特別な時間をあなたとともに③
篠塚夫妻が腕によりをかけたディナーは、きのこのシチューと長野のブランド豚のしゃぶしゃぶをメインとした、家庭料理とフルコースのいいとこどりのような食卓となった。
デザートに苺ミルクのプリンまで平らげて、満たされた気持ちで部屋に戻る。
「俺は今から風呂に入ってくるわ」
タオルと着替えを持って部屋を出る椎名を見送り、莉奈は惰性に身を任せてベッドに寝転がった。軽井沢の風情を堪能して、お腹も心もいっぱいだ。
「栗原くん」
「はい」
「これあげる」
ベッドの脇に置いていたバッグから紙袋を取り出して、莉奈はそれを栗原に差し出した。
「雑貨屋さんにあった、タオルハンカチ。刺繍がかわいくて、栗原くんが好きそうだなって思ってさ」
「好き……というか、栗の模様だからってことじゃないんですか」
「そうとも言うね」
自分用に買う柄を選ぶ時に目について、その一枚だけ別に包んでもらっていたのだ。
何故彼に渡そうと思い立ったのかは魔が差したとしか形容しようがないが、栗原は気に入ったようなので一安心だ。
栗原はハンカチの刺繍を親指の先で撫でて、ありがとうございます、と小さくつぶやいた。
やがて、椎名が風呂から戻ってきた。
「いやあ、夜の露天風呂ってやっぱいいな。天気がいいから星も見えたよ」
「寒いけど、露天風呂は冬が最高ですよね」
椎名はバッグに荷物をしまって、莉奈たちに声をかけた。
「さっきの日本酒、篠塚さんに頼んで冷やしてもらってるんだ。もう少ししたら飲みに行こう、つまみも用意してもらってるから」
「わあ、贅沢」
さっき食べた篠塚の料理はどれもおいしかった。
きっと日本酒に合うおいしいものを振る舞ってくれるのだろうと思うと、楽しみになる。
「忙しいんでしょうけど、こうしてたくさん楽しませてくださってすごく嬉しいです」
「いろいろ考えてるらしいよ。来た人にはここの地場のものを楽しんでほしいから、料理の食材から館内の装飾まで、徹底して地元のものにこだわってるって。食器やなんかも、長野県内のものを探し回って集めたんだってさ」
椎名は荷物を片付け終えたバッグを自分のベッド脇に寄せた。ベッドの上であぐらをかき、流れるテレビ番組を見るともなしに眺めている。
非日常の空間で、ゆったりとした時間が流れている。
テレビの音をBGMにして、しばらくのんびりと過ごしていると、部屋のドアがノックされた。
立ち上がってドアを開けると、エプロン姿の篠塚が笑顔を見せた。
「晩酌の支度ができたよ。お酒もよく冷えてる。そろそろどう?」
「行きます!」
三人で景気良く声を上げて、篠塚の後を追って階段を降りる。
先ほどまでディナーの時間で賑わっていたダイニングは、一角に居酒屋のようなセットがされているほかは綺麗に片づけられている。まるでお祭りの後のようだ。
テーブルには椎名が持ち込んだ日本酒の四合瓶と、篠塚がこしらえた肴がいくつか用意されている。
信州サーモンの造りや野沢菜のサラダなど、メニュー自体はシンプルだが地元らしさが光る内容だ。龍太も合流して、五人でテーブルを囲む。
瓶から直接、お猪口に酒を注いで、テーブルの真ん中でかちんと突き合わせた。
「ああ、やっぱりおいしいなあ、これ。好きなのよね」
ラベルには明鏡止水と書かれている。さらりとした飲み口で香りも強くはないが、飲み進めるとその味わいが深くなる。
篠塚は軽井沢に引っ越してから地酒の勉強を始め、相当に飲み比べたという。
「やっぱり飲んでみないとわからないでしょ。初心者向けでクセが少ないとか、酒好きな人にこそ飲んでもらいたいお酒だとか、能書きだけじゃふわっとした説明になっちゃうからね」
食材も文化もそうだよ、と、アルコールで饒舌になった彼女は続ける。
「なんでもそう。自分が体験して味わってわかったものと、そうでないものは、プレゼンにはっきり違いが出るよ。だって説明だけなら、ネットで調べた文章を読み上げるだけじゃない。でもそれじゃ人の心には響きにくい。リアルな体験を経ているからこそ、その言葉に厚みが出るの」
チェイサーのグラスにミネラルウォーターを注ぎながら、龍太が隣で微笑んだ。
「最初、かなり苦労したんですよ。何年も住んで慣れ親しんだ土地を離れて、新しいことを一から学ぶって、やっぱりストレスもあって。二人でちょっと追い詰められるような感じにもなっちゃったんですよね」
「やっぱり、やりたいこと……目標にしていたことでも、そう簡単じゃないですね」
