第6章 大切な光を胸に抱いて
大切な光を胸に抱いて①
三月も終わりに近づき、降雪も落ち着いてきた。
あちこちにこんもりと積み上がった雪は少しずつ解けて、だんだんと春が近づく気配を感じるようになった。
それでもまだまだスキー場は盛況で、連日旅行客が絶えない。
瓜生と売店に関する相談を度々しながら日々が過ぎていく中、ホテル雪椿にとって初めてのイベントが近づいていた。
「いよいよ、明後日ですね。ディナーショー」
ロビーに掲出しているポスターを見て、漆間が無邪気な声をあげた。
そのポスターには、着物姿の女性の凛とした立ち姿の写真がある。シャンパンゴールドを想起させる色合いで品よくまとめられたデザインの中で、記念ディナーショーという文字が大きく踊っているそれは、ホテル雪椿で初めてのディナーショーの告知だ。
開業十周年に絡めて、ディナーショーの企画自体はいつから動き出したのか覚えていないくらい前からあった。
関係各所の調整が完了し、ポスターやパンフレットなどの告知物の準備が整い、チケットが販売開始となるや否や、予想を上回る勢いで売れていった。
「スタッフや関係者のコネでなんとか撒ききるってパターンも少なくないらしいけど、この反響ならそんな心配はなさそう」
販売開始から一週間後の植松のコメントはかなり浮かれた声だった。
その予想が外れることはなく、つい数日前に無事完売したという報告が上がっている。
ディナーショーは二部制で、二百人を収容する公演を昼と夜の二回行う予定である。
フルコースの食事の後に公演が行われ、昼の部が終わったらすぐに場内をリセットして夜の部に備えなくてはならない。
テーブルにかけるクロスはレンタルなので、二回分の枚数を発注しているのだろうが、カトラリーはあるもので回さなくてはならないため、手際よく進めないといけないことは想像に難くない。
そんなわけで、しばらく前に料飲部は各部署にヘルプ要請を大々的にかけていた。
それぞれの部署に残す要員も必要だが、最低限の配置で他はヘルプに回るような計算になる。
その日ばかりは公休の配置はなく、全社出勤日となる予定だ。
莉奈も漆間も当日は料飲ヘルプが決定している。フロントは夜勤者と役職者を除けば、残るのは冬期スタッフばかりだ。
彼らはその部署のスポット要員として雇われており、ホテル雪椿としてのテーブルサービスの研修は受けていないので、ほぼ自動的に決まったと言っていい結果だ。
「料飲ヘルプ、久しぶりです」
「今年の冬はほとんどなかったもんね」
莉奈自身の料飲ヘルプもご無沙汰だった。
特に日勤のインチャージを篠塚から引き継いで以降はまったく行っていない。入社して最初の実践的な研修は料飲サービスだったので体に染み付いてはいるものの、粗相をしないか多少の不安は否めない。
「それにしても、ずいぶん大物を引っ張れたなあとは思うよね。いくら十周年で初のディナーショーとはいえ」
莉奈はポスターを眺めて呟いた。隣に立つ桃井も関心したように頷いている。
「さすがに、最初に話を聞いた時はびっくりしたかな」
ポスターの中心で笑みを浮かべているのは、新潟県出身の芸能人の中ではトップクラスに有名な歌手、榎木加緒里だ。
演歌歌手としてまだ十代のうちにデビューし、「雪国に燃ゆ」や「佐渡の海鳴り」など、地元を題材にした楽曲を含め、ヒット曲を数多く持つ。
テレビ番組やコンサートでは派手な衣装や演出を取り入れることでも有名で、佐竹は「ディナーショーにはどんな装置を持ってくるんだろうな」と、半分くらい慄きの混じったコメントをしていた。
そんな彼女は、ここ数年で演歌以外のジャンルの楽曲もいくつか発表している。
Jポップやアニメソングなどの既存曲のカバーを主な入り口として、演歌に親しむ中高年層だけでなく若い世代からの人気も堅実なものにしており、かなりの売れっ子で忙しいはずだ。
「わたし、榎木加緒里の『チョコレートクッキー』が大好きなんですよ」
漆間が挙げたのは、数年前にアイドルグループが発表した楽曲の名前だ。しばらく前に、榎木のカバーが動画サイトにアップされていた。
