大切な光を胸に抱いて②


 翌日、莉奈は九時に出勤した時から料飲の制服を身につけていた。

 フロントのバックオフィスでタイムカードを押して引き継ぎだけ確認し、そのまますぐに宴会場へ向かう。同じように、白シャツに黒のベストを身に纏ったヘルプスタッフたちが勢揃いしていた。


 黒服を着た料飲部の支配人が、要項を片手にスタッフの前に立った。


「おはようございます。各部署からお越しいただいたサービスヘルプの皆さん、お忙しい中ありがとうございます。本日はよろしくお願いします。それでは、ディナーショーのミーティングを始めます」


 会場内には、円卓がありったけ運び込まれている。クロス掛けまでは終わっているので、ミーティングが終わったらカトラリー類と椅子を並べていくようになる。

 開場は十一時半、食事のスタートは十二時半なので、人海戦術での作業だ。


 段取りの最終確認と担当テーブルの割り当てが終わり、ワゴンで大量のナイフやフォーク、グラスが運び込まれてくる。それぞれ数人ずつのグループになって、順番に配置していく。


「あ、ここフィッシュフォークないよ」

「グラス三つ余ってますか? 向こう足りなくて」


 ざっくりとした数でケースごとまとめて運んでいるので、たまに数が足りなくなる。

 お互いに声をかけ合いながら着実に進む会場準備と並行して、ステージ上では榎木本人による最終リハーサルが始まっていた。


 機材の細かい調整も兼ねているのだろう。ハリのある深い歌声はしばしば途切れ、音響や照明の専門で雇っているプロのスタッフたちがそのたびに機械をいじっている。

 榎木は私服姿であり、華やかな衣装はまだ身に纏っていないが、マイクを持ってステージに立っているだけで特有のオーラがある。


 テレビ越しに観ていた彼女は、実際目の前にするとその何倍も迫力がある。芸能界のキャリアは四十年以上、辛酸を舐めた時期も短くなかったというが、その実力は誰もが認めざるを得ない、本物だ。


「すごいですね」


 一緒に作業をしていた漆間がぽつりと言った。

 心底、榎木のパワフルな魅力に圧倒されている様子だ。


「そうだね。小さい頃から知っているし、何度もテレビで見ているけど、やっぱり目の前って全然違う」

「こんなにすごい方が、来てくれるなんて……」


 仕事中でやらなければならないことはまだまだ残っているので、じっと手を止めて観ているわけにはいかない。

 それでも聞こえてくる歌声は、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。


 それからしばらくして、会場内の全てのテーブルのセットが完了した。抜け漏れがないことをダブルチェックで確認する。

 気がつけば、榎木のリハーサルはとうに終わっており、ステージ上は緞帳が降ろされていた。


 莉奈は自分の担当テーブルに近寄った。

 ショープレートの上には、凝った折り方で華やかに飾られた真っ白なナフキンがセットされている。その折り目を少し整えながら、これから始まる記念イベントが大成功に終わるようにと思いを馳せた。


 莉奈がこのホテルに入社してから、もうすぐ六年目になる。ホテルの中で、この五年間で大きく変わったことはあまりない。

 十年目に突入したホテルの建物自体はまだまだ綺麗だし、時代にあった明るいデザインは衰えていない。


 だが、莉奈自身が変わるには大きな五年だった。

 大学を卒業してすぐ、右も左もわからない状態で、観光や接客が好きだという気持ちだけ持って入社したあの頃から、いろんなことを学んだし、悔しい思いも嬉しい出来事もいくつもあった。


 仲間には恵まれていると思う。

 同期で残っているのは自分を含めて三人だけだが、先輩や上司、後輩にも助けられている。辞めたいと思ったことはゼロではないが、かといって他の仕事をしている自分が想像できないのも本当だ。


 いつかその仲間と離れ離れになってしまうのかも、とは、今は考えないでおく。


「じゃあ、そろそろ開場するから、みんな配置について」

「はい」


 料飲部の支配人の声で、会場内の空気がぴりっと締まった。ドアが開いて、受付を通ったゲストたちがアテンドを受けながらテーブルへとそれぞれ歩いていく。


 自分の担当テーブルのゲストが来たら、椅子を引いて着席の手伝いを行い、ファーストドリンクを伺って、バーカウンターから出してもらうのが最初の仕事だ。

 段々と人数が増えてくるが、莉奈は焦らないことを第一にしてゲストに声かけをした。スタッフの緊張など、ゲストには関係のない話だ。


「本日はお越しいただきありがとうございます。最初のお飲み物はいかがなさいますか」

「そうだな……じゃあ、ウイスキーの水割りをひとつ」

「かしこまりました」


 ゲストの目線に合わせて屈み、いつもより一段と丁寧な所作を心がける。

 隣に座る妻らしき女性にもドリンクを伺って、莉奈はそのままバーカウンターに向かった。


 ドリンクを受け取ってトレーに載せ、席に戻ると、着席しているゲストが増えていた。

 隣のテーブルの担当である梅本がサービスを手伝ってくれたらしい。目線でお礼を伝え、莉奈は新しく到着した三人づれのゲストにも話しかけた。


 そうこうしているうちに、会場内はどんどん席が埋まっていく。

 莉奈のテーブルはゲストが全着したので、ナンバースタンドを下ろしてバック通路の端に避けた。


「あと二組かな。今受付している人たちが入ったら全員揃うみたい」

「時間ちょうどですね」


 腕時計は外しているので、バック通路の壁にかけられている時計を見上げると、あと十分ほどで十二時半になるところだ。

 既に通路には最初に提供するオードブルが準備されている。サーモンをメインとした鮮やかな色彩が目に楽しい。


「ショーの開始時間は決まっているから、サービスも遅れないように意識してね」


 桜庭が黒服の襟元を直しながら言い、はい、と漆間や他のヘルプスタッフと一緒に返事をする。

 彼自身も初めての経験のはずだが、ずいぶんと落ち着いている。噂によると、町内のディナーショー実績のあるホテルに出向いて修行したという話だ。

 本人は笑って躱していたが、あながち作り話とは思えない。


 左手の指で皿を一枚持ち、親指と小指、手首で支えるように二枚目の皿を載せる。右手にもう一枚持って、莉奈は開放され衝立で作られたサービス通路を通って自分のテーブルへ向かった。

