巾を探しにバック通路を奥へ進んだ。

 倉庫の手前に棚が一つあり、布巾はそこにかかっていた。奥の倉庫からは灯りが漏れている。


「いって……!」


 その倉庫から、聞き慣れた声の悲鳴が聞こえて、莉奈は思わず中を覗き込んだ。


「さ、桜庭さん? どうしたんですか」

「あ、桐島」


 桜庭は、何かを払うように右手を振りながらこちらを向いた。


「怪我ですか」

「いや、たいしたことないよ。夜の部で追加するぶんのテーブルスタンドを出そうと思ったら、指を挟んじゃって」

「もう、気をつけてくださいよ」

「驚かせて悪かったな」


 指先を見る限りでは、出血している様子はない。普通に動くようだし問題ないだろうと、莉奈が踵を返したその時だった。


「俺さ、多分異動になるんだよね」


 桜庭の声が静かに倉庫に落ちた。


 思わず振り向いた。口を開いて何か喋ろうとしたが、何を話したらいいのかわからなくなって、ただ彼の瞳を探った。

 視線は合わない。


「い……異動? どこの部署に……」


 ホテル雪椿の中での配置換えではないことはわかっていたが、すがるような言葉が出た。間抜けだと思った。


「蔵王」

「ざ……ざおう?」

「新しくホテルを作るだろ。そこの料飲のマネージャークラスの役職で、引き抜きの打診がきた」


 東北エリアで新しくホテルをオープンさせる計画があるのは知っていた。

 ここ数年で知名度が上がった花咲グループのホテルは幅広い年代から評価が高く、社長をはじめとした本社の経営陣は全国へ広く展開させる計画をしているという話は、何ヶ月か前の本社会議の報告に入っていた内容だ。

 これまで進出のなかった東北や北海道、西は関西や九州にも、各地の特色を生かしたリゾートホテルをつくる予定らしい。


 だが、それに際してスタッフの引き抜きがあるという予想はまったくしていなかった。


 考えてみれば合理的な話なので、なんら不思議なことではない。

 だが、そう遠くないうちに桜庭がホテル雪椿からいなくなってしまうことが起こり得る現実なのだと、咄嗟には飲み込めない。


「まだ決定事項じゃないけどな。時期も未定だし。けど、ほぼほぼ決まり。去年のサービスコンテストの成績が良かったから、現地スタッフの教育に来てほしいって話でさ」

「優勝でしたもんね」


 社内コンテストはいくつかある。レストランサービスや電話応対など、それぞれ年に一度のペースで開催されている。

 去年のレストランサービスのコンテストで、桜庭は優勝を勝ち取っていた。自身の身のこなしだけでなく、周囲への目配り、気配りまで完璧にこなし、本社の上層部を唸らせたというのだからたいしたものだ。


「桐島も、もうすぐ主任とかの肩書きがつくようになるし、今まで以上に大変になるだろうけど、頑張れよ」

「……寂しくなっちゃいますね」


 頭の中を埋め尽くした、ひと言では言い表すことのできない感情を押し殺して、莉奈は口角を上げた。その表情を桜庭は見ていない。


「ところで、何しにきたの」

「あ、拭き上げ用の布巾を取りに来てて。桜庭さんの悲鳴が聞こえたので見に来たんです。戻らないと」


 莉奈は一礼して、倉庫を後にした。

 宴会場の裏手に戻ると、既にほとんどのスタッフが最後のバッシングに向かっていた。布巾を置いて莉奈も向かう。


 まもなく、ショーが始まる時間だ。始まったら、スタッフは中に入ることができない。

 皿を預かりつつ最後のドリンクのオーダーを取り、全て出し終えてバック通路に戻ると、反対側から榎木加緒里がやってくるところだった。付き添いは営業部長の遠藤だ。


「こちらからステージに上がれます。暗いのでお気をつけて」

「ありがとう」


 深紅のドレスにはスパンコールが散りばめられており、髪飾りと揃いできらきらと光っている。

 だが、彼女の表情は緊張に固まっているようだ。いっさいの隙なくヘアメイクをしているのに、榎木の胸中に渦巻く不安が漏れ出している。


「大丈夫ですか。あまり顔色が良くないようですが……」


 遠藤も察していたようで、ステージ裏に入ろうとする榎木に訊ねている。

 しかし彼女はかぶりを振った。


「大丈夫です。緊張しいなのよ。始まる直前がそのピークでね、いつもこんな感じなんですよ。大丈夫、ステージに上がったら平気になるから」


 大物歌手ではなく、まるで初めてオーディションに来た素人のようなぎこちない笑顔で、彼女は大丈夫と繰り返した。

 そう言われてしまうとどうにもならない。足元にお気をつけて、と、遠藤は同じことをもう一度言った。


 通路に通じるドアが閉ざされ、同時に場内の照明が落ちる。

 直後、音楽が流れ始め、わあっという歓声が聞こえた。


「始まったか」


 料飲の支配人が、一仕事終えた満足感をたっぷりと載せた表情で呟いた。

 その手には洗い上がったグラスが並べられたケースを抱えている。


「俺たちは夜の部に向けてフルスロットルで準備だ!休んでる暇はないぞ」


 バック通路で出す声量じゃない、と、支配人は戻ってきていた桜庭にどつかれていた。



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