キラキラしたサウンドに乗せられた深みのある歌声は、ミスマッチなようで不思議な魅力があり、SNSでも話題になっている。
「ローカルアイドルとかともよく絡んでるよね」
「地元愛の強い方だから、県内のテレビ番組だとその手の企画にはだいたい呼ばれてますね。トークも面白いし、タレントとしても完璧です」
新潟で、というより、この日本に住んでいて彼女を知らない人はいないと言っていいレベルである。どんな交渉術でそのスケジュールを確保したのか、莉奈が知っているより相当前から話が進んでいたのではないかと思うほどだ。
ホテル雪椿に芸能人や著名人が来ること自体は、そこまで珍しいことではない。もともとの花咲グループというブランド力もあり、開業当初からその手のゲストは定期的に来ている。
中にはリピーターになっているゲストもいるくらいだ。
また、著名人のイベントなども開催されたことがある。春から秋にかけての時期にはタレントのファンクラブイベントが行われ、そのファン層によっては館内がいつもと違う雰囲気になることもある。
ライブやトークイベントで楽しんだらしいだファンたちの表情はいつも興奮が隠しきれていない。その様子を見ているだけでも楽しいが、
「今回はそういうのとは違うもんね」
「ディナーショーですもんね。しかも、記念イベントとしての」
莉奈は緊張の混じる長い息を吐いた。
自分では経験したことはないが、カジュアルなイベントではないことはわかっている。
昨日、ディナーショーに向けてのサービス講習会が行われたこともあり、緊張と高揚の混ざった感覚に体が包まれているように感じる。
一方の桃井は、本来在籍しているホテルが老舗であり、幾度となくディナーショーを行なっているので、企画そのものには慣れた様子が見える。
今回のサービス要員には入っていないので、彼自身はフロント業務に残るが、桃井は自身が経験したディナーショーについて話してくれた。
「イベントとして規模が大きいから緊張するだろうけど、やることは基本的な内容だから大丈夫だよ。ただ、ゲストは綺麗な格好をして来るから、うっかりやらかすと惨事になりかねないけど」
ドレスや着物などで参加するゲストがほとんどだと言う桃井の言葉に、漆間がひっと喉を鳴らした。
「……わたし、入社した頃にお客様に思いっきりひっくり返してしまったことがあるんです……」
「ああ、前に言ってたね」
漆間は相変わらず自身なさげに瞳を震わせた。
「お客様のお洋服が、ビールでびっしゃびしゃになってしまって……うちでクリーニングに出してお詫びして、お客様も優しい方だったのであまり大事にはならなかったですけど、……不安です……」
「ドリンクのサービスは危ないよね。トレーに載せてると安定が良くないし。でもそれって、ほんとに最初の頃の話でしょう?」
「はい。結構なトラウマなんです」
苦い経験から二年も経っていない。彼女にとってはまだまだ痛い部分なのだろう。
本気で顔を歪ませる漆間に、桃井は微笑んだ。
「大丈夫だよ。時間はタイトだけど、いつもの宴会と違って、ディナーショーはテーブルにも余裕があるし、サービスしやすいと思うな。それに、その後もたくさんサービスの経験はしてるんでしょ。当時と同じことにはならないと思うよ。自信持って」
「うう……が、がんばります」
「自分が不安なままだと、サービスされるお客様にも不安を与えちゃうからね」
莉奈が言い添えると、漆間はこくこくと頷いた。やはり素直な後輩だ。
「榎木様は明日チェックインするようだし、フロントの準備のほうも抜けがないようにしないと。わたし、バックでチェックしてくるね。混んだら呼んで」
「はーい」
今日のチェックインは順調なので大丈夫だろうと踏んで、莉奈はバックオフィスに入った。デスクには、既に完成している明日のチェックイン準備がまとめられている。
リストを再出力して、莉奈はそれを一つずつ確認する作業を始めた。
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