 サービス上級者になれば一度に持てる皿の枚数も増えるが、今はヘルプ程度でしか入ることのない莉奈には両手で三枚が限界だ。


「こちら、オードブルでございます」


 声をかけて、ゲストの間から静かに皿を差し出すと、わあっと小さく歓声が上がる。


「素敵ねえ。フルコースなんて久しぶりだから、上手にいただけるかしら」


 女性客が声を弾ませる。

 綺麗にセットされた髪と品の良いネイビーのドレスがよく似合っている。夫らしい隣の男性も、彼女のドレスと似たデザインのネクタイを締めている。彼は莉奈を見上げて、目尻の笑い皺を深くした。


「雪椿さんはお料理がとてもおいしいと聞いていたから、楽しみだったんだ」

「ありがとうございます。シェフが腕をふるいましたので、ぜひご堪能ください」


 男性客と目線を合わせて微笑む。

 三枚目の皿を隣のゲストにサービスして、莉奈は一度バック通路へと戻った。残りを二回に分けて提供し終わるとドリンクの注文を受けたので、再びバーカウンターに向かうと、漆間が先客だった。


「どう、大丈夫そう?」

「今のところは。自分ならできるって思ってると、少し気が楽になれますね」

「その調子だよ。まだまだ始まったばっかりだけど、頑張ろうね」


 そのやりとりを聞いていたバーテンダーも微笑んだ。


「はい、じゃあ漆間さん、ハイボール二つね。よろしく」

「ありがとうございます」


 透き通るブラウンに弾ける炭酸が、しゅわしゅわと心地良い音を立てている。漆間は二つのグラスをトレーに載せ、危なげなく歩いていった。


「それで、桐島さんは?」

「あ、梅酒のソーダ割を一つ」

「はいよ」


 慣れた手つきですぐに用意されたドリンクを持って、テーブルに戻る。何人かは既に皿が空いていたので、回収してバック通路にはけた。


「もう少しでスープ出るよー。準備して」


 スープはかぼちゃのポタージュだ。今回のメニューに派手な料理はないが、地元の素材をふんだんに使い、計算されたシェフのこだわりがよくあらわれたフルコースになっている。


 調理場には和食担当も洋食担当も関係なく、調理スタッフがひしめきあっている。

 職人気質のスタッフが多く、忙しい時は殺伐とする調理場は、もはや怒鳴り散らす余裕もなくただひたすらに料理の準備をする白い制服で溢れている。


「できてるのから持ってっていいよ!」

 ひときわ長いコック帽を被った総料理長が声を張った。桜庭がサービススタッフを流し、少しずつスープの皿が運び込まれていく。


 会場内は穏やかな雰囲気だった。柔らかく心地のいいBGMがゆったりと流れ、本来のフルコースと比較して短時間ではあるが、ゲストたちは料理を楽しんでくれている。


「こちら、かぼちゃのポタージュでございます」


 スープは傾けるとこぼれてしまう危険があるため、慎重にしなくてはならない。

 漆間の話ではないが、ゲストに向かってひっくり返してしまったら一大事だ。


 無事にスープのサーブを終え、莉奈は再びバック通路に戻ってひと息ついた。漆間も回収した空き皿を持って帰ってくる。


「無事?」

「今のところは。メインの皿を運ぶのが怖いですけど」

「ひとまわり大きいからねえ。ま、心配なら両手に一枚ずつとかでもいいんじゃない」

「わたしのテーブル、七人がけなんです。一回は三枚で行かないとで……」


 サービスのとき、最後に一人だけ料理提供が残るような出し方は避けるようにと研修を受けている。

 だが、メインの肉料理の皿はオードブルや魚料理と比較して大きく、人によってはいつもの三枚持ちだとうまく平行を保てずにソースや盛り付けが崩れてしまうこともある。


「七人か。確かに困るね」

「一応、さっき始まる前に少し時間があったので、余分な皿で練習したんですけど」

「でも無理は禁物だよ。ひっくり返しちゃうかもってびくびくしながら行くより、安全優先でいいんじゃないかな。桜庭さんも言ってたし」


 表立っては言わないが、桜庭はそういうタイプだ。ゲストに迷惑をかけるリスクをとるよりもあとで怒られた方が合理的だという。

 特に今日は慣れていないヘルプの数が多い上、これからショーもある。それが夜の部でまるまるもう一回あるのを考えれば、無用なトラブルを起こしかねない挑戦は禁物だ。


 だが、漆間は決断しかねるように小さく唸った。


「持てなさそうだったら、無理はしないようにします」

「うん」


 話しているうちに次の料理の準備が着実に進んでいる。莉奈はテーブルに空いた皿がないか、確認のために会場内へ入った。




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