「むしろ、夢だったからこそきつかったのかな。好きで仕方なくてどうしてもやりたいっていう思いだけ先走るような感じで、自分の持ってる知識や経験は追いつくのかな、っていう不安を抱えている感じ。やらなきゃいけないこともたくさんで、やりたいことばかりをやっていられるわけじゃないし。事務的な話なんかはやっぱり面倒なことも多いから」
今まで考えなくてもよかったことが現実としてあれこれ湧き上がってくる。
自分で何かを始めるということは、それに付随するものも全て背負うことになる。決して楽しいことばかりではない。
けれど――
「やってよかったよ。つらい時もあったけど、後悔はいっさいしていないの」
篠塚は今日一番の笑顔を見せた。
「ホテルの仕事も楽しかったし、貴重な経験になったと思う。でも自分にはペンションの経営がやっぱり向いてるのかなって、やってみて思うのよね。まだオープンしたばっかりだけど」
サラダをつまんで、篠塚はこれまでの日々に思いを馳せるような表情になった。
ホテル雪椿で働いている時の篠塚も生き生きとしていた。
どんな時でも笑顔は絶やさず、真摯で丁寧な、ゲストの立場に立ったサービスは、入社したばかりの莉奈には偉大な手本だった。言葉ひとつ、指先ひとつ、視線ひとつが大事なのだと、彼女の接客を見ているとわかる。
同じことを伝えるにしても、言葉選びをひとつ変えれば与える印象も変わってしまう。彼女はそれをよくわかっていて、ゲストの気持ちを想像して立ち回ることが大切だと、ことあるごとに口にしていた。
だから彼女が辞めることを打ち明けてきた時、大いに動揺した。
彼女がいなくなってしまった後、自分が同じように後輩たちの手本になって、背中を示すことができるのかわからなくて、不安だった。
退職することを聞いた数日後に、莉奈はその気持ちを篠塚に打ち明けた。
すると、彼女は目に涙を浮かべて微笑んだ。
「そんなふうに言ってもらえて嬉しいわ。わたしは教えることが苦手だから、言葉であれこれと示すことがあまりできなくてもどかしかったの。でも、それでも桐島さんはわたしを見て、たくさん成長してくれた。正直、あなたがいれば大丈夫よ。自信を持っていいわ」
「でも……」
明確な言葉で励まされても、不安はなかなか拭いきれなかった。その感情ごと優しく包むように、篠塚は莉奈の手を握った。
「自分のことをあまり低く見積もったらだめよ。自分に対する評価は、周りからの評価にも直結するから。自分はすごい、偉い、って、桐島さんの場合はちょっとやりすぎかもってくらい思って構わないと思うわ」
「本当に、自信がないんです。そんなふうに言っていただけるのはすごく嬉しいんですけど、わたし、篠塚さんみたいにはなれません」
自分の声は、思っていたよりもか細く聞こえた。
ほとんど泣く寸前だった莉奈に、篠塚は対照的に力強い声で激励してくれた。
「わたしみたいになる必要なんてないのよ。わたしはわたしだし、桐島さんは桐島さんでしょ。わたしとあなたは違う。同じじゃないんだから同じになる必要もないの」
しゃんとしなさい、と、篠塚は莉奈の背中を叩いた。
その時のことは、今でも鮮明に思い出せる。
不安だった。この冬が始まる時も、初めての自分の立場に戸惑いのほうが大きかった。
佐竹や椎名たちが自分のことを良く評価してくれていることは伝わってくるものの、その評価に見合うほどの人間になれているのか、手探りだった。
それでもやってこれているのは、篠塚にあの日、思い切り喝をいれてもらったからかもしれない。
明鏡止水の瓶は、いつの間にかほとんど空になっていた。篠塚の頬は、りんごのように赤くなっている。
「篠塚さん」
「んー?」
「わたし、篠塚さんのおかげで、今もずっと楽しくやれてます」
目の前の大先輩は、お猪口を持つ手を中途半端な位置で止めたまま、莉奈をじっと見つめている。
その目を真っ直ぐに捉えてから、莉奈はゆっくりと頭を下げた。
「篠塚さんがいてくれたから、わたしはホテルマンになれました」
「……ありがとうね。わたしも、桐島さんに出会えてよかった。こんなにも立派な後輩ができて嬉しいよ」
夜が更けていく。
他の客たちはすっかり寝静まってしまっているが、五人の笑い声は日付が変わってからも聞こえていた。
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